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第38話 灰色の女

 エリナが佐藤のすぐそばに降り立って身を獣のように低く構えて唸り、最大限の警戒を灰色の女に向けた。

 女はエリナを一瞥し、静かに口を開いた。

「見た目より賢い子のようね。飛び込んできたら叩いてやろうと思っていたのに」


 女は足元に転がっているレデオンの頭を小突いた。

「いつまでそうしているつもり?」

「はぁ……。よくもサプライズを台無しにしてくれたね」

 レデオンはゴボゴボと不快な音をたてながら喋った。


 灰色の女は頭だけのレデオンの髪を掴んで無造作に持ち上げた。

「下らぬことで時間を使わないように。用は済んだのだから帰りましょう」

 レデオンの首から急速に根が伸び、切断された胴を掴み、胴はさらに下半身を根で捕まえて互いに絡みついて引き寄せ、元の体へと戻った。

 がらんと音をたてて鞘が抜け落ちる。

「じゃじゃーん!」

 全ては無駄だと見せつけるためレデオンは両手を広げ、道化のようにわざとらしく頭を下げた。


 その時、黒い魔力の矢がレデオンの頭を貫き、僅かに遅れて佐藤の後方から弓のしなる乾いた音が響いた。

 レデオンの頭を貫いた矢は霧散して消えた。レデオンは射貫かれた衝撃にふらつきながらも立ち直って、矢の放たれた方に目をむけて顔を歪ませた。

「また、あの女か」

 手をかざし、魔力の矢の狙いを定める宮之守の姿があった。


「無視しなさい。宗主へ挨拶をする時間を作ったのだから、今度はこちらとの約束を果たしてもらう。忘れないで」

 黒い魔力の矢が続けざまに二回、射られた。矢はレデオンと灰色の女の頭を正確に狙っていたが命中する寸前で止まり、霧となって消えた。


 灰色の女は口から白い煙を吐き出し、煙幕が二人の周囲を覆い始めた。

「あぁ、そうだ。その前にもう一回サプライズを」

 レデオンが呟いた。

 煙幕から槍が飛び出し、エリナの体が貫かれてガードレールに磔にされた。


 エリナは素早く槍を折って引き抜こうとしたが、体の奥に引っかかり動かない。体の力が急速に失われていく感覚があった。

「エリナ!」

 佐藤が槍を掴んだがやはり抜けない。


「では、ごきげんよう」

 女は完全に姿か見えなくなる前にスカートの裾を持ち、優雅にカーテシーを披露した。

 煙は二人を完全に包み込んだかと思うとすぐさま霧散し、二人は跡形も残さず姿を消していた。


 宮之守はエリナの傍に駆け寄った。

 エリナの腹部に刺さった槍からは根が伸び始め、浸食しているようだった。

「これが奴が我にこだわる理由か。力が取られていくのが分かる」

「何を冷静に分析してやがる!」

「下がって! 私の魔法で焼く!」

 宮之守がエリナの腹部に手をそえた。

「痛いだろうけど、堪えてよね」

「かまわ……あ、がっ!」

 エリナは体を弓なりにしならせて苦悶の表情を見せた。じりじりと黒い煙が上がり、肉の焼ける臭いがした。


 槍は焦げ、灰となって崩れた。

 エリナはすぐに元の表情に戻り、腹部を確かめるとすぐに立ち上がって痛がるそぶりもなく歩き始めた。

「少し休んでいた方が」

「この木。焼けるか?」

 エリナはレデオンの手によって変異した木を撫でた。枝の先や根元には犠牲者の一部があった。


 宮之守は思わず目を背けた。

 それほどまでに凄惨で言葉にすることも憚られる光景が広がっている。

「せめて人として弔ってやりたい。このままでは不憫だ」

 エリナはそれまで聞かせたことのない、穏やで、優しい声をしていた。

 エリナはあたりに目を向け、歩き、自らの手で殺した一人の女の傍に歩み寄った。すると屈んで目を閉じさて体を仰向けにし、手を組ませてやった。エリナはそれを順々に、一人ずつ丁寧に始めていった。


「エリナ」

 佐藤が声をかけた。

 自分の手で民間人を殺めたことを真っ先に決断できたのはエリナだ。それをとやかく言うつもりはなかった。

 それに咎めるような資格もない。自分自身も多くの人をここで殺したのだ。たとえレデオンに操られていたとしても事実が消えてなくなるわけではない。

 ただ確認しておきたかった。人を殺したとき、どう思ったか。


 エリナは振り返り、佐藤を見つめた。ただ静かに、まっすぐと。

「なんだ?」

 瞳はいつもの黒い色に戻っていたが、温かみを失ったように見え。穏やかで柔らかな声色から受ける印象とはまったく異なるものだった。


 佐藤は自分の正当性を証明したかっただけのバカな質問をしそうになったことを恥じた。齢五百を越えるエリナであっても人の死に傷ついていないはずがないのだ。

「いや……なんでもない」

「こうする他なかった。あの魔法を解く術は我の知る範疇において存在しない」


 佐藤はその場に座り込んでガードレールに体を預けた。今までにない疲労感に包まれている。

 灰色の女によって背中を打ち付けられていたのもある。

 たった一度の衝撃波に並の人間であれば骨を容易に砕き、命を奪う威力が込められていたのだが、佐藤が起き上がれずにいたのはもっと別の理由だった。


 全てが面倒でありたかった。そこに押し込めてしまいたかった。

 立ち上がればより多くの人の死体が視界に入る。意識してしまう。今でも視界には血だまりが目に飛び込んでくる。

 人の感覚では認識できない緩やかな傾斜によって血は集まり、小さな川となって排水溝に流れていっている。

 貫かれ、腹を裂かれ、首を斬られ、心臓から溢れた幾人もの血液が路面を濡らし混ざり合っている。


 死を懇願する者を殺すことと、死を望まぬ者を殺すことは違う。

 罪のない人々を殺すこと。自ら加担してしまった多くの不条理な死が罪悪感となって押し寄せ、心と精神を責めるのならいっそ面倒なととして片づけて遮断してしまいたい。麻痺させ、感じないようにしたい。佐藤はそう願った。


 佐藤は怠惰でありたかった。

 どうしようもなく怠け者で、めんどくさがりで。口も悪く、愚痴も多い。

 彼をそうしたのは二度の両親との別れと、先の見えない辛く長い魔物との戦いであった。戦いの中で相手を倒す興奮と高揚感に浸っていればひと時は辛さを上書きできたが、一たび戦いが終われば救えなかった者達の顔が現れる。

 隣に立っていた者が今日はいない。地図にあった村や街が消える。引退して後には酒に溺れ、ただ栄光のみを武勇伝として語った。


 佐藤の願いは儚く、一呼吸ごとに侵入する血の匂いと、血と肉を斬った感触が麻痺させることを阻んだ。嘆く声やサイレンの音と光が、おまえがやったことだと責めたてる。

「俺は何人、殺した?」

 意図せず声に出していた。

「考えても仕方あるまい」

 エリナは死者を弔いながら淡々と答えた。果たして本当にそうだろうか? 佐藤は自問することを面倒だと片づけたかった。


 佐藤は顔を上げて宮之守を見た。

「お前なら、どうする?」

「私は……」宮之守は声を詰まらせ、目をつぶって、それから佐藤の目を見た。「佐藤さんは、できる限りのことをしました」

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