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第12話 エリナの目と世界の渦

 エリナは何も言わず佐藤を見上げる。無言の視線に佐藤は不快感をあらわにした。

「なんだよ」

 エリナは腕を組み、顎に指先を軽くそえて下を向く。

「いやな。無知ゆえに恐ろしいと感じることを恥じる必要はない。そう思っただけのことだ。ただ、猿を相手にするのはこういうものか、とも思ってな」

 佐藤の右の瞼がぴくぴくと動く。

「猿……」


 相手は子どもでただの自称の女神だ。佐藤は自分に堪えるように言い聞かせる。

 エリナは顔を上げた。

「遠慮なく言ってみろ。何が怖い」

 佐藤は深呼吸した。自分は大人だ。イライラしてそれを子どもにぶつけてはいけない。アンガーマネジメントだ。入院中に宮之守が得意げに言っていた。怒りは数秒しか持たない……とかなんとか。

 佐藤はちゃんと聞いていなかったが、たぶんこんな感じだろうと自分を律する。

「行き先が見えないよりは見えたほうが良い。今までどんな感じでこれを使ってきたか知らないが、見える方が戦術的に使いやすい。と、思った。それだけだよ」

「なるほど、猿にしては良い質問だ」

 佐藤の額に血管が浮き上がってきていた。

「結論から言おう。透明にすることはできない」

「ほー……」

「黒く見えるのは時の壁のせいだ」エリナは佐藤の目を指さした。「人の目では時の壁の向こうを見ることができない。だから黒く見える。如何に魔力の扱いに優れようがな」

 エリナは続ける。佐藤は頭を掻いた。

「自然のすべては時間に沿っている。空気の流れ、水の流れ。光もそうだ。移動すること、生きることは時間に沿って行われる。これはいかなる神であっても覆せない世界の法則だ。だが唯一、その流れと違うものがあり、それが魔力の流れであり。転送魔法だ」


「へぇ……」

 佐藤はまた頭を掻いた。自分で聞いておきながら面倒になってきていたのだ。

 佐藤からすれば魔法陣の向こうがどうやっても見えないという回答だけで充分であり、理屈などどうでもよい。戦術的にどう利用するか。佐藤にとってはその一点のみ考えればよいことだからだ。

「転送魔法とはその魔力の流れにのる法だ。詳細は省くが、これによって移動できる。だが転送先とここではあらゆる事象の流れが違うことに変わりはない。どうして黒いのか。そう言ったな」

 佐藤は肩をすくめた。


「単純な理由だ。流れが違うとはつまり双方に何も流れないということ。光の流れも此方に流れてこないし、あちら側にも入らない。光が届かない。届かないということは光を感じ取って物を認識する人間にはあちらが見えないというだけだ。結果、黒く見える。裂け目も同じ理屈だ。魔力によって裂け目だけを認識できる」

「その口ぶりだとお前は見えているってことよな。黒以外の色が」

「無論。女神は全てを魔力で見ているからな」

 佐藤は笑い出した。心の底からバカにしたように。

「ハっ! 本当かよ」

「我を疑うのか」

 エリナの眉間に微かに力が入ったが佐藤は気づかない。

「何も、別に疑っちゃいねぇよ。でもそうだな、証明してほしいね。できるなら」

 佐藤はいじわるな笑みを浮かべ、エリナを挑発する。

 実はハッタリなのだろう? 見えていないのは自分も同じでないのか?

 エリナはため長い息を吐き出した。佐藤へと近づいて見上げ、深い黒の瞳で見つめた。闇よりももっと深い暗黒の色だ。


「背が高いな。少し屈め」

 佐藤は怪訝な表情をする。

「なんでだよ」

「証明すると言っているのだ。近づけろ」

「へいへい」

 しぶしぶ佐藤は従った。エリナは佐藤の顔が自分と同じ高さになったところで両手で頭を挟みこんだ。

「うっ!」

 少女の華奢な腕とは思えない万力のような力が佐藤の頭をがっちりと固定していた。子どもの体で出せる力の範疇などではない。腕に力が入っている様子はないがこの細い腕には宮之守と病院で初対面した時の不可視の魔法と同等、あるいはそれ以上の力がこもっている。

「おまっ……」

「大人であるなら、自分の言葉に責任をとれ」


 向かい合うエリナの黒い瞳には佐藤が映りこんでいた。さらに奥には佐藤の瞳に映るエリナの姿。合わせ鏡の様に連続する互いの姿があった。

「しっかりと目を開き、よく見ておくことだ。我の瞳に映る。世界の渦を」

 エリナはゆっくりと瞼を閉じた。周囲の風がかすかに騒めき、鈴の音が聞こえ始めた。

「渦に溺れたその時は引き上げてやる」


 チリリ、チリン。


 鈴の音が大きくなる。耳元で鳴っているかのようだ。ガラスの鈴が奏でるような澄んだ音があたりに響き、鈴の音以外を払いのける。まるで全ての不浄を浄化しているかのようだ。


 チリリ、チリリン。チリン……。そして止まった。何も聞こえない。


 エリナがゆっくりと瞼を開くと黒い瞳は虹色の瞳へと変貌していた。回転。渦。衝突。反射。赤から黄へ、緑から青へ。絶えず変化し、光を反射するプリズムのようであり、無限に奥へ奥へと続く万華鏡ようでもある。エリナの本来の瞳の色だった。


 佐藤は自分の呼吸が自然と早くなっていることに気が付いた。それだけではない、鼓動が胸を内から力強く叩き脈打っている。全身の毛が逆立ち、瞳孔が開いていく。

 時空を司る女神エリナ。彼女の目は世界中に満ちている魔力を見ることができるのと同時に魔力の出入口であった。絶えず魔力が流入と放出を繰り返す世界を見る目。彼女の力の根源。間欠泉の様に噴出する魔力の激流に佐藤の体が曝されていた。

 汗が額を伝い佐藤の目に入る。それでも目を離すことも閉じることもできなかった。流れる世界の渦に魅了されていたからだ。


 エリナの輝く虹彩の奥に佐藤は雪のように舞ってキラキラと輝く、小さな何かを見た。虹彩の中を魔力の流れに乗って滞留と流動を繰り返すそれは世界の断片だ。

 佐藤は世界を見た。巨大な木々の生い茂る世界。巨木に絡まる蔦の様に巻き付いて作られた集落。燃え盛る炎と黒い岩の世界。巨大なダムと要塞。黒い煙。巨大な幾匹もの竜が我が物顔で空を旋回し、地上と空を焼く世界。世界が移り変わる。世界が周っている。死。生。再生。全ての世界が繋がり、合流と分岐を繰り返す。佐藤はその渦の中心にいた。


 気が付くと、別の場所に立っていた。あたりを見回す。空は赤黒く爛れ太陽は隠れて淀んで乾いた空気に満ちている。周囲にさっきまでのビルは無い。駅も線路も消え失せていた。

 足元には石畳の道が出現していた。両側に建てられた石と木の建築物の窓や扉は木板で硬く閉ざされるか破壊され、風に吹かれてただ静かに朽ちるのを待っていた。建物の端や道には砂が不自然に積もっている。人の姿はない……いや、あの不自然な砂の盛り上がりは人ではないだろうか。盛り上がった砂が風に吹かれて舞って流れ、力なく開いた手が姿を表す。死の臭いがした。 異世界だ。佐藤のいた世界とも違う、また別の異世界だった。


 佐藤のすぐ横を黒髪の子どもが通り過ぎる。顔は見えなかったが、泣いているように見えた。ひどく怯えた様子で走り、その後を兵士二人が怒号を上げながら追いかけていった。

 子どもは躓き、転ぶ。それでも這いつくばって前に進もうと足掻くがその小さな手を兵士は容赦なく踏みつけらた。子どもが悲鳴をあげるも兵士は脚をどけようとしない。子どもが見上げた兵士の顔には激しい怒りと憎悪が浮かんでいた。兵士は子どもの髪を掴んで乱暴に持ち上げる。子どもは抵抗するも、大人の力には敵わない。兵士は子どもを二度、殴りつけ、地面に倒して押さえつけた。

 佐藤は子どもの元へと走り出した。

 しかし体は粘度の高い液体の中にいるかのように鈍く重く、自由に動いてはくれない。この世界だけで彼だけが鈍化していた。このままでは届かない。兵士は剣を抜き、子どもの首へピタリと剣をあてた。


「止め……うわっ! 冷……!」

「気が付いたか」

 冷たい水の中に佐藤はいた。口の中は塩辛く。鼻の奥まで侵入した水が鼻腔を刺激しイガイガとした不快感に満ちている。佐藤はうろたえて叫ぶが水がすぐさまそれを塞いでしまう。

「今、引き上げるから騒ぐな」

 頭上から声がするが佐藤にはそれがどこから来ているのか分かっていなかった。


「溺れ……」

 頭上に現れた魔法陣から手が伸び、佐藤の背中を掴んで次の瞬間にはコンクリートの地面に叩きつけられていた。佐藤は両腕をついて激しくむせる。エリナはその様子を腕を組んで見下ろしていた。

「お前……ゴホっ。さっきの……!」

「狼狽えるな。阿保が」

 佐藤は膝立ちになってエリナを指刺す。

「なんなんだ! 一体」

 エリナはぐるりと目を回した。

「騒ぐな。今は立て」

「あやうく溺れるところだったしぃいーだだだだだだ!!」

「さっさと立てと、言っている」

 エリナが佐藤の耳を掴んで無理やり立たせようとする。

「立つ! 立つから離せってぇのバカ!」

「騒ぐなと言っているだろうが阿保!」

 エリナが佐藤の顔面に平手打ちする。右の頬を抑えながら佐藤はふらふらと立ちあがり抗議の目を向ける。

「良かったな。顔に神経が通っている証だ」

「お、ま、え、なぁ!」

 エリナは佐藤の方を見ない。別の方に注意を向けていた。

「だが今はそんなことは後だ。争っている時ではない」

「んだと? 喧嘩ふっかけてきたのはど……――」佐藤は視線を感じ、エリナと同じ方へ視線を向ける。「――どちらさん……?」


 視線の先には廃倉庫の開きかけの錆びついた大きな引き戸があった。奥は暗く見えないが、光を反射する二つの点があった。

「簡単に状況を説明してやる」

 佐藤は無言のまま体をそちらへ向け、剣を隠していた布を解いて鞘から聖剣を抜きはなつ。息を吐き、体の正中線上に刃を揃え、構える。

「お前は我の魔力に当てられて意識を失った。魔力酔いだ」

 佐藤は舌打ちした。

「そしてここは我が定点観測によく使っている廃村の漁港だ」

 二人は陽の光の当たる場所に立っていた。

「お前の酔いを覚ますために海へ落としたのだが――」

 西へ傾いた陽の光は倉庫の中には届かない。磯の臭いが強くなった。ガチガチとした音を鳴らしながら大きな何かが地面を穿ちつつ接近してきている。

「――どうやら、ここに裂け目ができていたようだ。魔力の流れに違和感があり、お前を起こすついでに来てみればまさかこのような大物とは。ここを選んで正解だったな。お手柄だぞ」


 赤茶色い巨大な鋏が扉を挟む。錆びつき不快な金切り音を立てながら扉は歪み、へし折られ。ぞんざいに投げられた。投げられた扉は二人の頭上を飛び越えて背後の海へと落下して盛大な水しぶきを吹きあがらせた。二人に海水が降りかかる。

 影の中から陽の光の方へと一歩ずつ、それは体を太陽光の下と晒し近づいてくる。二人の視線が徐々に上へあがっていく。

「ぜんぜん嬉しくねぇし、めちゃデケぇし。塩気のあるものつってもこれは違くねぇか」

 巨大な蟹が、二人を見下ろしていた。

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