「若菜さん、料理どうだった?」
リビングのソファに座っている若菜に一美が声をかけた。
「はい。すごくおいしかったです。こんなにおいしい鯛飯を食べたのは初めてです」
「そういってもらえると、母さんと二人で腕によりをかけて用意した甲斐があるわ」
一美は若菜に笑いかけると、その隣に座った。
なごやかなお茶の時間のあと、若菜は青柳家で夕食もとっていた。今日はこのままこの家に泊まる予定だ。
「あの、私は本当に手伝わなくてもいいんでしょうか」
若菜はちらりと台所を見やった。そこでは『後片付けは男子の仕事』という青柳家ルールに基づき、浩二と父親が並んで食器を洗っている。母親もまた、浩二と若菜を泊めるための部屋の用意をしていた。
「いーのいーの。二人とも料理作るのはからっきしだもん。これくらいは労働させないと。若菜さんも、結婚したらやらせるといいよ」
くすくすと一美はまだ笑っている。
「ふふ、ちょっと安心したな。若菜さん、いい人みたいだから」
一美は笑う。
「あの子、一回失敗してるから心配してたんだよね」
「失敗?」
若菜は驚いて一美を見つめた。この話の流れであれば失敗とは結婚の失敗を指すのだろう。だが若菜の記憶では浩二は未婚のはずだ。
「あ……えっと……若菜さんもしかして浩二からきいてなかった?」
一美の顔が焦りでこわばる。きいていないとは思ってなかったらしい。バツイチ、子持ち、など危険なワードが若菜の頭のなかでぐるぐる回る。浩二は優しい誠実な人のはずだ。嘘をつくとは思いたくないが……。
「ごめん忘れて! ……って、無理か。気になるよね」
当たり前だ。若菜はこくこくとうなずく。
「……うーん……浩二たちはまだお皿洗ってる、ね」
一美は台所をうかがった。そこではまだ浩二たちが水音をたてて洗い物を続けている。一美は彼らに話が聞こえないよう声のトーンを落とした。
「私が教えたっていうのは内緒にしてね。……実はね、4年前に一度結婚が破談になったことがあるの。今日みたいに浩二が恋人を連れてきて、挨拶して、縁談をすすめようってことになったんだけど……」
「破談になったんですよね? 何があったんですか?」
ふう、と一美は息をついて眉間にしわをよせる。
「その女、結婚詐欺師だったの。未婚で浩二の一つ上って話だったんだけど、本当は十歳上のバツイチ子持ち。しかも父親のわからない子供を2回も堕ろしてた」
「……!」
『堕ろした』の一言に若菜の顔が引きつった。
「同じ女として信じられないよね。二回もなんてさ」
「そ……そうですね」
「顔みせの挨拶の次の日に、お父さんがどうしても素性が気になるって言って興信所やとってね。そうしたら出るわ出るわ、もう真っ黒の嘘だらけでさ……やーあの時は大変だったわ」
一美はしみじみと頷く。結婚詐欺師との破談騒動だ、今は軽く話しているが当時は家族全員が本当に大変だったのだろう。
「私たち家族はみんな若菜さんに感謝してるの。あんなことがあって傷ついてた浩二に、また結婚しようと思わせてくれたんだから。これからもよろしくね」
「……あ」
若菜が答えようとしたその時、リビングに母親が戻ってきた。
「浩二? ちょっといいかしら」
「何、母さん。布団を押入れから出すのを手伝ってほしいとか?」
浩二が洗い物の手を止めて顔を出す。
「それはもうやっちゃったわよ。それより、あなたお仏壇に手をあわせてないでしょ。私も若菜さんが来て舞い上がって忘れてたわ」
「あーそういえば」
まだ水滴のついた手で浩二はぽりぽりと頭をかく。
「お仏壇、ですか?」
若菜が声をかけると母親は頷く。
「ええ。若菜さんもごあいさつをしていただけるかしら」
「はい、もちろん」。
若菜が立ち上がると母親は二人を連れて奥の和室へと案内した。六畳ほどの小ぢんまりとした部屋には立派な仏壇と何枚もの遺影が飾られていた。浩二は慣れた様子で仏壇前の座布団に座る。若菜もその後ろに座った。
元は大家族だったのだろうか、遺影はモノクロからカラーまで何枚もある。仏壇前に座っていると、彼らに一斉に凝視されているようで若菜は落ち着かなかった。
浩二はチーン、とおりんを鳴らす。そのまま丁寧に手をあわせると囁くような声でお経を唱えた。静かな部屋の中で、浩二の声だけがゆっくりと和室の空気を満たしてゆく。
「……もういいよ」
お経が終わると、浩二は座りなおして若菜を振り返った。若菜も顔をあげる。
「ごめんな、つきあわせちゃって。うちの親父はサラリーマンだし、血筋だなんだっていう時代でもないんだけど、親戚の中ではうちが本家筋ってことになってるんだ」
「でも、浩二さんはお仏壇にまつられてるご家族のこと、大事にしてるんでしょ?」
若菜がそう言うと、浩二はちょっと驚いたようだ。
「そう見える?」
「だってお経をあげてるとき、すごく優しい顔してたから。子供のころはおばあちゃん子だったりする?」
「う……実は、ばあちゃんっていうよりはひいばあちゃん子……だった」
おばあちゃん子、という表現が二十代の男としては恥ずかしかったのだろう。がりがりと頭をかきながら浩二は顔をそむける。
「うち、共働きだったからじいちゃんとばあちゃんと、それからひいばあちゃんの三人で育てられたようなもんなんだ。その……引く? こういうの。いい年しててもひいばあちゃん好きとかって」
「どうして? いいじゃない。浩二さんが好きだったんだから、とてもいい方たちだったのね。私も会ってみたかったわ」
この家に嫁ぐからには、お経も覚えないとね。そう言って若菜が微笑むと浩二はほっと息を吐いた。
「は……はは、やっぱり若菜はいいなあ」
「え? 何、どうしたの?」
「んー、まあこっちの話。さて、そろそろ寝る準備をしようか」
苦笑すると浩二は立ち上がった。すぐ隣の部屋に続くふすまを開ける。そこには真新しいシーツにくるまれた布団が二組敷かれていた。
「あ、もしかして隣が客室?」
「そう。田舎っていってもそんなに大きい家じゃないからさ。空いている部屋はここしかないんだ。あ、気持ち悪い?」
「ううん、大丈夫」
若菜は頭を振った。仏間で遺影に囲まれて寝てくれと言われたら困るが、その隣はただの和室だ。ふすまを閉めてしまえば気にならない。
「それに、幽霊が出ても浩二さんが大好きだったおばあちゃんたちだもの」
そう言うと、浩二は笑顔で若菜の頭をなでた。