その年の暮れに仕事で出向くこととなったのは、俺の暮らす街から遠く離れたN県の山間部だった。
大規模な都市計画が進行中のN県では、今後の発展に備えて様々な施設や居住区の拡大が進められ、この山間部に建てられる宿泊施設もその内の一つだった。
そんな大掛かりな建築作業ということもあって、その人手は様々な県から寄せ集められ、数ヶ月にも及んだ作業はいよいよ佳境を迎えようとしていた。その後発組として合流したのが、俺を含む二十人程の要員だった。
男ばかりが百人近く集まった現場では常に怒号が飛び交い、寒さに震える中での作業は過酷さを極めた。けれど、仕事が終われば皆気の良い人達ばかりで、宿泊先で過ごす夜は毎日が宴会のような楽しさだった。
そんな中、特に俺のことを目にかけてくれたのが、
一見すると強面で近寄り難い雰囲気はあるものの、クシャリと笑ったその笑顔はとても優しく、その
「おい、純。あまり呑みすぎるなよ」
「大丈夫っすよ、寝坊なんてしませんから」
「そっちの心配じゃねーよ。身体は大事にしろよ」
目の前にいる靖司さんは手元のグラスを飲み干すと、「お先」と告げてそのまま席を立った。
「……あ、お休みなさい! また明日!」
慌てて口を開くと、そんな俺に向けて軽く後ろ手に手を上げた靖司さん。
そんな靖司さんの背中を見送りながら、俺は焼酎の入ったグラスをグビグビと飲み干した。
「やっぱカッコいいな……」
そう小さく声を漏らすと、俺の隣にいる高田さんがすかさず口を挟んだ。
「背中で語るってやつだな」
「背中で語るっすか……。確かに、背中カッコいいっすよね」
男らしくガッチリとした身体ながら、どこか哀愁漂う後ろ姿。そんな靖司さんの姿を思い浮かべながら口にすると、そんな俺を見て再び口を開いた高田さん。
「なんだ、純。お前、やっさんの背中見たことあるのか?」
「え? 背中っすか……? いや、ないっす。何かあるんですか?」
この場合、高田さんの言っている“背中”とは、裸の背中という意味だろう。そう解釈した俺は、そう答えると高田さんの様子を伺った。
「デケェの
そう言いながら、親指でクイッと背中を指差した高田さん。
おそらく、入れ墨が入っているという意味なのだろう。職種柄、そんな人達も珍しくはない。
「へぇー、そうなんすね」
「ま、誰も見たことないんだけどな」
「靖司さん、いつも風呂別っすもんね」
「そうなんだよ。いつも先に入っちまうからな」
確かに、
そう思った俺は、その後も特にその話には触れることもなく、そのまま三ヶ月の時が過ぎていった。
◆◆◆
「──皆んな! 長い間、本当にお疲れ様でした!」
そんな言葉を合図に開始された宴会。長期間に及ぶ仕事を無事に終えられた達成感から、その日の宴会はまるで忘年会のような盛り上がりをみせた。
明日になれば皆方々へと帰宅してしまうということもあって、きっと名残り惜しさのようなものがあったのかもしれない。いつもなら早々に切り上げてしまうメンバーも、今夜ばかりは一人も欠けることなく宴会は続き、気付けば四時間もの時間が経過していた。
そんな中、ほろ酔い気分でフラリと立ち上がった俺は、靖司さんのいるテーブルまで移動すると口を開いた。
「靖司さん。自分、今から風呂行こうと思うんすけど、良かったら一緒にどうですか?」
いつもなら、いくらお酒が入っているとはいえ、こんな誘いは決してしなかっただろう。例え誘ったとしても、どうせ断られることは分かっているのだ。
けれど、一緒に過ごすのも今夜が最後かと思うと、どうしても誘わずにはいられなかった。
「そうだな。ちょうど風呂に行こうと思ってたとこだし、一緒に行くか」
「……マジっすか!? 断られると思ってたんで、めっちゃ嬉しいっす!」
そう言って喜んでみせれば、そんな俺を見て小さく笑みを溢した靖司さん。
「そんな喜ぶほどのもんでもないだろ」
そうは言いながらも、まんざらでもなさそうな顔をする靖司さんは、手元のグラスを空けると静かに席を立った。
「行くぞ」
「はいっ」
靖司さんの後について風呂場へと向かった俺は、その嬉しさからニンマリと微笑んだ。
やはり、裸の付き合いがある方が心の距離がグッと縮まるような気がする。「靖司さん。今度、靖司さんに会いにY県に遊びに行きますね」
「おう。楽しみにしてるよ」
「靖司さんも、今度K県に遊びに来て下さいよ。旨い店、色々紹介するんで」
「そりゃ楽しみだな」
「紹介したい女もいるんすよ。香奈っていう三つ下の女なんすけど、実は、そろそろ結婚しようかなーなんて考えてて」
「そうか。結婚はいいもんだぞ」
「って言っても、プロポーズもまだなんすけどね。……なんか照れ臭いっすよね、プロポーズって。何て言おうかなーなんて、もう悩んじまって」
浮かれ気分でいつも以上に
とはいえ、大して気にもならなかった俺は、そのまま手拭いを掴むと浴場へと足を進めた。
「靖司さんは、今付き合ってる女とかいるんすか?」
今まで、噂程度でしか聞いたことのなかった靖司さんのプライベート。以前から気にはなっていたものの、こうして改めて直接聞くのは初めてのことだった。
「嫁が死んでから、そういうのは一切ないな」
「えっ!? こんなにカッコイイのに……。全くないんすか?」
「全くねぇよ」
「いやいや、女がほっとかないと思うんすけど」
「これ見たら、震え上がって逃げるだろ」
そう言って背中を指差した靖司さんは、俺と視線を合わせると微かに微笑んだ。
背中一面とはいえ、たかが入れ墨程度でそこまで怖がるものなのだろうか? 確かに、入れ墨自体に嫌悪感を抱く人は一定数存在する。とはいえ、そこまでの障害があるとは思えなかった。
「何が入ってるんすか?」
「
その言葉を聞いた瞬間、きっと、靖司さんは亡くなった奥さんのことを未だに忘れられないのだと。俺はそんな風に思った。
いつもどこか寂し気な瞳をしていたのも、きっとそのせいなのだろう。断ち切れない想いを一人抱えて生きているとは、なんとも切なく悲しいものだ。
「紫苑の花……いい花言葉っすね」
掛ける言葉が見つからずにそう答えると、そんな俺の様子を察したのか、薄く微笑んだ靖司さんは口を開いた。
「なに、寂しくはねぇよ。いつも嫁が一緒だからな」
そう告げながら、自分の背後にチラリと視線を送った靖司さん。その視線を辿るようにして背中に視線を向けてみると、そこには背中一面を覆うほどの紫の花が綺麗に咲き誇っていた。
その中央に彫られているのは、きっと亡くなった奥さんであろう綺麗な女性の姿。その姿はなんとも繊細で美しく、まるで生きているかのようなリアルさを感じる。
「綺麗な人ですね……」
思わず
あまりの恐ろしさにその場で身を固めた俺は、今にも叫び出しそうになる声を必死に堪えた。チラリと鏡越しに見える靖司さんは、そんな俺を見て悲し気に微笑んだ。
けれど、その瞳に妖しい光が宿っていたことを、俺は決して見逃しはしなかった。
靖司さんの背中に彫られた、美しくも恐ろしい微笑みを浮かべた女性。
その瞳が動いて見えたのは、決して目の錯覚などではなかった。
その入れ墨の女性は、間違いなく靖司さんの背中で生きているのだ。
─完─