「それから優花。お前も死んだはずだろ? 七年も前に」
一瞬の沈黙。
そして優花ははじけるように笑い出した。
「実はそうでしたー。へへ、思い出したんだ?」
「ああ。お前は俺が高校3年生のときにガンで死んだ。ふたつ年下のお前は……まだたった十五歳で……死ぬ前にあそこに行きたい、ここにも行きたい、って言ってて」
「一時退院の時とか、結構無茶なことやって、いろいろなところに連れていってくれたよね。五色台とか、屋島とか。省吾先輩も共犯になってさ」
「そんなお前を見ていたから、俺は旅行会社に入って、少しでもたくさんの人を望む場所に連れていきたいって思ったんだ」
「うん、知ってる。ずっと見てたから。……幽霊の私がこう言うのはちょっと変かもだけど」
ため息をつく優花。
「あのね、お兄ちゃん。死んじゃだめだよ」
「優花、俺は」
「そのつもりだったんでしょ? ずーっと放り出してきた実家に突然帰ってきて。荷物には着替えとお酒と、首吊り用のロープだけ!」
「そうだ……その通りだよ。詐欺師に騙されて、お世話になった会社を潰して! しかも恋人には裏切られて! 誰かを頼ろうにも、家族はいない。友達もいない! ……死にたい。死にたいんだ優花。俺もお前たちがいるところに行かせてくれよ」
「だめだよ」
妹はきっぱりと俺を拒絶した。
「なんでだよ!」
「私たちが一番嬉しいことって何だと思う?」
「……わからない」
「お兄ちゃんが生きてくれることだよ。私たちは死んだ。でもね、私たちのことを知ってる、私たちの大好きなお兄ちゃんが生きてる。お兄ちゃんが私たちの希望なんだ。……お兄ちゃんがそんなふうに落ち込んで、死にたいなんて言ってたら、私たちは安心して死んでられないよ。お願い、頑張って生きて、お兄ちゃん」
「……無理だよ! もう頑張れない……こんな寂しい気持ちで、たった一人で生きていけるわけないだろう!」
「バカだね、お兄ちゃんは」
「なんだよ……」
「お兄ちゃんがひとりぼっちなわけないでしょ? 会社の社長さんたちがいるし、翔子さんだっているのに」
「社長は会社を傾けた俺のことなんて、愛想をつかしてるよ。翔子は……俺を裏切った」
「そのことなんだけどね」
「え?」
「浮気は誤解だよ」
にこっと優花が笑う。
自分だってそう信じたい。
でも脳裏に焼き付いた裸の男の姿がそれを許してくれない。
「何が誤解だって言うんだ……」
「その裸の男の人と翔子さんが抱き合ってるところを見たわけじゃないんでしょ? 裸の男の人を見て、びっくりして翔子さんの家を飛び出してきただけで」
「それで充分だろ。一人暮らしの女の家に男が裸でいる理由なんてひとつしかない」
「お兄ちゃん、しっかりして!」
ぱん、と乾いた音がした。
優花が俺の頬をひっぱたいたんだ。
「翔子さん、とっても素敵な人なんでしょ? すごく真面目で、仕事に集中してるお兄ちゃんをずっと支えてくれてたじゃない」
「演技だったかも……」
「そんなわけないじゃない! 翔子さんと一緒にいて、楽しかったことも、嬉しかったことも、嘘じゃなかったでしょ? 嘘じゃなかったって、本心では思ってるでしょ? 大好きな人なんだから信じてあげて。少なくとも、ちゃんと話をしてあげて」
「優花……」
「大丈夫、翔子さんはいい人だよ。なにしろ、筋金入りのブラコンの私が、お兄ちゃんをまかせてもいいかなって思ったくらいなんだから」
「わかった。翔子のことを信じてみる」
「よろしい!」
優花が笑った瞬間、ガンガンという派手な音が俺たちの会話を遮った。
見ると、玄関の引き戸を誰かが叩いている。引き戸のすりガラス越しに見える人影は、ふたつのようだった。
「おい! 高柳! おるんか?」
低い男性の声。聞き覚えのあるものだ。
「勝さん? 勝さん、いるの?」
高い女性の声。これにも聞き覚えがある。
「あ……」
俺はあわてて引き戸を開けた。
そこには社長と翔子が立っている。
「高柳、ここにおったか……」
「勝さん!」
「ふたりとも、どうしてここに?」
「アホか、あんな遺書じみた辞職メール出されて心配せん奴がおるか。お前の恋人の翔子さんからも、『夜中にいきなり来て、飛び出してったー』いう連絡もろて一緒に探しとったんや」
「心配したんだからね」
「翔子、君は俺を心配してくれるのか?」
「何よそれ、彼女なんだから当然でしょ」
その顔に嘘はないようだった。
「でも……俺、君の家で裸の男と出くわしたんだけど」
「あー! やっぱり誤解してた!」
「誤解って何」
「あれは弟よ。あのバカ、大学のサークルで飲んで終電乗り逃して、人の家に泊めろって上がり込んできてたの。酒臭いから風呂入れって言ったら服だけ脱いで、そのまま廊下で寝始めちゃって……私の腕力じゃ服を着せることができなくて、そのまま毛布かけて転がしてたの」
「おとうと?」
「そう、不肖の、アホで、酒癖の悪い、弟! ……裸の若い男が私の家にいて、びっくりしたんだと思うけど、浮気なんかじゃないわよ。誤解なんだから!」
翔子の説明は一応筋が通っている。
でも、それは彼女の言う事が正しければ、だ。
まだいくらでも疑うことは可能だ。でも……。
『誤解だよ』
もう一度、妹が耳元でささやいた気がした。
「うん……誤解だよな。翔子を信じる」
「よかった……!」
「ほんまに心配かけよって。自殺でもするんちゃうか思て、慌てて来たんやぞ」
「実はそのつもりでした」
「え?」
「はぁ?」
ふたりがぎょっとした顔になった。
自殺をしようとしたことは、弁解のしようもないので俺は苦笑する。
「でも、祖母と親友と両親と……それから、妹に全力で止められました」
「え? ご両親と妹さんって……」
「俺が元気に生きてないと、おちおち死んでられないんだそうです」
「はあ……」
バン、と東雲が勝の背中を叩いた。
「そらそうや! 生きとるもんは、元気ようしとかな! ったく、真面目なお前のことやから、今回のことで責任感じとるんやろうけど、そんなん気にすんな! 確かに会社は痛手を負っとるけどな、これくらいのこと、今まで何度も切り抜けとる。社員が一丸になって頑張ったらどうにかなるがな。そんで、こういう時は、お前みたいによう働く社員がおらなんだらあかん。はよ会社戻って仕事手伝ってくれ」
「いいんですか? 俺が戻って」
「当たり前やろうが! お前にはやって貰わんといかん仕事がよっけあるんじゃ」
ピリリリリリ、という電子音が会話に割って入った。社長が慌ててポケットを探る。
「ああ、すまん。俺の携帯や。ちょっと待ってくれ」
社長は通話のために離れていった。それを見送ってから、翔子が俺の腕をつねってくる。
「もう、こんなことしないでよね」
「ごめん」
自分でも、ひどい行動だったと思うので、俺は素直に謝った。
「すごく……心配したんだから」
俺を責める翔子の声には涙が混じっている。
「うん、ごめん。君を疑って悪かった」
「本当だよ」
「君は俺を裏切らない。俺もこれからは君のことを裏切らないようにする」
「その約束、絶対守ってよ?」
「うん」
「なんやって?」
急に社長の声が大きくなった。その横顔はひどく慌てているように見える。
また会社で何かがあったのだろうか。
「どうしたんですか?」
「金が……見つかった」
社長は茫然としている。
俺も、同じような顔になっていると思う。まさか、金が戻ってくるなんて。
「本当ですか?」
「ああ。ちょっと待ってな。……ああ、うん、うん。それやったら、事務所で合流いうことで頼むわ」
社長は通話を切ると大仰にため息をついた。
「はあ……信じられんな、ほんま」
「何があったんですか?」
「あの詐欺師プロデューサーが、金持って警察に自主してきたんやって。なんか、うわ言みたいに『半透明の男に金を返せいうて脅された』って繰り返しとるって。半透明の男ってなんやねん。幽霊でも見たんかいな」
「あー……それは本当に、俺の親友の幽霊を見たのかもしれませんね」
そういえば、省吾が『なんとかしたる』って言ってたな。
「アホ、そんなことあるかいな。まあ、理由はなんでもええわ。金が戻ってきたんやったらなんとかなる。止まっとったアニメの制作とタイアップ企画を進めるで。これくらいの遅れやったらかわいいもんや、旅行シーズンまでになんとかしたる」
「社長、俺も」
社長に続こうとしたら、びし、と止められた。
「お前は今日は休め。出社は明日の朝な」
「でも」
「だめや。そんなよれよれで会社来られても迷惑なだけや。今日はなんかメシ食って、さっさと寝え。明日っからは、馬車馬のように働いてもらうけん」
「……ありがとうございます!」
「ほんだらな」
言うだけ言うと、社長はすぐに帰っていった。
あとには俺と翔子だけが残される。
「私の家に来る? ご飯、作ってあげるよ」
「ありがとう、そうする。あ、でもちょっと待ってもらえないか? 掃除するつもりで、雨戸を全部開けちまったんだ。閉め直さないと」
「手伝うよ。あれ、これは何? 黒い石って……置物にしては風変わりね」
翔子がふと玄関脇のサヌカイトに目をとめた。
「それはサヌカイトっていう石だよ。呼び鈴代わりに使ってたんだ」
「呼び鈴? これが?」
「叩いてみなよ。すごくいい音がするから」
「じゃあ、失礼して……お邪魔しまーす」
コーン、とサヌカイトの澄んだ音が響いた。