俺はふらふらと家から出ると、車に戻った。
トランクを開けて、持ってきた荷物に手をかける。
「今のは一体何だったんだ……白昼夢か? にしては妙に生々しい……」
生前とおなじ、にやっと笑う省吾。
その姿に幽霊と呼ばれる者のようなおどろおどろしさはない。
「省吾……」
「お兄ちゃーん?」
ぼうっとしていると、家の中から優花の声が飛んできた。
「あ、ああ。すまん、すぐ戻るー」
俺はあわてて荷物を持って家に戻った。
リビングまで持って行ってから、中身をあける。
「といっても、あんまり荷物は持ってきてないんだよな。着替えと……酒と……ん? 軍手とロープ? 俺、なんでこんなものを持って帰って来たんだ? 軍手は掃除に使うとしても、こんな太いロープ、何に使うつもりで……」
コーン、とまたサヌカイトが鳴った。
「……今度は誰だ? というか、何なんだ」
沈黙しているとややあって、再びサヌカイトが鳴る。
間違いない、このサヌカイトは俺を呼んでいる。
俺は意を決して玄関に向かった。
「……ど、どちらさま?」
「勝、お前なにびくびくしとるんや」
「あんたの実家やろ」
「父さん、母さん! どうしてここに!」
玄関にいたのは、両親だった。
「あんたが実家に帰ってくる、って優花から聞いてな。急いで来たんよ」
「間に合ってよかったわ。季節でもないのに帰ってきたけん、久々に大汗かいたで」
ふたりの額には、玉のような汗が浮かんでいる。
「ふたりとも……」
「久しぶりやなあ、勝。あんた、働き過ぎやったんとちゃう? こんなにやつれてしもて。人が折角お父さん似の男前に産んであげたのに、台無しやないの」
「うん……ごめん」
「えらい素直に謝ったなあ」
「ごめん」
俺は玄関に膝をつくと素直に謝った。
「何があったかは知らんけど、……これは重症やねえ」
「だいぶまいってるみたいやな」
うなだれた俺の背中を、母が優しくなでてくれる。
「あんたのこと、相談できる人はおらんの? 友達とか、会社の人とか。落ち込んどるときには、話を聞いてもらうだけでも楽になるもんやで」
「親友……は、もういない。同僚とか、社長とかには……申し訳なさすぎて、何も言えないよ」
「彼女とかはどうなんや。前にうちに連れてきてた翔子ちゃん。大学のころからの長いつきあいなんやろ? こういう時に支えてくれるもんとちゃうんか」
確かに、恋人は心の支えだ。
何もしてくれなくても、そこにいてくれるだけで前向きになる元気をくれる。
でも。
「翔子……とは」
「どした?」
「あいつとは、別れる……」
「ウソやろ? お前、うち連れてきたとき、滅茶苦茶仲がよかったやないか」
「そうそう。えらい可愛らしいお嬢さんで、見てるこっちが困るくらい、ベタボレやったのに。あの子、確かひとつかふたつ位お姉さんやったっけ。頼りないあんたには、ちょうどええ人やと思ってたんよ」
「でも! 浮気なんかされたら一緒にいられないよ!」
俺は血を吐くような想いで叫んだ。
「浮気……? ほんまのことか」
「ああ。俺のせいで……会社が大変なことになってしまって……それで、対応に追われた後、夜中にどうしても顔が見たくなって、彼女のマンションに行ったんだ。そしたら、裸の男が彼女の部屋で寝ていて……!」
「裸かー、ほんまに見たんか」
「見たよ! 見たくもないけど! 翔子のマンションのリビングで、裸で大の字とか! ……頭がどうにかなりそうだった」
「勝……」
「わけわかんねえ……確かに、会社に入ってからは忙しくなって会う回数は減ってたけど……それでも、デートの時はできるだけ二人で楽しいことをしようって、約束してた。実際、二人で料理作ったり、ちょっとしたおでかけとか、なんとか時間やりくりして合わせて……生活が落ち着いたら一緒に暮らそうって言ってたのに。……どうして……どうしてこんな風に裏切れるんだよ!」
感情を爆発させた俺の肩を父さんがぽんぽんと叩いた。
「会社と彼女と、ダブルパンチやったんか。それはきっついなあ」
「あれだけ大好きって言ってて、あんなかわいい笑顔を俺に向けてくれてたのに、それが全部ウソだったなんて……」
「真面目で気立てのよさそうな子やったやんか。浮気やなんてすぐには信じられへんわ。第一、あんたが選んだ子やのに」
「俺の人を見る目なんて所詮その程度のものだったんだよ。プロデューサーには騙されるし、恋人は浮気してるし!」
「まあ……プロデューサーいう奴には、会っとらんからわからんけどの。翔子ちゃんには俺も何度か会っとる。浮気するような子にはとても見えんかったぞ」
「でも!」
「落ち着け、勝。これでもお前より三十年近う長く生きとるんや。俺もそれなりに目は肥えとる。間違いない、翔子ちゃんは真面目なええ子や。信じてやらなあかん」
「だったら、あの裸の男はどう説明するんだよ!」
「そこやけどなあ」
結局、問題は解決しない。
「まあまあ、無理に考えんの。勝、そういえば、今日のご飯は食べたんな?」
「ああ……まだ……」
「それやったら、まず何か食べな。あんた、ろくにご飯も食べんから冷静になれんのや。辛い時にはな、まずごはん。それからぐっすり寝ること! 食べて寝たら、スッキリしてええ考えが浮かぶもんよ」
「何その精神論……食べても寝ても事実は変わらないよ」
「でも、物考える余裕はできるやろ。追い詰められたときはな、問題をちょっと棚上げしてしまうんも手や。無理に向き合って、すぐになんとかしようとするけん、余計に無理がでてしまう。案外、一日やそこら、何も考えんと寝とったら、どうにかなることも多いで」
「そんな楽観的な話じゃないんよ」
「無理に悲観的になる話でもないやろうが。勝、今のお前はちょっと疲れとんや。急いで結論を出さんでええ。ちょっとでええから、休め。事実は変わらん……確かにそうや。でも、その事実を見とるお前の目はどうなっとんや? だいぶ曇っとるんとちゃうか。見方を変えたら、全然違うもんが見えてくる。そしたら、道が開けてくるから」
「父さんは脳天気すぎるよ……」
「そう言うたもんでもないぞ。なにせ母さんのメシ食って寝て、そんで俺は定年まで会社で戦ってきたんやからな」
「……だから、父さんは結構太ってたんだ?」
「軽口言う元気くらいは戻ってきたか」
父が笑う。
「あんな、台所の床下収納のところに漬物があるけん、それ出して食べな。奈良漬けと梅干しやったらまだ大丈夫やろ。あとは……納戸の非常持出し袋に缶詰がよっけ入っとったはずやわ。鯖と秋刀魚とか」
さすが一家の母。なんだかんだ言っていろいろ用意していたらしい。
「そんな味の濃いもんばっかりやったら胃ぃ壊れるんとちゃうか?」
「そうやな……言うても、保存食は味の濃いもんばっかりやし。あとは……そうや! 缶詰の中にパンの缶詰もあったはずや。あれやったら味薄いんとちゃう?」
「それも大概濃いで。しゃあないなあ、ええこと教えたるわ。二階の寝室の奥の、ベッド脇の戸棚にとっときの奴がまだ置いてある。ほったらかしやけど、ええ味がすると思うで」
それを聞いて、母は目を吊り上げた。
「あんた何お酒勧めとんな! そっちのが余計胃ぃに悪いに決まっとるやろ」
「ダメか? ほんまのとっときなんやけどなあ」
「アホ言わんといて」
「は……はは……ありがとう、父さん、母さん」
「お兄ちゃん? 誰と話してるの?」
優花の足音が近づいてくる。俺は妹のほうを向いた。
「父さんと母さんだよ、優花」
「父さんと母さん? ふたりとも去年事故にあって……」
「ああ、死んだな。だから、俺が働きに出たあと、この家はずっと無人だった」
しんとまた玄関が静かになった。
俺はゆっくりと口を開く。
「それから優花。お前も死んだはずだろ? 七年も前に」