魔界の学校は夏休みに入り、アイリは城で毎日を過ごしていた。
そんな中でもアイリは、宿題とは別に『魔法』の勉強も欠かさない。
アイリにとって高校3年生の夏休みは、無事に卒業するための正念場。
その日もアイリは魔法を教えてもらおうとディアを探すが、城内のどこにもいない。
ディアは魔王の許可なく外出はしないので、城内にいるのは確かなはず。
中庭に面した渡り廊下を歩いていると、ふと何かの気配を感じた。
アイリは足を止めて、中庭を埋め尽くす
すると、花畑の隅に隠れるようにして伏せている魔獣の姿を見付けた。
5メートルはある巨体にコウモリの羽根を持つ、黒い毛並みの魔犬。
「ディア?どうして魔獣の姿で、そんな所に……」
不思議に思ったアイリは中庭に出て、魔獣のディアの側へと歩み寄る。
ディアは金色の瞳を弱々しくアイリに向けて、何かを訴えているようだ。
魔獣の姿のディアは言葉を理解してはいるが、話すことはできない。
「ディア、今日も魔法を教えてほしいの」
「…………」
「どうしたの?はやく変身して、行こうよ」
「…………」
そこでアイリは、ディアの様子がおかしいと気付いた。
「もしかしてディア、人の姿に変身できないの!?」
ディアは魔獣の頭でコクンと頷いた。
本来は魔獣であるディアは、変身魔法によって人の姿を留めている。
しかしディアが突然、変身魔法を使えなくなるなんて異常事態だ。
仮にもディアは、『魔法』の授業を担当する教師なのだから。
「どうしよう。私じゃディアを変身させられないし……」
他人を変身させるというのは高度な魔法であり、魔界では魔王オランしか使えないのが現状。
アイリも魔王と同等の魔力を持つが、高度な魔法は習得していない。
……ただでさえ、補習を受けるほどに魔法が不得意で不調なのだから。
その時だった。
「なぁに、そんなトコで情けねぇ顔してんだよ、ディア」
偶然、渡り廊下を通りかかった魔王がディアに気付いて、呆れた声を出した。
アイリはパッと明るい表情になって魔王に駆け寄る。
「パパ!ちょうどよかった!ディアが変身できなくなっちゃったみたいなの」
「あぁ?なんだそりゃ?本当に情けねぇヤツだな」
「パパお願い、ディアを変身させて!」
アイリは、得意の上目遣いで魔王に抱きついて『お願い』をする。
当然、アイリは無意識なのだが、その可愛らしい『おねだり』に魔王は弱い。
「クク……可愛いな、オレ様のアイリは」
魔王は妻・アヤメと、娘・アイリには甘く、基本的にメロメロな親バカなのであった。
見た目20代の魔王と、女子高生の娘が抱き合っている姿は、背徳感すら感じさせる。
魔王はチラっと魔獣のディアに目を向けると、真顔になってアイリに向かい合った。
「だが、アイリ。今回はオレ様に甘えるな」
「えっ……」
今まで、娘を散々甘やかして育てた魔王が言うセリフなのか。
「いいか、これは試験であり試練だ。アイリの魔法でディアを変身させてみせろ」
「えぇ!?私の魔法で!?む、無理だよ……!」
「そんな弱気じゃ卒業できねえぞ。卒業試験だと思って挑め。期限は今日中だ」
「えぇっ!?今日中!?」
魔王オランは、魔界の学校『オラン学園』の設立者であり、アイリのクラスの担任教師でもある。
この試練をクリアできれば、赤点だった魔法の単位もクリア。卒業を認められるという意味にも取れる。
そうは言っても変身魔法は高度な魔法であり、短期間で習得できるものではない。
数々の無茶ぶりに愕然とするアイリだが、冷静になってみれば魔王の言う通りでもある。
(きっとパパは私のために、心を鬼にして……うん、頑張らなきゃ)
いや、魔王は鬼ではなく、悪魔である。
魔王がその場から立ち去ると、アイリはディアを人の姿に変身させるべく、魔法を駆使する。
ディアの黒い毛並みに両手を添えて目を閉じ、集中して念じる。
(ディア、お願い……人の姿になって)
アイリの両手から魔力の光が放出されてディアの全身を包むが、光が消えても何も変化がない。
その後、何時間も中庭で同じ事を繰り返し、アイリの疲労もピークに達する。
「はぁ、はぁ……ちょっと、休憩……」
アイリは額の汗を片手で拭うと、ペタンと地面に座り込んだ。
するとディアが、アイリの体を全身で包むようにして丸まって座る。
ディアの腹部の毛並みに背中から埋まって体を預けているアイリは、疲れを忘れて微笑んだ。
「ふふっ……ディア、ありがとう。フワフワで気持ちいい」
ディアの夏毛の毛皮に包まれていると、ひんやりと冷たく心地よい。
魔獣は季節で毛の温度を変えて体温を調節するので、夏でも暑苦しくない。
ディアは顔をアイリの側に寄せて、金色の瞳を優しく細めて見守っている。
魔獣の姿のディアであっても、寄り添った時の心地よさは、人の姿の時と同じ。
「ねぇ、ディア……」
アイリはディアに話しかけるが、魔獣のディアは言葉が話せないので、アイリの一方的な独り言になってしまう。
でも、だからこそ、いつもより素直に本音で語りかける事ができるから不思議だ。
「私、生まれた時から、ずっと……ディアの事が好き」
「…………」
「魔獣のディアも、人のディアも大好き。私、ディアのお嫁さんになりたい……」
「…………」
言葉を理解しているものの言葉で返せないディアは、もどかしそうな目をして顔を寄せてくる。
しかし、次の瞬間にアイリの耳に響いてきた声。
『……アイリ様』
アイリの脳内に直接響くようにして聞こえたのは、確かにディアの声。
アイリはハッとして横を向くと、魔獣のディアと顔を見合わせる。
「今の声……ディアがしゃべったの!?」
ディアは、魔獣の姿では言葉を話せないはずなのに。
するとディアは金の瞳でアイリを見つめながら小さく頷いた。
『はい。口ではなく、心でお伝えする事ができるようです』
「心……?じゃあ今は、ディアの心の声が聞こえているってこと?」
『はい、そのようです』
ディアは口を動かしてはいないが、その声は確かにアイリの耳に届いている。
どうやらアイリが何度もディアにかけて失敗した変身魔法が、思わぬ作用をもたらしたようだ。
アイリの魔法の効果によって、ディアは一時的に心の声をアイリに伝える事ができる。
『私は今までアイリ様に、本当の気持ちを口では申し上げられませんでした』
「口では言えない……なんで?」
『封印されているからです』
ディアは以前にも変身魔法が使えなくなったりと、魔法が不調だった時期があった。
その理由は、ディアが本当の恋を知ってしまったから。
……恋は、人も魔獣も同じ。心を狂わし、乱し、暴走させる。
理性を崩壊させ暴走する魔獣の本能を抑えるために、ディアが取った最終手段。
全ては高校教師としてアイリの側で守り、導き、卒業を見届けるために。
『私は魔王サマに申し出て、禁断の魔法により『恋愛感情』を封印して頂きました』
「え!?なんで、そんな……!」
魔王の封印魔法により、ディアは恋愛感情を表に出せない。
恋愛感情と封印に関する事は全て、言葉として口に出せない。
結局、その封印がディアを苦しめて、アイリを悲しませていた。
想いの届かないアイリと、想いを返せないディアの、不毛な恋愛関係の原因であった。
『ですが、封印には期限があります。もう少しだけ……お時間を下さい』
アイリは、ディアのそこまでの決意が嬉しいのか、それとも悲しいのか、どう受け止めていいのか分からない。
奥手で真面目で真剣で、自己犠牲も厭わないほどに自分には厳しいのに、人には甘くて。
結局は、恋愛に不器用で。
そんなディアの全てが愛しくて、抑えられない何かの感情が涙となって溢れ出してくる。
しかし、涙を浮かべるアイリの口元は……僅かに上向きだった。
だって、そういう事情であれば、ディアは……
ずっと片思いだと思っていた、この恋は……
『アイリ様、これだけはお伝えさせて下さい』
もうすぐ、アイリの魔法の効果が切れてしまう。
ディアが本心をアイリに伝えられる時間は、あと僅か。
アイリは聞かずともディアの心に気付いて、大きく頷いた。
ずっと欲しくて待ち焦がれた、その言葉に期待しながら。
『私は、アイリ様を……』
……アイリは、ようやく気付いた。
……この恋は、『片思い』ではなかった。
今この瞬間に、片思いが両思いに変わったのではない。
ずっと、ずっと……『両思い』だったのだと。
その愛を全身で受け止めようと、アイリはディアの毛並みに顔を埋めて目を閉じた。
アイリは目を覚ました。
いつの間にか、中庭でディアの毛並みに埋もれたまま眠ってしまったようだ。
目の前に広がる花畑では紫の
ふと横を向くと、魔獣のディアの金の瞳が優しくアイリを見守っている。
(あれ……さっきのディアは夢だったのかな……?)
一瞬そう思ったが、アイリは今までにない力が自身に漲っている事に気付いた。
……不思議なほどに心が落ち着いている。
大丈夫、夢じゃない。ディアの愛を受け止めた今なら、できる。
時刻はもう夕方。はやく試練をクリアしなければ。
アイリは立ち上がるとディアの前で一度、深呼吸をする。
そしてディアも伏せの体勢から起き上がると、お座りの形で待機する。
アイリはディアの毛並みに埋もれるようにして正面から抱きついた。
「ディア、人の姿になって……」
呪文のように囁いて目を閉じると、アイリから伝わる魔力で満たされたディアの全身が発光する。
光に包まれたディアの巨体は収縮し、やがて人の姿になると同時に光も収まった。
二人は、まるで抱き合うような体勢で中庭に立っていた。
魔法に集中していたアイリは目を開けると、人の姿になったディアを見上げて目を輝かせる。
「ディア、人の姿になってる!」
「アイリ様……」
「やったよ、ディア!私の変身魔法が成功した!」
「はい……ありがとうございます」
申し訳なさそうな顔をしているディアとは逆に、アイリは魔法が成功した喜びで大はしゃぎ。
これで、アイリの魔法の試練はクリア。無事に高校を卒業できる。
本当は、まだまだ問題は山積みなのだが、今のアイリは何も怖くないという自信で溢れていた。
ようやく落ち着いてディアと向かい合うと、アイリは疑問を浮かべた。
「でも、なんで急にディアが変身魔法を使えなくなったんだろうね?」
「そ、それは……」
するとディアは思い当たる節でもあるのか、視線を泳がせて頬を赤らめている。
あぁそうか、とアイリはディアの心を察した。
ディアは、恋愛に関する想いを口に出せない。これ以上問い詰めるのは、追い詰めるのと同じ。
ディアの魔法の不調は、アイリの魔法が不調だった理由と同じだったのだ。
アイリは何も言わずに微笑むと、ディアの片手を握った。
ディアもその手を握り返すと、二人はようやく中庭を抜けて城の中へと入っていく。
「ねぇ、この前、お母さんに言ってた『好きです』って、誰に対してなの?」
「そ、それは……」
「ふふ、ごめんね。もう分かったから大丈夫」
夕日を浴びる
そして課題のクリアを報告するために、二人は魔王の部屋へと行く。
部屋に入ってきた二人を見ただけで、魔王は全てを察した。
ディアが人の姿でいる事こそが、アイリの魔法が成功したという証拠だからだ。
「よくやった、アイリ。試験は合格だ」
魔王はアイリにそれだけ言うと、鋭い赤の瞳でディアを睨みつけた。
「魔力の乱れは、心身の乱れだ。ディア、てめぇも健康診断を受けろ」
「……はい、魔王サマ。承知致しました」
魔王はディアの魔法の不調の原因を知らないので、嫌味のように言い放った。
アイリは、魔王にディアの『封印』の事を話そうかと一瞬、迷った。
ディアの恋愛感情の封印を今すぐに解いてほしいと、頼もうかと思った。
だが、それはディアの強い決意を踏みにじる行為にも思えてしまって、思い留まった。
きっとディアは、自分に課した試練を乗り越えようとしている。
そんな決意も封印も含めて、全てがディアの『愛』なのだと思ったから。
(あれ?でも、パパがディアの恋愛感情を封印したのに……)
アイリの恋愛相談に対して、魔王は『ディアを調教しろ』とか『春はチャンス』とか、恋のアドバイスをしていた。
いくらアイリの恋を応援しても、恋愛を封印中のディアには無意味だというのに。
どうも、魔王の行いは矛盾している。
どういう訳なのか、今回のディアの魔法の不調は、その1回きりだった。
それ以降は、普通に変身魔法も使えるようになっていた。
アイリも同様に魔法の調子が良くなって学校の課題も次々とクリアしていき、補習の必要もなくなった。
……やはり、思いが通じ合ったからなのだろう。
数日後、従順で真面目なディアは、魔王に言われた通りに健康診断を受けた。
そして、その結果を聞く時になって、なぜかアイリも一緒に診察室に呼ばれた。
アイリは緊張した面持ちでディアの隣に座り、女性医師が話し始めるのを待つ。
(なんで私まで呼ばれるんだろう……もしかしてディア、何か重病が見付かったの?)
そんな不安なアイリの表情とは裏腹に、医師は冷静な表情と口調で話し始めた。
「ディア様の健康状態に問題はありません」
まずは結論を伝えてから、医師はさらに衝撃の結果を付け加えた。
「ディア様の体内に、アイリ様の魔力反応が確認されました」
それを聞いた二人はすぐに理解ができずに、ただポカンとしている。
だが次に、アイリは思い出した。
(え?それ、私も前に同じ事、言われた……よね?)
アイリの中にディアの魔力反応が確認されたから、これは懐妊だと確信した。
だが、ディアからもアイリの魔力反応があるとは、一体どういう事なのか?
医師が説明を続ける。
「ディア様とアイリ様の魔力は、性質的に非常に『結合しやすい』と判明しました。これは珍しい事例です」
アイリとディアが密着する事により、お互いの魔力を吸収しあい、体内で結合して長期間、残留する。
一夜限りの添い寝でも、ディアに変身魔法をかけた試練の時も、魔力の結合は起きた。
結合する事による体への影響はないし、微弱な残留なので放置すれば消える。
だが数日間は相手の魔力を体に宿すので、検査では二人分の魔力が検出されてしまう。
アイリはその結論に、色んな意味でショックを受けて、顔を赤くしたり青くしたり忙しい。
(えっ!?じゃあ私、懐妊した訳じゃなかった……!?えぇ……恥ずかしい……!!)
思い返せば、あの時も医師は『懐妊』とはハッキリ言っていなかった。
『魔力反応』とは言ったが、『生命反応』とは言っていない。
全てはアイリの早とちりであったが、誰にも言わずにいたのが幸いした。
思えば、恋愛を封印しているディアが、添い寝でアイリに手を出すはずがない。
そもそも、そういう事が起きないようにするための封印なのだから。
恥ずかしいような、残念なようでもある複雑な心境のアイリだったが、ふと思考を切り替えた。
「でも、それって、私とディアの相性がいいって事だよね?」
ディアはそれを聞いてハッと顔を赤くしたが、医師はニッコリと微笑んだ。
「はい。数万人に一組という、珍しい事例です」
……もはや、これは運命の人としか言いようがない。