そんな衝撃の事実を隠しながらも、アイリは普段通りに学校生活を送る。
4時間目の授業が終了し、昼休みになった。
アイリはいつも、クラスメイトで親友の
アイリが席を立って真菜の席まで行くと、真菜は机の上に弁当箱を2つ乗せていた。
アイリがそれを見て、不思議に思った。
「真菜ちゃん、今日はお弁当なんだね。2つも食べるの?」
「あっ、うん。これはね、コランくんの分も作ってきたの」
明るい茶髪で、アイリに似たボブヘアの真菜は、母が人間で、父が死神という珍しい混血。
何事にもちょっと冷めているが、しっかり者で、中学生の時からのアイリの親友である。
そして『コラン』とは、アイリの兄で魔界の王子。未来の魔王だ。
コランとアイリは400くらい歳の離れた兄妹だが、同学年で同じクラス。
長寿の悪魔は年齢の括りが幅広く、同い年が同学年とは限らない。
その時、アイリの後ろからコランがニュっと顔を出してきた。
「ふふ、アイリ、いいだろ〜!真菜の手作り愛妻弁当だぜ!!」
紫の髪に褐色肌、赤の瞳。まさに悪魔らしいカラーとは逆に、底抜けに明るく無邪気。
高校生なのに言動が子供っぽいが、これでもアイリの兄で、真菜の彼氏。
この時の真菜とコランは人間界の同じマンションに住んでいて、人間界と魔界を行き来しながら通学している。
真菜はコランの姿を目にすると照れ隠しなのか、スッと冷めた視線に変わる。
「ちょっと、コランくん。私、まだ妻じゃないんだけど」
「そっか、じゃあ、愛人弁当だな!!」
コランの笑顔かつ大声で放たれた衝撃発言に、真菜は固まる。
彼は無邪気なだけで悪意はない。分かってはいるが、真菜は色んな意味で赤面する。
ここから、このカップル恒例の漫才が始まる。
「ちょっと……愛人って意味分かって言ってる?」
「ん?オレと真菜の関係だろ?」
「……愛人って、愛する人って意味じゃないから」
「えぇ!?違うのか!?でもオレは愛してるからな、真菜!!」
「もう、分かったから……」
いつものように漫才はノロケで終わるが、アイリは漫才よりも弁当を見て思う事があった。
「いいなぁ……真菜ちゃん今度、私に料理を教えて」
「うん、いいよ。あっ、アイリちゃん、もしかしてディア先生に……?」
アイリは頬を赤くして頷いた。いつか自分も、ディアに愛妻弁当を作ってあげるんだと。
真菜もコランも、アイリとディアはすでにカップルなのだという感覚で見ている。
……そのくらい、誰がどう見ても仲睦まじく見えるのだ。
それでも恋人ではない現状は、事実婚もとい事実交際とでも言うのだろうか。
(真菜ちゃんとお兄ちゃん、今日もラブラブでいいなぁ……)
学校でも堂々と恋人どうしでいられる二人を、アイリは羨ましく思った。
そんな二人のラブラブな昼休みを邪魔しては悪いと思ったアイリは、今日は一人で学食に行く事にした。
この学校『オラン学園』は、3階に学食と図書室がある。
アイリは一人で食堂に入り、メニューを選んでカウンターの前で待つ。
すると調理場の奥から食事のトレーを持った少女が出てきて、アイリの前のカウンターに置いた。
ピンクの着物の上に、白の割烹着。アイリと容姿がそっくりで、少しだけ大人っぽい。
そんな彼女がアイリを見て、声をかける。
「あら?アイリ、今日は一人なの?真菜ちゃんは?」
「あ、うん。真菜ちゃんは、お兄ちゃんと一緒にお弁当食べるんだって」
「まぁ……コランったら、幸せ者。でもアイリは寂しくない?」
「いいんだもん。私はお母さんの料理が一番好きだから」
学食で調理を担当している彼女こそ、アイリとコランの母親。
魔王の妃で、人間だが禁断の魔法により永遠の17歳、王妃アヤメである。
アイリとしては、兄のコランと親友の真菜の恋は応援したいが、何かと寂しいのも確かだ。
いや、寂しいというよりは、羨ましいというのが正直な気持ちかもしれない。
だからこそ、無意識にアイリはちょっと拗ねた顔をしていた。
食堂は中等部と高等部の生徒たちが入り交じり、それなりに混んでいる。
アイリがどこに座ろうかと迷っていると突然、長テーブルの1つに座っていた女子生徒がアイリに向かって手を振った。
「アイリ様!!こっち、こっち!ここに座ってええで!」
その明るい声と独特な方言で、リィフはアイリを自分の隣の席へと招いた。
アイリは驚いて一瞬だけ躊躇したが、言われた通りにリィフの隣の椅子に座った。
リィフは相変わらず愛想よくニコニコと話しかけてくる。
「アイリ様、今日は珍しく一人なんやね!ウチも友達が休みで、寂しかったんや〜」
「そうなんだ。リィフちゃんも、いつも食堂で食べてたんだね」
アイリには他のクラスに知り合いがいなかったので、いつも食堂にリィフがいた事に気付かなかった。
正直言うと、性格も正反対で、おそらく恋のライバルでもあるリィフには少し苦手意識がある。
だが、この機会をチャンスだと転換させたアイリは、リィフの本音を聞き出そうとした。
「ねぇ、この前リィフちゃんが言ってた『応援』って……」
「ああ、それね!せやな、まずディア先生の好物とか、趣味とか教えてくれへん?」
「え……」
アイリが言い終わる前に、被せるようにしてリィフの質問攻め。
すでに、リィフとしてはアイリが『応援』してくれる事が前提になってしまっている。
ディアに関しての情報を欲しがるのは、やはりディアに気があるからだろう。
やはりリィフは、恋のライバルなのだと確信してしまった。
それでも心優しいアイリは、自身の恋の危機感よりも、リィフの恋を心配した。
ディアは、今まで何人もの生徒から告白されたが、一度も受け入れていないから。
ディアが、生徒を恋人として受け入れる事はありえないと知っているから。
何よりも、自分がディアと結ばれるんだという、強い決意があったから。
「リィフちゃんは、その……気持ちを打ち明ける……の?」
「うーん、そうしたいんやけど、OKしてもらえるかなぁ……」
アイリは、それには答えられなかった。
アイリだって、いくら気持ちを伝えても、ディアから確かな愛の言葉を返してもらえない。
……不安な気持ちには共感する。
結局、アイリは昼休みにモヤモヤな気持ちを増してしまい、そのまま放課後。
今日もアイリだけが、魔法の授業の補習を受ける。
いつものように、アイリはソワソワしながら教室でたった一人、ディアが来るのを待つ。
そして教卓側の引き戸が開き、ディアが教室に入ってきた……が。
ディアの様子が、なんだかいつもと違う。困ったような、緊張したような……何とも言い難い表情だ。
教卓の前に立つと、ディアは目の前の席のアイリに視線を合わせて、授業を開始する前に報告を入れる。
「今日はもう一人、補習を受ける生徒がいます」
それを聞いたアイリは一瞬、もしかしたら、またリィフなのでは、と思った。
だが、ディアが2度も不正を認める訳はないし、今は教室に生徒はアイリしかいない。
「その生徒が来たら補習を始めますので、しばらくお待ちください」
……という事は、もう一人の生徒は補習に遅刻という事になる。
本来なら遅刻の生徒を待つ事も、王女であるアイリを待たせる事もありえない。
それなのに、ここまで特別扱いをされる生徒とは誰なのだろうか。
……その時。
ガラガラガラッ!!
なぜか教卓側の引き戸が開き、慌てた様子の女子生徒が入ってきた。
「ディアさん、ごめんなさい!着替えてたら遅れちゃった……!」
その女子生徒を見たアイリは、目を限界まで開いて驚愕した。
……いや、目を疑った。
自分とそっくりの容姿で、同じ制服を着た彼女は……
「ええぇ!!?お母さんっ!?」
それはアイリの母親であり、永遠の17歳。王妃アヤメである。
学食で調理を担当しているアヤメが、わざわざ制服に着替えて、放課後の補習を受けに来た。
一体なぜこうなったのか、アイリはこの状況を全く飲み込めない。
アイリが驚愕している間に、アヤメは平然とアイリの隣の机に座ってスタンバイOK。
普通に授業を受ける気満々である。
そこで教師のディアが、ようやく現場を仕切る。
「今日は、アイリ様とアヤメ様、お二人での補習となります。それでは始めます」
いやいや、始めますと言われても、生徒でもないアヤメが補習という時点で意味が分からない。
親子で補習を受けるという、ありえない状況。
アイリはアヤメの方を向いて、とりあえず最大の疑問をぶつける。
「え、お母さん、なんで急に高校生になったの?」
なんとも奇妙な質問になってしまったが、アヤメは何だか嬉しそうでテンション高めだ。
「私も授業を受けてみたいって、オランにお願いしたの」
「え……パパが許可したんだ……」
この学校の設立者である魔王オランの命令とあれば、ディアも従うしかない。
だからと言って、王妃が高校生のクラスに混じる訳にもいかない。
今日は体験学習として、特別に放課後の補習だけを受けに来たのだ。
というか魔王は、単にアヤメの制服姿が見たいという下心だけではないだろうか。
ちなみに魔王は、アイリのクラスの担任教師でもある。
そんな魔王の妃であるアヤメは、下心など知らずに純粋に喜んでいる。
「ふふ。私、一度、高校生になってみたかったから、嬉しい」
アヤメは16世紀の日本生まれなので、学生を経験した事がないのだ。
見た目は17歳なので、制服のブレザーを着ていても全く違和感がない。
しかし、今日は『魔法』の授業の補習なのだ。
「でも、お母さんは人間なのに、魔法を使えるの?」
「この指輪があれば、私にも使えるんだって」
アヤメは自分の左手を広げて、薬指に嵌められた『結婚指輪』をアイリに見せた。
金色の金属の輪に、赤い宝石が施されたその指輪には、魔王の魔力が込められている。
その魔力によって、アヤメの姿は永遠に17歳なのだ。
指輪の魔力をコントロールすれば、アヤメにも魔法が使えるらしい。
これで人間のアヤメも、アイリと一緒に『魔法』の授業が受けられる。
しかしアイリは、またしても複雑な思いに悩まされていた。
決して、ディアと二人きりの補習を邪魔されたという邪魔者扱いではない。
母親のアヤメはアイリと容姿がそっくりで、同じ制服を着て並ぶと姉妹のように見える。
……アイリは、ディアに母親と比べられてしまうのを、何よりも恐れていた。
「それでは、今日は氷の魔法の復習をします」
今日は初心者のアヤメもいるので、初歩的な魔法から始める。
先日と同じく、ビーカーの中の水を凍らせるだけのシンプルな魔法の練習。
……それなのに、アイリは未だに成功しない。
アイリは握りしめたビーカーを見つめながら、ため息をついた。
(なんで出来ないんだろう……やっぱり懐妊したから……?)
こんな調子が続けば、ディアに懐妊がバレてしまうのも時間の問題かもしれない。
そんな危機感に頭を悩ませていたアイリの横から、奇妙な声が聞こえてきた。
「う〜ん、う〜〜ん……」
アヤメがビーカーに両手をかざして、唸り声を上げながら懸命に念じていたのだ。
まるで、水晶玉に手をかざす占い師のような重い空気を纏っている。
しかし、いくら念じてもビーカーの中の水は凍らない。
やはり人間のアヤメが魔法を扱うのは難しいのだ。
その時、教卓から二人の様子を見守っていたディアが、アヤメの席へと歩み寄った。
「アヤメ様、両手でビーカーを包むようにして下さい」
「え?こ、こう……?ディアさん、教えて、お願い……」
『教えて』というよりは、『助けて』のニュアンスに近い。
そしてアヤメが無意識に発動する『上目遣い』の可愛さの破壊力は凄まじい。
さすが、あの魔王を惚れ込ませただけある。今や人妻の子持ちには見えない、永遠の17歳。
魔獣であるディアの心さえも、アヤメは簡単に射抜いてしまう。
「承知致しました。……では失礼します」
ディアは少し照れながら、ビーカーを包むアヤメの両手に自分の両手を重ねた。
「私が、手の上から適度な魔力を流し込みますので、その感覚を覚えて下さい」
「うん、分かった……」
アヤメは緊張しながら頷く。
ディアに触れられて緊張しているのではない。初めての魔法にドキドキしているのだ。
……だが。
そんな二人の様子を、隣の席に座るアイリが横目で、ふと見てしまった。
ディアがアヤメに手を重ねて密着している様子を。
……その瞬間。
バリンッ!!ビキビキビキッ!!
アイリが両手で覆っていたビーカーが破裂し、そこから猛烈な勢いで氷柱が立ち上った。
それは木のような太さで、鋭利な刃物のように鋭い。
複雑に枝分かれしながら天井を貫く勢いで成長していく。
それに驚いたのは、アイリ自身。
「えっ……!?な、に……止まらない……!!」
アイリは慌てて手を離し狼狽えるが、氷柱の成長の勢いは収まらない。
アイリは、魔王の魔力を完璧に受け継いで生まれた故に、魔界一の魔力の持ち主。
その強大な魔力を制御しきれずに、アイリの意志に反して暴走している状態だ。
それに気付いたディアが、両腕を伸ばして手の平を氷柱に向けた。
「アイリ様、アヤメ様、お下がり下さい!!」
ディアが氷柱に向けて魔力を放出すると、一瞬にして氷の成長は停止した。
……それは、まるで時が止まる魔法を使ったかのようだ。
だが次の瞬間、僅かに天井に触れた氷柱の枝がパキっと音を立てて折れた。
つらら状の鋭利な氷が、その場で呆然と立ち尽くすアイリ目がけて落下していく。
「アイリ様!!」
とっさにディアは自分の体を盾にアイリを庇おうとするが、一瞬遅かった。
なんとかアイリの体を氷の矢から逸らす事が出来たが、その刃はディアの頬をかすめた。
「……っ!!」
「ディア!!」
僅かに顔を歪めたディアを見て、アイリが叫ぶ。
ディアの整った顔に切り傷が刻まれ、白い肌に血が滲む。
だが、ディアはすぐにそれを片手で覆って隠した。
目の前で涙目になって自分を見上げているアイリに見られないように。
「ディア、ごめんなさい……私、なんで、こんな……」
アイリは、なぜ急に魔法が暴走してしまったのか、自分でも分からずに戸惑っている。
それでもディアは優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。問題ありません」
ディアにとっては、この程度の魔法を止める事も、切り傷も大した問題ではない。
それよりも心配なのは、壊れてしまいそうな程に弱く繊細なアイリの心の方だから。
アイリがディアを心配して一歩近付こうとすると、横からアヤメが入ってきた。
「ディアさん、大変!すぐ手当てしなきゃ。保健室に行こう」
「アヤメ様……いえ、この程度は……」
「血が出てたし、ちゃんと消毒しなきゃ、めっ!!」
「……承知致しました」
強引なアヤメに負けたというよりは、ディアは王妃アヤメの命令を決して拒めない。
アイリを残して、ディアとアヤメは教室を出て保健室へと向かう。
教室を出る時にディアが心配そうに振り向くが、アイリは顔を俯かせて立ち尽くしたままでいる。
放課後の静かな教室でたった一人、アイリは何もせずに俯いて立っている。
その頬に、一筋の涙が流れていく。
……私のせいで、ディアに怪我をさせてしまった。
なんでこう、恋も魔法も上手くいかないんだろう。
このままでは卒業も、ディアとの恋の成就も、叶うはずがない。
それでも立ち止まってはいられない。だって私の中には、ディアとの子が……!
思い立ったアイリは涙を拭うと、小走りで教室の外へと出る。
……校舎の2階にある、保健室を目指して。
その頃、保健室では、アヤメがディアの手当てをしていた。
放課後なので保健の先生はいない。
アヤメは保健室を把握しているのか、手際よく棚から消毒液と綿を取り出してきた。
そして消毒液で浸した綿で、ディアの頬の傷をなぞって拭く。
「ディアさん、しみたら、ごめんね」
「いえ、大丈夫です。この程度でしたら、すぐに治ります」
「あ、本当だ!もう傷が薄くなってる!」
ディアは魔界最強の魔獣であり、自己回復能力も凄まじい。
例え瀕死の重傷でも数日で回復するし、切り傷程度なら当日で完全に消える。
アヤメは驚きながらも安心すると、改めてディアと目を合わせて向かい合う。
「ねぇ、ディアさんはアイリの事が好きなんでしょ?」
「……え?」
突然の単刀直入すぎる問いかけに、ディアは意表を突かれる。
アヤメはニコニコしながらディアの答えを待っているが、当然ながらディアは即答できない。
「そ、それは……」
「じゃあ、ディアさんはアイリの事が嫌い?」
アヤメは言い方を変えて、意地悪な質問をした。
ディアに『好き』か『嫌い』かの、二択しか答えの選択肢を与えない。
ディアは視線を泳がせた後、少しだけ頬を赤らめて小さく答えた。
「好き……です」
好きかと聞かれれば答えないのに、嫌いかと聞かれれば好きと答える。
本人には好きと言えないのに、他人にだったら好きと言える。
それは何故で、何を意味するのだろうか?
奥手で真面目なディアは、常に自分の心と本音を隠して抑えているからだ。
娘の幸せを願ってディアの本音を聞き出したアヤメは、嬉しそうに微笑んでいる。
……だが、その時、この瞬間。
開いたままの保健室のドアの前に、アイリが立っていた。
タイミング悪く、ディアの最後の言葉だけを聞いてしまった。
(ディアが……お母さんに、好きって……言ってた……)
今まで、どんなにディアに『好き』と言葉で伝えても、返してくれなかったのに。
お母さんには、簡単に『好き』って言うんだ……
その衝撃とショックで全身が震えだしたアイリは、ドアから離れて全力で廊下を駆け出した。
ドアの正面側に座っていたアヤメがアイリに気付き、咄嗟にディアに向かって叫ぶ。
「ディアさん、アイリを追いかけて!!」
「……っ!!承知致しました!」
ディアも咄嗟に状況を飲み込み、アイリを追って駆け出す。
アイリがここまでショックを受ける理由は、母・アヤメへの単なる嫉妬ではない。
全力疾走の勢いで上履きのまま校舎を出たアイリは、ようやく校庭の真ん中で足を止める。
後方からディアが追いかけてきて、アイリの背中のすぐ後ろで足を止めた。
アイリは背中を丸めて肩を上下させながら小刻みに震えている。
背後に立つディアは、アイリが泣いているのだと気付いた。
「アイリ様。傷の事でしたら、大丈夫ですので……」
「ちがうもんっ!!」
バッと勢いよく、アイリはディアの方を振り向く。その拍子に大粒の涙が弾け飛んだ。
「私、知ってるもん。ディアは、ずっと、ずっと……お母さんの事が好きなんだって!!」
「……!!」
今度はディアの方が金色の目を見開いて衝撃を受けた。
それは、アイリが生まれる前……何百年も前から密かに隠し通していた、ディアの心。
誰にも言わずに、心に秘めていただけの恋心。
……ディアは、王妃アヤメに片思いをしていた。
これが、アイリが母であるアヤメに恋愛相談をできない理由。
魔王もアイリも気付いているのに、アヤメ自身はディアの想いに気付いていないからだ。
当然、ディアが王妃に恋をしたところで叶うはずもないし、叶えようとも思わない。
ただアヤメが幸せであればいいと、見守るだけの密かな恋だった。
自分でさえ口に出した事のない想いを、アイリの口から出されてしまった衝撃に、ディアは言葉が返せない。
しかし、アイリの感情の暴走は止まらない。
「ディアは、私をお母さんと重ねて見てるだけでしょ!?」
娘・アイリと、母・アヤメは、姉妹に見えるほどに容姿が似ている。
だからって、アヤメへの叶わない恋をアイリで満たすような真似を、ディアがするはずもないのに。
心では分かっていても、感情に乗せられた言葉の暴走は勢いを増すばかり。
「だから……好きでもないのに優しくしてくれるんでしょ?」
……ちがう。ディアを追い詰めたい訳じゃないのに。
……こんなの、本心じゃないのに。
「ディアにとって、私は、お母さんの代わりなんでしょっ!?」
アイリの叫びがオレンジ色の空虚な校庭に木霊して消えると、静寂に包まれた。
恐る恐るアイリが顔を上げてディアを見ると、ハッと息を呑んだ。
ずっと無言であったディアは眉をひそめ、悲しいというよりは苦悶の表情で顔を歪めていた。
……こんなディアの表情は見た事がない。
ようやくディアの口が微かに開いた。
「それがアイリ様の本音なのでしたら……心外です」
その表情と言葉から、アイリはディアの頬だけでなく、心まで傷付けてしまったという罪悪感に襲われた。
しかし心外というのは、何に対してなのだろうか。
今も本音を言わないディアこそが、一番罪深いのかもしれない。
今までにないディアの表情を見た途端に、アイリの激情はスッと冷めた。
今度は激しい悲しみが全身を襲い、アイリは震える唇で懇願し始める。
「ディア、お願い。『好き』って言って……」
どんなにお願いしても、やっぱりディアはアイリの『好き』に対しては応えない。
アヤメには言えるのに、アイリには言えない、たった一言の言葉。
「ちゃんと、私を『好き』って言ってよぉ……!」
「…………」
ディアは困ったような顔をして、口を固く閉ざしたまま。
それはまるで、何かを必死に堪えているようだ。
その時、アイリの脳裏に父・魔王オランの助言、そして最終手段が思い浮かんだ。
それは……
「ディア、これは命令。『好き』って、言って……」
ディアを、命令で服従させること。
そんな事をしても意味はないと……虚しくなるだけだと、分かっているのに。
ディアは悲しげに目を伏せた後に顔を上げると、スッと感情の消えた目でアイリに視線を合わせた。
「ご命令とあらば、お望み通り申し上げます。それでよろしいでしょうか」
ディアがわざわざ前置きと確認をしたのは、アイリへの気遣いと優しさ。
アイリは大粒の涙を零しながら、首を大きく横に振った。
……ちがう。私は、ディアの言葉が欲しい訳じゃない。
……私が欲しいのは、ディアの愛。
「ディア、ごめん、な……さい……」
ディアはアイリの目の前にまで歩みよると、小さく震えるアイリの体を抱きしめた。
言葉もなく、ただ……アイリの全てを全身で受け止めるように。
「うぇ……ディアぁ……うぁぁ……わあぁぁ……!!」
アイリは大声を上げて泣いた。
ディアはアイリの頭の後ろに片手を添えて強く引き寄せながら抱きとめる。
自らの嗚咽でアイリには聞こえていないが、ディアがそっと耳元で囁いた。
「アイリ様……申し訳ありません」
それは、何に対しての謝罪なのだろうか。
「もう少しだけ……もう少しだけ、お時間を下さい」
幼い頃から片思いを続けているアイリを、ディアはどれだけ待たせるのだろうか。