ここは、悪魔が生きる世界、『魔界』。
普段は魔法で隠しているが、悪魔にはコウモリのような羽根がある。
そして魔界には『魔獣』という生物も生息している。
人間界との違いはそのくらいで、日常は変わらない。
その魔界を統べる悪魔『魔王』と、人間である王妃との間に生まれた、王女アイリ。
栗色のボブヘアに、栗色の瞳。母親に似て落ち着いた色合いと性格だが、童顔なので幼く見える。
悪魔特有の褐色肌ではなく色白だが、悪魔特有の黒いコウモリの羽根を持つ。
この時のアイリは、魔界の高校3年生。
王女でありながら気弱で大人しい性格のアイリは、幼い頃からずっと恋をしている。
その恋の相手とは……
ここは、魔界の学校『オラン学園』、高等部。
その名の通り、アイリの父である魔王オランが設立した学校だ。
放課後の教室で、アイリは今日も意中の『彼』と二人きりで密会中。
「それでは、『魔法』の授業の補習を行います」
そう言って教壇に立ったのは、紳士な軍服スーツ姿のイケメン教師。
見た目は20歳手前くらいの青年で、ブルーグリーンの爽やかな髪に金色の瞳。
彼こそが、この学校で『魔法』の授業を担当する教師、ディア。
そして、この補習を受けるたった一人の生徒は、アイリ。
教卓の目の前の机に座るアイリと、教卓のディア。まさにマンツーマン。
アイリは補習という自らが置かれた状況を忘れて、思わずニヤニヤが止まらない。
(ふふ……ディアと二人きり……今日もディア、カッコいい……)
そう、ディアこそがアイリの意中の人。だからこそ、こんなに嬉しい事はない。
アイリは、この補習の時間が大好きなのであった。
「アイリ様、最近は特に魔法の調子が優れないようですが、いかがされましたか?」
ディアの本職は魔王の側近であり、アイリとは『教師と生徒』の関係である前に『主従関係』。
そして王女の世話役でもある彼は、アイリを赤ん坊の頃から面倒を見て育ててきた。
そんな親心もあって、補習が必要なほどに成績が落ちてしまったアイリを心配している。
「ディア、ごめんなさい……」
アイリは口では謝りつつも、ディアと二人きりの補習をむしろ喜んでいる。
だからと言って、わざと赤点を取った訳でもない。
近頃、魔法が上手く制御できなくなってきたのも事実で、その理由はアイリ自身にも分からない。
それでも脳内テンションの高いアイリとは逆に、ディアは深刻そうな表情で向かい合う。
「アイリ様がご卒業できますように、私もお手伝い致しますので、頑張りましょう」
このまま行けば卒業できずに留年という事もありえると、ディアは遠回しに伝えている。
だが、未だ目の前のディアをうっとり見つめるアイリの思考は……
(卒業できなければ、ずっとディアの授業を受けられるし……いいかも)
側近の心、王女知らず。魔王の娘が留年希望という、まさかのトンデモ思考であった。
そうはさせまいと必死で真面目なディアは、今日も気合いを入れて補習を開始する。
「それでは、今日は『氷』の魔法の復習を致します」
そう言って、ディアは小さなビーカーを片手で持ってアイリに見せた。
手の平に乗るサイズのビーカーには、水が半分くらい入っている。
「水の温度を低下させて、これを凍らせます」
ビーカーを持つディアの片手から、魔力の白いオーラが立ち上って見える。
すると、ディアの持つビーカーの水面の揺らめきが一瞬にして静止した。
まさに、時が『凍りついた』ように。
ディアがビーカーを逆さまにしてみせるが、完全に氷と化した水は落下せずにビーカーの中に留まっている。
これが、『氷』の魔法のお手本だ。
「それでは、アイリ様。同じようにやってみて下さい」
「うん、分かった……頑張るね」
アイリは自分の机の上に置いてある、水の入ったビーカーを両手で包む。
魔王の魔力を完璧に受け継いで生まれたアイリには、魔界最強とも言える魔力が備わっている。
だが、その力が強大すぎる故にコントロールが難しい。
この授業は、魔力を抑えてコントロールするための、基本中の基本。
言ってしまえば、魔界の中学生で習うレベル。
そこまで遡って復習しなければならないアイリの現状に、ディアは危機感をも抱いている。
「もっと力を抜いて、リラックスして大丈夫ですよ」
そう言って、アイリの机の前まで来て優しく微笑みかけてくるディア。
アイリは緊張が解けるどころか、溶けてフニャフニャになってしまう。
ディアの優しさは、逆効果。ディアに恋するアイリにとっては、あらゆる雑念を生んでしまう。
(うぅ……ディア、氷、カッコいい……力を抑えて、氷、こおり……)
もはやディアに対する熱い恋心と、氷の魔法を念じる言葉が脳内でミックスされている。
そんな雑念のせいか、ふとアイリのビーカーを見ると、水が山盛りの状態で凍っていた。
元の水の量より増えて固まったそれは、まるでカキ氷。あきらかに魔法の失敗である。
アイリが失敗に気付いて目を潤ませていると、ディアがそれを見て優しくフォローする。
「魔法が強すぎて、空気中の水蒸気まで一緒に凍らせたのですね」
「これって失敗……だよね……?」
「大丈夫ですよ。この程度の誤差でしたら、あと少しの加減で成功します」
ディアの優しい励ましによって、アイリの落ち込み顔は笑顔に変わる。
そうして二人は寄り添うようにしながら、いくつかの魔法の練習を繰り返していく。
気付けば、時刻はもう夕方。二人きりの教室は、窓から差し込む夕日によって赤みを帯びている。
「それでは、今日の補習は、ここまでにしましょう」
授業の終わり。それは、二人にとって『切り替わり』の合図でもある。
アイリは机の上の勉強道具をカバンにしまい、ディアは教卓の上の教材を片付け始める。
そしてアイリはカバンを背負って席を立つと、ディアが立つ教卓の横へと移動する。
小柄なアイリは上目遣いでディアを見上げると、そのまま愛おしそうに抱きついた。
ディアも慣れているのか、驚く事なくアイリの体を抱きしめ返す。
「ディア、今日もありがとう。……好き」
「はい、アイリ様。お疲れ様でした」
二人きりの教室で、静かに抱き合うその姿は、まるで恋人どうし。
二人の頬が赤らんで見えるのは、窓から差し込む夕日のせいなのだろうか。
……しかし、このやり取りは、二人にとっては単なる『日課』でしかない。
「ねぇ、ディアは、私のこと……」
「アイリ様、日が暮れてしまう前に帰りましょう」
「…………」
アイリの言葉を遮るかのように、ディアの言葉が重なる。
まるで、それに対しての返事をしたくないかのように。
アイリはディアから離れると、目を伏せて悲しげな表情になる。
(ディア、こんなに好きなのに、なんで……)
アイリが、いくらディアを『好きだ』と言葉で伝えても、どんなに強く抱きしめても。
ディアの口からは、アイリを『好きだ』とは言ってくれないのだ。
……もう何年、こんな関係を続けているのだろうか。
思い悩むアイリに向かって、ディアはいつものように静かに微笑みながら片手を差し出す。
そしてアイリも、いつものように無言でディアの片手を握り返す。
そうして、二人は手を繋いで教室を出て行く。
……この時の二人は、お互いが恋人だとは断言できない関係でいた。
真面目なディアは、『生徒と教師』、『王女と側近』という関係を頑なに超えない姿勢でいるのは分かる。
でもそれは、こんなに近くで触れ合っていても、アイリの片思い以上にはなれないという辛さになる。
生まれた時から、ずっとずっと……アイリはディアに片思いを続けているのだから。
ディアは本来『魔王の側近』だが、魔王の命令により、この学校で教師としても働いている。
そして彼は魔王の城に住み込みなので、必然的にアイリとディアは一緒に城まで帰る。
昇降口を出た二人は、再び手を繋いで校庭を歩いて行く。
ちょうど校庭の真ん中あたりで、二人は歩みを止めて向かい合う。
少しアイリがディアと距離を取ると、ディアの全身が発光した。
そして、どんどん姿を変えて巨大化し、光が収まると、そこには巨大な魔犬が佇んでいた。
5メートルはあろう黒い犬で、背中にはコウモリのような羽根を生やしている。
これが、魔界最強の『魔獣』。ディアの本当の姿である。
そう……アイリが恋した相手は、教師であり、側近であり、『魔獣』なのだ。
身分差、年の差、種族の違い……
いくつもの禁断を重ねた、途方もないアイリの『片思い』なのであった。
アイリは慣れた様子で、魔獣のディアの背中に飛び乗る。
「ディア、いいよ」
背中から聞こえるアイリの言葉を合図に、ディアは羽根を羽ばたかせて上空へと舞い上がる。
魔獣の姿のディアは言葉を理解しているが、話すことはできない。
学校から王宮の城までは直線で、飛行すれば10分ほどで着く。
こうやってアイリは毎日、魔獣の姿のディアの背中に乗って登校・下校するのだ。
そんな魔獣の背中に乗りながら、アイリは未だ脳内で切ない恋の自問自答を繰り返す。
(ディア……私が高校を卒業すれば、恋人になってくれるの……?)
アイリが年齢的に大人になれば、ディアは愛の告白をしてくれるのだろうか。
……恋人だと、断言してくれるのだろうか。
それが叶わないのなら、ずっと高校生のままで、学校でディアと一緒に過ごしたい。
アイリは、ディアと変わらない関係のままで卒業することを無意識に恐れている。
卒業しても留年しても両思いになれないという不安が、アイリの中で葛藤を生む。
『生徒と教師』の関係であるアイリとディアは、城に帰れば『王女と側近』の関係になる。
その日の夜、アイリは父である魔王オランの私室へと入る。
とある『相談』をするためだ。
「ねぇ、パパ。ディアと恋人になるには、どうしたらいいの?」
父親に対してなんともストレートな質問だが、魔王はソファに背中を沈めてニヤニヤしている。
父とは言っても、見た目は20代。長寿の悪魔は実年齢と見た目が一致しない。
「簡単だぜ、アイリ。アイツは魔獣だ、調教すればいい」
「ちょう……きょう……?」
「命令だと言えばアイツは服従するだろ。それに今は春だ、チャンスじゃねぇか」
「え?春だとチャンスなの?なんで?」
アイリが不思議そうに聞き返すと、魔王は一言。
「獣だからだよ」
完璧な答えではあるが、純粋なアイリはそれの意味を理解していない。
魔王も王妃も普段は表立って口出しはしないが、アイリの恋を応援している。
それならば、なぜアイリは恋の相談を母親ではなく父親に持ちかけるのか?
それには、アイリの『片思い』以上に、切ない理由があった。
魔王の部屋から出たアイリは、先ほどの言葉を思い出しながら気合いを入れる。
(命令かぁ……。もう少し強気に行かなきゃダメだよね、うん……!)
気弱なアイリと、奥手なディア。この関係を進展させるには、今のままではいけない。
長い廊下を歩き進めるアイリの足は、無意識にディアの私室へと向かっていた。
ディアの部屋の前で立ち止まると、アイリはそっと扉に両手で触れて開けようかと迷う。
(いきなりディアの部屋に入ったら……驚くかな?)
だが何を思い付いたのか、そのまま手を離して足早にそこから立ち去った。
それから数分後、アイリは再びディアの部屋の前に立つ。
その姿は、ピンクの可愛らしいネグリジェ。アイリはわざわざ自室に戻って着替えたのだ。
こんな夜遅くにディアの部屋に行くなんて初めての事で、少し緊張する。
しかしアイリは、ノックもせずにディアの部屋の扉を堂々と開けた。
気弱な性格なのに、時に大胆な行動に出るのは、あの魔王の血なのか。
それに驚いたのは、いきなり部屋に訪問されたディアである。
「アイリ様!?どうされましたか!?」
……驚いたというよりは、心配されている。
こんな時間に突然、部屋に来たのは何か緊急事態だと思われてしまった。
しかし、ディアの姿を見たアイリの思考と動作が一瞬、停止する。
(わぁ、ディアのパジャマ姿、かっこいい……)
ようやく動き出したアイリの脳内は、目的を見失うほどにディアの魅力に支配されていた。
クールなディアに似合う、爽やかなブルーのパジャマ姿に。
この広くはない部屋も真面目な彼らしく、簡素なベッドと机と本棚くらいしかない。
ネグリジェと同じピンク色の、アイリの小さな唇から出たのは、思いもよらぬ願望の言葉。
「ディア、一緒に寝よう」
「……はい?」
単刀直入すぎるアイリのお願いに、ディアの返事が疑問形になる。
上目遣いで放たれるそれは、アイリの可愛さが最大限に付加された『おねだり』。
「ディア、お願い……だめ?」
「いえ、その……アイリ様はもう高校生ですし、さすがに、それは……」
少しは大人扱いをしてくれているらしい。
明らかに困惑しているディアに対し引く事なく、アイリはさらに押しを強める。
ここでアイリは、魔王の助言を思い出した。
「えっと……これは、私の『命令』なの……」
『命令』だと言ってしまえば、ディアは決して逆らえない。
ディアは、魔界の王族全員と『絶対服従』の契約を交わしている。
ディアにとっては当然、アイリの命令も絶対。
本当はアイリも、強制的にディアを服従させるような事はしたくない。
多少の罪悪感もあるが、ここで強く押さなければ、いつまでもディアには近付けない。
とは言っても、アイリの上目遣いの『命令』という言葉は、可愛らしい『お願い』にしか聞こえない。
真面目なディアは、礼儀正しくアイリの正面で深々と頭を下げた。
「はい。承知致しました」
それは堅苦しい態度ではなく、優しい微笑みでの同意であった。
そこにディアの感情が見えたアイリは嬉しくなって、そのまま先にディアのベッドに上がる。
そして躊躇する事なく布団の中に入り込む。
(ふふ……ディアのベッド、ディアの布団、ディアの匂い……)
アイリは布団の中でゴロゴロと転がって、全身でディアを感じた。
そんなアイリをしばらく見ていたディアが微笑みながら近寄る。
「アイリ様、そろそろ私も失礼致します」
そう言ってディアもベッドに上がって布団に入り、アイリの隣に寝る。
ディアが一人で寝るためのシングルベッドは、二人で寝るには狭い。
だからこそ、二人は必然的に密着して寝るしかないのだ。
狭いベッドで向かい合って寝ると、ディアの顔が至近距離に迫る。
白い肌、ブルーグリーンの髪、金の瞳、優しい目元……
アイリの栗色の瞳に映し出されるディアの全てが、鮮やかで美しく愛しい。
アイリはさらに近付いて、ディアの胸に顔を埋める。
(ディアの……シャンプーの香り?石鹸かな?いい匂い……)
ドキドキしすぎて眠れないと思いきや、あまりの心地良さに、アイリはすぐに眠たくなった。
(ディア……好き……大好き……)
もっとディアを見ていたかった、『おやすみのキス』したかったのに……
こんな、はずでは……そう思いながら、眠りに落ちた。
寝息を立て始めたアイリを抱きしめたまま、ディアは目を閉じて指先を少し動かした。
すると部屋の電灯が消えて、完全な暗闇になった。
アイリを起こさないように、魔法で電灯を消したのだ。
そして眠るアイリの耳元で、聞き取れないほどに小さく囁く。
「おやすみなさいませ、アイリ様」
しかし、この添い寝が『一夜の過ち』になるとは……
この時は、誰もが……この二人ですら、思いもしなかった。
そして、朝。
布団の中で一人、アイリは目を覚ました。
一緒に寝ていたはずのディアがいない。
(あれ……?ディア……?なんで、いないの……?)
アイリは上半身だけ起き上がって、朦朧とした意識の中で考える。
寝起きの頭で状況を理解するのには時間がかかった。
ああ、そうか……。アイリは、ようやく分かった。
ディアは朝、起きるのが早い。
アイリを起こさないように、ディアは一人で起きて静かに部屋を出たのだ。
『魔王の側近』が本業であるディアは、朝から晩まで忙しく働いている。
そのため遅寝早起きだが、魔獣は睡眠時間が短くても大丈夫らしい。
(おはようのキス、してみたかったのにな……)
まだ恋人でも夫婦でもないが、早くも生活スタイルのすれ違いに寂しさを感じるアイリであった。
(一緒に寝るのは、まだ早かったのかな?)
添い寝は、もっと親密になってからする事だと、事後になってようやく気付いた。
それに……キスだって、本当はディアの方からしてほしいと思う。
私がディアを好きなのと同じくらい、ディアが私を好きになってほしい。
いつか、ディアの方から『愛してる』って告白してほしい。
そのためには、こんな強引な方法じゃなくて、もっと自分が頑張らなきゃ!!
これまでの恋の悩みが嘘のように、貪欲で前向きな姿勢になるアイリであった。
しかし、このただ一度の添い寝が、『一夜の過ち』であった事実を……
すでにディアと『一線を越えてしまった』事実を……
さらに恋心を狂わせていくという事実を……
この時のアイリは、まだ知らない。