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第9話『イリアの決行と、ディアの変貌』

次の日の朝、アイリはディアのベッドで目を覚ました。

隣にディアは、いない。……まだ帰ってきていないのだ。

アイリは起き上がると乱暴にパジャマを脱ぎ捨て、着替えを始める。

その瞳は、いつもの穏やかな栗色ではなく……野性味を帯びた金色。




執務室では、すでにコランが魔王専用の席に座っている。

側近のレイトも手帳を見て確認しながら、今日のスケジュールをコランに伝えている。

そんな、いつもの朝の風景。


バァン!!


そんな執務室の扉が、大きな音と共に乱暴に開かれた。

コランとレイトが驚いて、同時に扉に注目する。

そこには、両手両足を大の字に広げて、扉を全開にしたアイリの姿。

ポカンとして眺めるコランとレイトに向かって、アイリは堂々と直進する。


「あ、アイリ?どうしたんだ?ディアよりも早く来るなんて珍しいな!?」


コランが言い終わるのと同時にアイリが立ち止まり、腕を組む。

代理魔王であるコランを見下すかのように。


「ディアは魔獣界に行ったわ」


「えっ!?」


アイリの言葉に、コランもレイトも声を上げて驚いた。


「それ本当か!?アイリ、なんで止めなかったんだよ!?」


そんなコランの横で、レイトが何やら考え込んでいる。

今のアイリは、どうやらイリアの人格である事にも気付いた。

冷静なレイトは、イリアの答えを聞くよりも先にコランを落ち着かせようとする。


「王子、よく考えて。魔獣界の目的を考えると、ディア先生の身に危険はないと思うよ」


そう。エメラの目的がディアと結ばれたいという事ならば、ディアの身に危険はない。

ディアの事だ。魔界の安全を考えて、一人で決着を付けに行ったのは予想できる。

だが当然コランは、それだけでは納得できない。


「でも、それでいいのか!?ディアはオレたちの家族なんだ!アイリだって、そうだろ!?」


するとイリアは、バン!!とコランの座る机に両手を突いた。

そして、キッとコランを睨みつける鋭い眼には、鬼気迫るものがある。


「よくないに決まってるじゃない。だから、アタシがディアを連れ戻しに行く」

「……へ?」


アイリらしからぬ迫力に押されて、コランは身を引いた。


「ディアが言ったのよ。もし戻らなければ、アタシに迎えに来てほしいって」

「え?アイリが魔獣界に行くのか?それこそ危険だろ!」

「平気よ、下僕しもべも連れて行くから」


するとイリアは、横に立つレイトに視線を送る。


「レイトくん、いいわよね?アタシに従いなさい」

「うん。王女には逆らえないからね」

「えぇ!?レイトお前、いつの間にアイリの下僕しもべになったんだ!?」


もう、コランには何が何だか分からない。

だがレイトは単にイリアに服従するのではなく、正当な理由がある。

レイトの考えは、こうだ。


「例え命に危険がなくても、ディア先生を魔界に帰す保証はない。監禁されてる可能性もあるからね」

「さすがはアタシの下僕しもべね」


イリアは、ようやく笑みを浮かべた。


ディアが魔獣界にいる以上、魔界も、ディアの身にも危険はない。

しかしディアが帰ってこない状況からして、彼に何かあったのは確実だ。

現状、魔獣界とは争っていないので、魔獣界に行くだけなら危険ではないだろう。

……歓迎は、されないだろうが。

むしろ、護衛や兵を連れて大人数で行く方が警戒されてしまう。




こうして、イリアとレイトは二人で魔獣界へと向かう事になった。




二人は、城下町の外れにある森から侵入を開始した。

昼前の森は視界が明るく、気の立った魔獣の活動も少ないようだ。

……が、それでもやはり警戒して襲ってくる大型の魔獣は、それなりにいる。


「ほら、レイトくん、出番よ」

「ブリザード・アロー!!」


レイトが魔法書を開くと、そこから氷の矢が放たれて魔獣の足元を氷で覆う。

魔獣が襲ってくる度に、レイトが氷の魔法で足止めをする。

イリアがレイトを連れてきた理由の1つは、氷の魔法を得意とするからだ。

魔獣は火に弱いが、森で炎系の魔法を使うのは危険すぎる。

魔獣の足止めはレイトに任せて、イリアはどんどん先へと進んでいく。


「王女、魔獣界ってどこにあるか知ってるの?」

「アンタ、便利なアイテム持ってるでしょ」


なんとイリアは、行き先も分からずに森を直進してるだけのようだ。

レイトはポケットから方位磁石のようなアイテムを取り出す。


「強い魔力の反応は、あっちの方向だよ」

「そ。なら、そっちに行くわ」


道案内もレイトに任せて、イリアはただ先を歩くのみ。

レイトは片手に魔法書を、もう片手に方位磁石を持っている状態だ。

イリアの背中を追いかけながら、レイトは独り言のように呟く。


「まったく王女は、人使いが荒いなぁ」

「聞こえてるわよ」


イリアは振り向きもせずに背中で言葉を返す。

やがて、方位磁石の反応が振り切れそうなほどに強くなる。

そこでイリアは足を止めた。

周囲は何の変哲もない森の風景だ。


「この辺から魔獣界へ入れそうね」

「確か、魔獣しか出入りできない結界が張られているんだよね。どうやって入るの?」


レイトの魔法でも、さすがに結界解除はできない。

イリアは突然、何もない空中に向かって片手を広げて突き出した。

すると胸元のペンダントが赤い光を放ち、イリアの手にも魔力の光が集まる。

その光が手から離れると、空間の歪みの渦が発生した。

ちょうど人が通れるくらいの大きさだ。


「魔獣界への入り口を開いたわ。行くわよ」

「えっ……あ、うん」


まさかイリアが、魔獣しか通れないはずの結界を……。

……もしかして、イリアの正体は魔獣?

……いや、体はアイリなのだから、ありえない。

レイトの中でイリアという存在の謎が深まったが、今はそれを問う暇もない。

渦の中に入ると、すぐに目の前に広がって見えた光景にレイトは驚く。

そこは、まるで魔界の城下町そのもの。

魔獣界とは言っても魔獣たちは、ここでは人の姿で生活をしているのだ。

狭い土地で暮らすには、巨体の姿よりも都合が良いのかもしれない。


「ここが魔獣界?魔界の城下町にそっくりだけど……」

「ふん、趣味の悪いパクリね」


イリアは吐き捨てるように言うと、躊躇いもなく道の真ん中を突き進む。

見事に人混みの中に紛れて、全く違和感がない。

なんという度胸だろうか。冷静なレイトも度肝を抜かれて慌ててしまう。

早歩きでイリアの隣まで追いつくと、小さな声で耳打ちする。


「この人たち全員、魔獣だよね?僕たちが異種族だってバレたら大変だよ」

「堂々としてりゃバレないわよ」


そのまま道を直進すると、やがて巨大な城が見えてくる。

これも魔界の魔王の城にそっくりだ。

正門の左右には見張りの門番らしき兵がいた。

正面から歩いてくるイリアとレイトの姿を見ると、すぐに開門した。

まるで二人が来るのを待ち構えていたかのように。


「どうやら、あの女。全てお見通しのようね」


イリアが不敵な笑みを浮かべる。

エメラは、すでに二人が魔獣界に侵入してきた事に気付いている。

それでいて、二人を城内に招待しているかのようだ。

警戒や攻撃されるよりはマシだが、歓迎される理由もない。

……なんだか不気味だ。


城内に入ってそのまま直進すると、一際大きな扉が前方に見えてくる。

あの扉の向こうが『玉座の間』なのだろうと、雰囲気で分かる。

ここでもイリアとレイトが扉に近付いた途端に、自動で開門した。

すると、開いた扉の先に立っていたのは……


「ようこそいらっしゃいました、王女様……と、お連れの方」


両手を前で重ねて、丁寧にお辞儀をするエメラ。

深緑の長い髪に、黒のドレスを纏った、上品な佇まい。

この人が例のエメラか、と警戒するレイトを後ろに置いて、イリアが前に出てくる。


「ディアを、さっさと返しなさい」


用件だけを告げるイリアの命令口調に、エメラは静かに笑顔を返す。


「それは残念ですわ。ディア様は、ここにはおりませんの」

「嘘つくんじゃないわよ」


いつものアイリと雰囲気が違う事にエメラは気付いたが、さほど気にしていない様子だ。

その時レイトが、前方に立つエメラよりも、さらに奥の方を指差す。


「王女、あそこ!あそこに座っているのは……!!」


イリアも、エメラを越えた遥か先に目を凝らす。

階段の上に設置された2つの椅子。その玉座に座っている人物が微かに見えた。

次の瞬間イリアは、前方のエメラを押し退けて駆け出していた。


「ディア!!」


玉座へと近付き、息を切らして階段の下から玉座を見上げる。

レイトも、その後を追ってイリアの後ろに立つ。

玉座に座っているのは、確かにディアだろう。

だがその姿は、いつもの彼らしくない黒衣と黒のマント。

そう、まるで……アイリの父、魔王を思わせる出で立ちなのだ。

そして彼はイリアの姿を見ても反応せず、感情もなく見下ろしているだけ。


「ディア!約束通り迎えに来てあげたんだから、帰るわよ」


するとディアは、ようやく腰を上げて、ゆっくりと立ち上がる。

そして、その口から放たれた言葉は……


「忌まわしいその名で、私を呼ぶな」


ディアの口から出たとは思えない冷淡な命令口調に、衝撃が走る。

目を見開き、立ち尽くすイリアの前で、ディアは追い討ちをかける。


「その名は、魔王が名付けたのだろう?私の真の名ではない」

「ディア、何言ってるの……じゃあ、アンタは誰なのよ」



「私は、魔獣界の王。魔獣王アディだ」



『アディ』と名乗った彼は、その姿は、間違いなくディア。

しかし、どういう訳なのか、人格は全くの別人に変わっていた。

そのディアの変貌ぶりに、レイトも戸惑いを隠せない。


(これは、どういう事なんだろう?王女もディア先生も、二重人格?)


アイリの別人格、イリア。

ディアの別人格、アディ。


対峙している二人の姿はアイリとディアなのに、人格はイリアとアディ。

不可思議な状況ではあるが、今はまだ、その謎は解けない。

『アディ』の名を聞いたイリアは何かに気付いたようで、腕を組んで余裕を見せる。


「ふーん、なるほど、アディね。アンタ、自分が誰なのか分かって言ってるの?」

「何度も言わせるな。それに、貴様と約束をした覚えなどない」


イリアは問いかけによって、アディの本質を探り出している。

『もし私が戻らなければ、迎えに来てほしい』とアイリに告げた約束を、彼は覚えていない。

次にイリアは確認するように横目でエメラを見るが、澄ました顔で反応は返ってこない。

未だ疑問の解けないレイトがイリアに問いかける。


「王女、あの人は本当にディア先生なの?」

「そう、あれは本物のディアよ。あの女に記憶を封印されたのね」


アディは、ディアの別人格ではない。

魔獣としての本能と宿命のままに生きる『アディ』こそがディアの本質であり、本来の姿。

魔王と出会い、『ディア』という名前を与えられて、魔界で生きてきた現在までの記憶。

『ディア』として生きてきた記憶だけをエメラに封印されたのだ。

イリアはさらに、アディを試すように挑発を続ける。


「じゃあアディは、あの女と結婚するワケ?」


イリアは腕を組んだまま、顎でクイッとエメラの方を指し示す。

それは核心に迫る問いかけで、答えによってはアイリの人生を左右するほどに重要な事だ。

それを今の状況で、あえて聞くイリアの意図こそが不可解だ。

絶望的な答えが返ってくると、分かりきっているのに。


「エメラはいずれ、私の妃となる」


迷いもなく断言したアディに衝撃を受けたのは、イリアよりもレイトだ。

イリアは、アディの言葉、何を聞いても余裕を崩さない。

それどころか、愕然としているレイトの腕を引き寄せて、いきなり抱きついた。


「じゃあアタシは、レイトくんと浮気しちゃうから!!」

「えっ!?お、王女っ!?」


その時、アディの眉がピクッと反応した。

突然、この状況で何をふざけた事を言い出すのか、レイトは慌てふためく。


「王女、そ、そんな、ダメだよ、僕は……!」

「あらやだ、本気にしないでよ」


本気で顔を真っ赤にしているレイトに対して、イリアは意地悪そうに突き放す。

気を取り直して、イリアは壇上のアディを睨みつける。


「ま、それは冗談として。どうやら調教が足りなかったようね、ディア」

「その名で呼ぶな。用がないなら立ち去れ」

「まだ用があるのよね。アタシじゃなくて、もう一人」


イリアは目を閉じると、突然ガクッと脱力したように床に両膝をついた。

うっすらと開かれた瞳の色が、金から栗色に変わる。


「あ……れ?ここ、どこ……?」


朦朧とした意識の中で目覚めたのは、アイリの人格だ。

レイトがアイリの様子を見て、その変化に気付く。


(えっ!?王女の人格が戻った!?今は……まずい!)


そんな危機感に動揺するレイトだが、どうする事もできない。

一体イリアはなぜ、この最悪のタイミングでアイリと入れ替わったのか。

アイリはまず、隣にいるレイトの存在に気付く。


「レイトくん?ここ、どこなの……?」


レイトが返事に迷っていると、次にアイリは斜め前に立つエメラの姿に気付いた。


「エメラさん?なんで、ここに……」


次にアイリは、ようやく正面、階段上の玉座に気が付く。

その椅子の前に立っているのは、黒衣を纏った……


「ディア……!!」


アイリは、おぼつかない足取りでフラフラと歩を進めて階段に足を乗せる。

しかし、その歩みを止めたのは無情にも階段上のディア。


「私はディアではない。魔獣王アディだ」


アイリは足を止め、目を見開いてディアを見上げる。

目の前の人は、確かにディアなのに……確かに、ディアの声なのに。

その冷たく見下す視線も、名前も、アイリが知るものではない。


「ディア……何言ってるの?ディア……でしょ?」

「ならば逆に問う。貴様は誰だ」

「……!?」


まるで別人のようなディアは、アイリの事など何もかも忘れてしまったかのようだ。

今、ここがどこで、どういう状況で、ディアは一体、どうして……?

イリアであった時の記憶がないアイリには、何が起きているのか、全てが分からない。


「ディア、忘れちゃったの?私は、アイリ……だよ……ディアの、婚約者、だよ……?」


震える体と唇で、途切れ途切れに何とか必死に言葉を繋げていく。

レイトは何もできない歯痒さと、そんなアイリの姿を目に映す辛さで、目を瞑りたい衝動にかられた。

それでも……アディとなったディアは、アイリの言葉を無残に打ち砕く。


「記憶にない。私の婚約者はエメラだ」


「……え?」


アイリは、ゆっくりと横のエメラに視線を移す。

すると視界に映ったのは、エメラの顔ではなく……胸元。

エメラの胸元には、小さな青い宝石のペンダント。

まるで、アイリの赤い宝石のペンダントと対をなすような……。

だとすれば、あれはディアからの『婚約の証』。


「い……や……」


アイリは無意識に、自身の胸元のペンダントの赤い宝石を片手で握りしめた。

これは確かに、ディアが愛を込めて贈ってくれた婚約の証……だったはず。


それなのに、もう、その意味はない……?

ディアは私ではなく、エメラさんを選んだ……?


見開いた栗色の瞳から涙が溢れ、次々と零れ落ちていく。

アイリの感情も涙も、もう誰にも止められない。


「いやぁぁぁあああ!!!」


アイリの叫びが玉座の間に響き渡り、その反響が魔力の波動となる。

それは、まるで地鳴りを伴った地震のように、周囲に強力な振動を引き起こす。

柱や壁が軋めいた音を立てて、ピシピシと亀裂を発生させて周囲に広がる。

これは、アイリの魔力の暴走だ。

感情の乱れは、魔力の乱れ。

魔王と同等の強大な魔力を持つアイリは、普段から魔力の制御ができない。

それが暴走してしまえば、誰にも止められない。

レイトは、なんとかアイリの両肩を掴む。


「王女!?落ち着いて!!力を抑えて!!」

「いやぁっ!!いやぁっ……!!」


アイリは激しく首を振り、涙を撒き散らしながら泣き叫ぶ。

もはやレイトの言葉や制止など、アイリには無意味だ。

このままでは、この城ごと破壊してしまう。

ここで、ようやくエメラが動いた。


「なんて力ですの……このままでは危険ですわ……!!」


エメラは両手を突き出して構えると、アイリに向かって魔力を放った。

その魔力はアイリとレイトを包み込み、発生させた空間の歪みの中へと押し込んだ。


「どうぞ、お引き取り下さいませ……!!」


やがて、アイリとレイトの姿はその場から消え去った。

エメラの魔法によって、二人は強制的に魔獣界の結界の外へ追い出されたのだ。




ドサッ


アイリとレイトは、森の中の地面に乱暴に放り出された。

ここは元来た道で、魔界の森の中だ。


「いてて……王女、大丈夫?」


尻餅をついた形で着地したレイトは、隣に倒れているアイリに声をかける。

だが、アイリは地面に伏せたままで微動だにしない。

膨大な魔力を放出しすぎて気を失ったのだろう。


「大丈夫……じゃなさそうだね」


レイトはポケットから携帯電話のような通話アイテムを取り出した。

歩いて帰るのは不可能だと判断したレイトは、城に連絡して救助隊を呼ぶことにした。




こうして、なんとか魔界の城に運ばれたアイリだったが……

ベッドで眠り続けるアイリは、一向に目を覚まさなかった。

それは魔力の消耗や外傷が原因ではなく、精神的ショックによると思われた。

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