なんとか無事に城に帰れた、その日の夜。
アイリは、いつものようにパジャマ姿でディアの部屋のベッドの上に転がっている。
そこにディアが覆いかぶさってくる。
「今日はお疲れ様でした。おやすみなさいませ」
「……うん。ディアは今日、よく休めた?」
「はい。おかげ様で」
ディアを目の前にしてもアイリの思考は、どこか別の場所にあった。
まだ今日の出来事は誰にも話していない。
明日になったら、ディアにもコランにも、全てを話そう……。
そう思いながら、アイリはディアの首に両腕を絡めて引き寄せる。
「ディア。ずっと離れないでね……?」
この先の不安を感じたアイリは、念を押すかのようにディアに問いかける。
「承知致しました」
そしてディアの返事は、笑顔は……いつもと同じだ。
……今日のエメラの事を話したら、ディアはどんな選択をするだろう?
……『命令』だと言えば、ディアはずっと離れないでいてくれるだろうか。
しかし、それではディアの感情を無視して手に入れようとするエメラと同じだ。
部屋の明かりを消して布団に入ってからも、アイリはずっと考えていた。
そして、いつの間にか眠っていた。
アイリが眠ったのを確認すると、ディアはようやく瞼を閉じた。
……だが突然、アイリが起き上がった。
アイリの深夜の唐突な覚醒。それが何を意味するのか、ディアは分かっている。
「イリア様……?」
今のアイリは、イリアの人格に変わったのだ。
アイリが眠ると同時に、イリアの人格は覚醒する。
イリアはベッドから降りると、ディアに背を向けて部屋を出て行こうとする。
「イリア様、どちらへ……?」
いつもの『調教』が始まると思っていたディアは、イリアの行動を不思議に思う。
イリアは振り向きもせずに、背中を向けたままディアに命じる。
「ディア、命令よ。少しだけ大人しく待ってなさい」
イリアの命令はディアにとって『絶対』なのだ。
それは理屈ではない、契約による強制力の絶対服従。
やはりディアは、こう返すしかなかった。
「……承知致しました……」
時刻は深夜。
城内は静まり返っているが、その中に明かりの灯った大部屋がある。
そこは無数の本棚が果てしなく並ぶ、城の図書館。
深夜の図書館を独占し、読書用の机に一人で座っているのは、レイトだ。
机の上には辞書のように分厚い本が数冊積み重なっている。
黙々と読書を続けているレイトの正面に、足音もなく突然、何者かの影が近付いた。
レイトが顔を上げて、正面を見据える。
「王女……?」
レイトの机の前に立っていたのは、パジャマ姿のアイリだ。
イリアの存在を知らないレイトは、今の彼女をアイリだと思っている。
イリアは、レイトが手元で広げている本を覗き込みながら言う。
「こんな時間に何してんの?」
いつものアイリの口調と違う印象だが、レイトは気にせずに答える。
「何って、読書だよ。この図書館の本を読み尽くすチャンスだからね」
レイトは、コランの側近を務める1年間は、城に住み込みで働いている。
普段は入れない王宮の図書館の本を、1年かけて読み尽くすつもりなのだ。
それほどに読書好きで速読のレイトなら、本当に達成しそうに思える。
「ふ〜ん。なら、知識量はすごいのね。じゃあ、頭のいいレイトくんに、質問」
「え?」
なんだか口調も雰囲気もアイリとは違うと気付き始めたレイトは、注意深くイリアを見る。
イリアの瞳の色は、月のような金色に輝いていた。
「悪魔と魔獣が結ばれて子を成す可能性って、ある?」
意図の読めない、イリアの唐突な質問。
おそらくそれは、アイリとディアの事を言っているのだろう。
レイトはイリアに警戒しながらも冷静に答えを返す。
「前例がないから、確かな事は言えないよ」
「何よ、分からないの?」
「だから、これは僕の考えだけど」
レイトは緑の瞳で、イリアの金色の瞳を真直ぐに見返して続ける。
「可能性はゼロじゃない。前例がないなら、自分が最初の例を作ればいい。それが可能性を示すんじゃないかな」
それを聞いたイリアは、満足したように満面の笑顔になる。
すると次にイリアは、レイトの座る机の上に堂々と腰掛けた。
そして上半身を倒して、レイトの眼前に迫る。
「アンタ、気に入ったわ。アタシの
その悪魔の微笑みは、あまりにも普段のアイリからは、かけ離れていて……
背筋が凍るような威圧に、自然と身動きが取れなくなる。
「君……もしかして、王女じゃないの?」
「アタシは『イリア』よ。本当はディア以外には内緒なんだけど、アンタには許してあげる」
どこまでも上から目線の、王女というよりは女王様。
そんな女王に迫られながらも、聡明なレイトは冷静に状況を判断し理解した。
どうやら、アイリには『イリア』という別人格が存在するのだと。
そんな事を考えていたら突然、レイトの頬に柔らかい感触が触れた。
「えっ……!?」
イリアがレイトの頬にキスをしたのだ。
成す術もなく、レイトはイリアの金色の瞳を至近距離で呆然と見ているだけ。
イリアは妖艶な微笑みを浮かべて、レイトの瞳を……心をも捕らえる。
「アタシの唇はディアだけのものだから、これが契約の証」
「契約?」
「そ。これで、アンタはアタシに服従するの」
唇どうしのキスではないから、正式な契約としては成立していない。
これは強制力のない、イリアの形式上の契約の形。
文字通り、単なる『口約束』の関係でしかないが、それだけでも充分な束縛の効果を発揮する。
すでにイリアはレイトの心を縛ってしまったのだから。
「命令よ。アタシの事は誰にも言っちゃダメ。内緒よ。分かった?」
「う、ん……分かった」
すでにレイトは、イリアの言いなり……という訳ではない。
イリアに逆らえば、王宮やアイリの身に危害が及ぶかもしれないと危惧したからだ。
今は、イリアという謎の人格に従うしかない。
「ふふ、いい子ね。じゃ、おやすみ」
今度は子供のようにニッコリと笑うと、イリアは机の上から降りた。
そして片手をヒラヒラと振りながら、背中を向けて図書館から出て行く。
レイトはただ、その小さな背中を呆然と見送った。
そして……片手で頬に触れて、先ほどの『契約』の感触を思い出していた。
レイトは、もはや読書に集中できるような心境ではなくなっていた。