そんな、ある日の朝。
ここは、いつもの通り、ディアの部屋のベッドの上だ。
「ディア!!起きて、ディア!!」
自分の体が揺すられている感覚と、アイリの必死な声で、ディアは目を覚ました。
寝起きのディアは目を半開きにして、ようやく隣のアイリに焦点を合わせる。
「……アイリ様?」
「うぇ〜ん、ディア〜!!良かったぁ〜、目ぇ覚ましたぁ……!!」
アイリは目に涙をいっぱい溜めて、今にも大泣きしそうだ。
朝なのだから目を覚ますのは当然なのだが、アイリは何をそんなに心配していたのか?
「どうしたのですか?何事ですか?」
「それはこっちのセリフだよ〜!!ディア、全然起きないから、心配でぇ……」
ディアはいつも早起きなので、必ずアイリよりも先に起きている。
そんな彼が、珍しくアイリよりも目覚めるのが遅かった。
要は、朝寝坊した。それだけの事なのだが……。
ディアが寝坊するのは、そのくらい珍しい事なのだ。
「あぁ……申し訳ありません。もう、こんな時間なのですね」
「ディア、大丈夫?最近、疲れ気味だし、今日は休んだ方がいいよ……」
確かにディアは最近、心身共に疲労していて寝不足だ。
その原因は、アイリ……いや、イリアにもあるのだが……。
朝昼はアイリと仕事して、夜はイリアに調教され……なんとも背徳的な暮らしだ。
「大丈夫ですよ。すぐに起きて支度を……」
そう言いかけたディアを、アイリが珍しく強気に制止した。
「今日はダメ、休んで!」
「ですが、側近の私が休んでは……」
「1日くらい、仕事は私1人で大丈夫だから。ね?」
それでも返事をしないディアに、アイリはトドメの一言を放つ。
「ディア、これは命令!」
「……承知致しました」
ディアはアイリの命令を決して拒めない。
最近、アイリがちょっと強気になってきたのは、イリアの影響なのだろうか。
だんだんと、二人から同時に調教されている気分になるディアであった。
昼休みになると、アイリは一人で城下町に出かけた。
本来なら、王女が護衛も付き添いも連れずに一人で出かけるなんて、ありえない。
アイリにとって城下町は地元の商店街の感覚で、完全に安心しきっていた。
(ディアが元気になりそうなもの……果物がいいかな)
そんな事を思いながら、人通りの多い繁華街の道を歩いていく。
果物なら城にあるだろうが、ディアにあげる物は自分で選んで買いたいのだ。
小柄なアイリは人混みの中に紛れてしまえば、王女だからといって目立つようなことはない。
青果店を目指して歩いていた、その時。
「あの、すみません」
突然、見知らぬ男がアイリに声をかけてきた。
アイリは足を止めて、その男を見る。
「道をお尋ねしたいのですが」
「……あ、観光客の方ですか?はい、いいですよ」
アイリは相手が観光客だと分かると立場上、急にビジネス口調になる。
アイリが王女だとは気付かずに道を尋ねる時点で、異世界から来た異種族だろう。
道案内しようと思って歩き始めた、その時。
突然、男がアイリの片腕を掴んだ。
「えっ!?」
アイリは驚くが、強い力で引っ張られて、人気のない裏路地まで連れて行かれた。
そこには男の仲間と思われる、さらに数人の男たちが待ち構えていた。
男の一人が、アイリを品定めするような目で見る。
「人の姿に化けているが、確かに魔獣だな。このまま連れていくぞ」
「え!?わ、私は……んぐっ!?」
アイリが言い終わる前に、口に布を巻かれて、両手首に拘束具を装着された。
これはもしや、王女を狙った誘拐!?とも思ったが、何かが違う。
男たちはアイリを『魔獣』だと断言していた。
(えっ!?なんで!?私、魔獣じゃない……)
アイリが戸惑っているうちに、待機していた輸送車の荷台に乗せられてしまった。
そのまま発車してしまい、どこかに運ばれていく。
完全に魔獣として扱われているようなので、相手は誘拐犯ではなく密猟者だろう。
このままでは、どこかに売り飛ばされてしまう。
アイリは、四方を頑丈な壁で囲まれた荷台の床に座り込んでいる。
しばらく呆然としていたが、冷静に考えてみる。
(どうしよう。魔法を使えば、逃げられそうだけど……)
魔王譲りの強大な魔力を持つアイリだが、まだ完全にはコントロールができない。
少しでも加減を間違えれば、この車ごと爆破してしまう。
アイリの両腕の拘束具は魔力を封じる効果もあるが、強すぎるアイリの魔力に対しては無意味だ。
そう思っていると急ブレーキがかかって、車が止まった。
運転席のドアが開く音、男たちの大声など色々聞こえるが、状況が分からない。
(あれ?静かになった……外に出れるかも)
アイリは集中して念じ、慎重に魔法を使って両腕の拘束具だけを破壊した。
そして、口に巻かれた布も解いて捨てた。
次に荷台の扉を魔法で開けようとするが、少し加減を間違えた。
ドゴォッ!!
強力な魔法によって扉は吹き飛ばされ、荷台の後ろ半分を破壊した形になった。
「あっ、やりすぎちゃった……」
そう呟きながら、アイリは荷台から飛び降りて外に出る。
どうやらここは、城下町から離れた田舎道の真ん中だ。
車の前方に回ってみると、運転席のドアは開きっぱなしで中には誰も乗っていない。
運転していた男たちは、どうやら慌てて逃げ出したようだ。
なぜ……?と思っていると、アイリは車の正面に気配を感じた。
視線の先の地面に見えたのは、鋭い爪を持つ獣の足。
「え……?」
アイリが見上げると、そこに佇んでいたのは、背にコウモリの羽根を持つ巨大な黒い犬の魔獣。
その姿は間違いなく『バードッグ』だ。
(ディア?……違う)
一瞬、魔獣の姿のディアと見間違えたが、ディアよりも少し体が小さい。
すると魔獣の姿が光り輝き収縮すると、一瞬にして人の姿に変身した。
それは見覚えのある女性だった。
「エメラさん!?」
アイリは驚きに声を上げるが、エメラもアイリの姿を見て驚いている様子だ。
「あら?魔獣の気配がしたのですが、王女様でしたの?」
エメラは、密猟者に捕まった魔獣を助けたつもりだが、まさかアイリだとは思わなかった。
先ほどの密猟者もそうだったが、何故かアイリは魔獣だと認識されるようだ。
「王女様から、魔獣の強い魔力を感じますのよ。不思議ですわ」
「え?なんでだろう……」
今日はディアと一緒じゃないし、他に自分が纏う魔獣の魔力と言ったら……
その時、アイリはハッと気付いて、胸元のペンダントに手を添えた。
「……これだ、ディアの魔力……」
ディアが愛と魔力を込めてくれた、婚約ペンダント。
それが思わぬ誤解を招いたが、それはディアの愛の深さの証明でもあり、一層の愛おしさを感じた。
ペンダントを握りしめるアイリを見て、エメラは面白くなさそうな顔をする。
「それにしましても、王女様がお一人で外出なんて、不用心ではなくて?」
「うん……密猟者に狙われる魔獣の気持ちが分かったよ」
「それは何よりですわ」
皮肉っぽい口調で返すエメラには、アイリに敵意があるようだ。
対するアイリの思考はエメラではなく、別の所にある。
「密猟者って、森の中だけじゃないんだね……」
強い魔力を持つ魔獣は、人の姿に変身できる。そのほとんどが希少種だ。
密猟者は、人の姿で街に紛れている魔獣も狙うのだと、アイリは身をもって知った。
アイリはエメラの正面で、礼儀正しくお辞儀する。
「エメラさん。助けてくれて、どうもありがとう」
「……え?いえ、お気になさらず」
純粋で真直ぐで少しも警戒しないアイリに、エメラは毒気を抜かれてしまう。
だが、すぐに気を取り直して、いつもの調子に戻る。
「ちょうど良いですわ。王女様に見て頂きたい場所がありますの。来て頂けます?」
「え、でも、お昼休み、終わっちゃう」
「大丈夫ですわ。すぐに行けますので」
この道の両側は雑木林になっていて、エメラは片側の林の前に移動する。
木と木の間に手を差し入れて念じると、そこに空間の歪みの渦が生じた。
「ここに入り口を繋ぎましたわ。どうぞ、いらっしゃって」
「え?入り口って、どこの?」
「『魔獣界』ですわ」
そう言うと、エメラは渦の中に入っていく。
渦の中へと消えていくエメラの背中に続いて、アイリは恐る恐る足を踏み入れる。
その次の瞬間、アイリの視界に広がった光景は……
「え?ここって……城下町?」
賑わう繁華街と、道ゆく人々。その一本道の先には王宮の城も見える。
ここはアイリが先ほどまで歩いていた、魔界の城下町のようだ。
という事は、単にワープしたのだろうか。
「ここは魔界ではありません。『魔獣界』ですわ」
「え?でも……」
「よくご覧下さい」
アイリはもう一度、街の様子を眺める。
見慣れた街並みなのだが、よく見ると魔界の城下町とは雰囲気が違う事に気付いた。
建物の材質や装飾、店の並びも違うし、行き交う人々も悪魔ではないようだ。
するとエメラが説明を始めた。
「魔界の城下町を参考にして作った街なので、似ているのは当然ですわ」
「じゃあ、ここは異世界なの?」
「正確には、魔界の森の中にある『街』ですわね」
エメラが言うに、魔界の森の中に、魔獣だけが暮らす街を作ったのだという。
住民は全て『人の姿に変身した魔獣』、つまり希少種のみ。
この街は結界で守られ、外界からは存在が隠されていて、出入りできるのは魔獣のみ。
「城下町程度の小規模な街ですが、ここまで数百年かかりましたわ」
「エメラさんが一人で魔獣界を治めていたの?」
「この街を守る結界を維持できる魔獣は『バードッグ』しかいませんから」
現状、エメラが魔獣界の女王のような存在となって治めていると言える。
エメラは、城下町の街並みの先に見える城を指差した。
「あのお城には、まだ王が存在しません」
アイリには、エメラが何を言おうとしているのか分からない。
しかし突然、エメラが淡々とした口調に変わった事で、強い胸騒ぎを感じた。
「この世界には王が必要なのです。そして、王の力を継ぐ後継者も……」
アイリは胸元のペンダントを両手でぎゅっと握りしめて顔を伏せた。
エメラの、その先の言葉を聞くのが怖い。
「それが魔獣王、ディア様なのです」
その名を聞いたアイリは、衝撃に目を見開いた。
アイリはエメラの真意にも気付き始めた。
魔獣を守れる強さと、結界を維持できる魔力を持つのは、希少種の『バードッグ』しかいない。
ディアを王に据えて『バードッグ』の子孫を残し、後継者へと繋げていく。
そのためにエメラは、ディアと結ばれたいのだと。
しかしアイリの感情としては、それは到底納得できるものではない。
「そんな、勝手に……だってディアは、私と婚約……」
「そうですわね。ですから、婚約破棄して下さい」
「!?」
あまりにも無情で冷淡なエメラの返しに、アイリは恐怖すら感じ始めた。
エメラがアイリに向ける金色の瞳は憎悪、敵意を滲ませた色に変わっていた。
そう。最初からエメラは……アイリを、悪魔を、王族を、憎んでいたのだ。
「わたくしは魔王が憎い。ディア様を連れ去って下僕に仕立て上げた魔王が、王族が……憎いのです」
アイリは身の危険を感じて、一歩後ずさった。
エメラの言葉はつまり、アイリへの憎しみでもある。
エメラがこの場所にアイリを連れてきた、その意味が……密猟者以上に恐ろしい予感がする。
「エメラさん、違う……ディアは、自分の意志でパパの側近に……」
「聞くところによれば今、魔王は不在のようですわね?」
エメラはすでに、アイリの言葉に聞く耳を持たない。
「今なら、簡単に魔界は落とせそうですわね」
笑みを浮かべながら恐ろしい野望を口にするエメラに、アイリは言葉を失う。
争い事に発展すれば、ここは敵地で逃げ場はない。
アイリは今この場で始末されるか、人質にされるか、どちらかだろう。
どの道、ディアの婚約者であるアイリは邪魔な存在なのだ。
……かと思うと、エメラは柔らかい笑顔を向けた。
「ご安心を。王女様をどうこう致しませんわ。ただ、ディア様にお伝え頂きたいのです」
「え……?何を……?」
「魔獣界にお越し頂けないのでしたら、魔界の王宮に総攻撃をしてでもお迎えに上がります、と」
「そんな、それって!?」
それはまるで、宣戦布告。魔獣界と魔界の戦争を意味する。
ディアを魔獣界に引き渡すか、戦争で争うのか。その二択を提示されたのだ。
アイリは王女として、魔界の平和を守るという使命がある。
「エメラさん、待って!他にも何か方法はあるはずだから、話し合って……」
「……わたくしが言うべき事は、それだけですわ」
エメラが吐き捨てるように言うと突然、アイリの周囲の空間が歪み、渦の中に飲み込まれていく。
「エメラさんっ……!!」
「ごきげんよう」
エメラの笑顔に見送られて、アイリは渦の中へと消えていった。
ドサッ!!
アイリが尻餅をついて着地したのは、馴染みのある土と樹木の風景。
どうやら、魔界の城下町近くの森の中のようだ。
エメラの魔法によって、魔獣界から強制的に追い出されてしまったのだ。
エメラの方から招待したのに、なんとも身勝手で乱暴な扱いだが……。
それでも、無事に帰れただけでも幸運だとアイリは思った。
(でも、どうやって帰ろう……)
地元の森と言っても広すぎて、どの方角に城下町があるのか分からない。
普段は魔法で隠しているが、悪魔にはコウモリのような羽根がある。
悪魔と人間の混血であるアイリにも羽根はあるので、飛んで帰るという案が思い浮かんだ。
アイリは上空を見上げるが、周囲の高い木には鳥の魔獣も生息している。
変に刺激して、空中で襲われたら危険だ。
……どうしようかと考えていた、その時。
ガサガサッ
アイリの横の方向の茂みから、野生の魔獣が現れた。
それは大きな黒い熊のようで、鋭利な爪を持ち、唸り声を上げて威嚇している。
アイリとの距離は数メートルあるが、魔獣の足なら一瞬で飛びかかってくるだろう。
(……どうしよう!)
アイリは驚くが、それは身の危険を感じたからではなく、別の理由がある。
アイリには強大な魔力があるので、普通の魔獣が相手なら負ける事はない。
だが魔力のコントロールが苦手なアイリは、魔法を暴走させてしまう可能性が高いからだ。
(魔獣は火が苦手だから、少しだけ火を出せば逃げていくかも……)
そう考えながら、魔獣に向かって両手を突き出して構える。
魔獣は警戒心から気が立っていて、アイリに襲いかかろうとしてきた。
(力を抑えて、少しだけ、少しだけ……火!!)
慎重に念じて、アイリが火の魔法を放とうとした、その瞬間。
「ブリザード・アロー!!」
どこからか聞こえてきた少年の声と共に氷の矢が放たれ、それは魔獣の足元の地面に突き刺さった。
すると氷は地面を伝って周囲に広がり、魔獣の両足の膝あたりまでを凍りつかせて身動きを封じた。
何が起こったのかと、アイリは氷が放たれた方向を見る。
そこには、魔法書を片手に持った、一人の少年がいた。
「レイトくん!?」
「危なかったね。森で火の魔法を使って火事になったら大変だよ」
レイトは、辞書のような分厚い魔法書を片手でパタンと閉じてから魔法で消した。
コランの側近・レイトは、頭脳明晰で魔法の腕も一流、苦手なのは運動くらい。
特に氷の魔法が得意なのだ。……さすが、クールなだけある。
レイトは、アイリの片腕を掴んで走り出そうとする。
「さぁ、王女。こっちだよ、早く!」
「あ、でも、あの魔獣は大丈夫?」
「大丈夫、そのうち氷は溶けるから」
こんな時でも魔獣の心配をするアイリだが、あの氷の魔法は魔獣を足止めするだけのものだ。
少し走ると、やがて森を抜けて、城下町が見える道に出る事ができた。
思ったよりも城下町に近かったらしい。
ここでようやく、アイリはレイトと向かい合った。
「ありがとう、レイトくん。でも、なんで来てくれたの?」
「王子に頼まれたんだよ。昼休みが終わっても王女が戻らないから探して来いって」
「そうなんだ。でも、よくここが分かったね」
するとレイトは、上着のポケットから方位磁石のような小さなアイテムを取り出してアイリに見せた。
魔力探知機のようなもので、アイリの強大な魔力に反応して方向を示す。
「レイトくん、いつも便利なアイテム持ってるよね。でも、レイトくんだって森は危険なのに……」
「僕は純血の悪魔だから、王子や王女ほどじゃないよ」
魔獣は、人間の生命力に引き寄せられる習性がある。
悪魔と人間の混血であるコランとアイリは、自然と魔獣を引き寄せてしまう事があるからだ。
「それにしても王女、森の中で何してたの?」
レイトのその言葉で、アイリは先ほどまでの事を思い出した。
そして城に戻れるという安心と同時に、一気に感情が涙と共に溢れ出てくる。
「レイトくん、どうしよう〜〜ふぇぇ〜〜」
「え!?お、王女、泣かないで!!そんなに怖かったの!?」
「そうじゃないのぉ〜〜うぅ……」
「とりあえず城に帰ろう。ほら王女、もう大丈夫だから!ね?」
「う……ん……」
レイトに背中を撫でられながら、二人は城下町に向かって歩き始める。
普段はクールなレイトが、ここまで慌てるのも珍しい。
だが、今のアイリはそれを見る余裕もない。
そして、レイトも自分の心と感情を……冷静に見る余裕がなくなっていた。
今日は、朝からディアが珍しく寝坊して……
買い物に出かけたら、なぜか密猟者に捕まって……
初めて魔獣界を見て、エメラに衝撃の二択を迫られて……
色々な事が、ありすぎた。