朝、アイリは心地よい温もりの中で目覚めた。
目の前にはディアの寝顔が見える。
ディアは早起きなので、いつもだったら彼の姿は隣にない。
今日は少し早く目覚めたので、珍しく朝のディアの寝顔を見れて微笑んでしまう。
……しかもディアは、アイリを抱きながら眠っているのだ。
(わぁ……幸せ……)
すっかり目が覚めてしまったアイリは、しばらくディアの寝顔を見つめていたが、ふと視線を少し下にずらす。
ディアの綺麗な首筋と鎖骨が見えて、一瞬ドキッとするも、それの意味を探る。
……え、もしかして……?
そして次に、自分の胸元のパジャマを手で触って確認してみる。
そして、それの意味に、やっと気付いた。
(もう、ディアってば……起きてる時に、してくれればいいのに……)
頬を赤くして照れながら微笑むと、ディアの頬にキスしようと顔を近付けた。
その時、ディアの目がうっすらと開かれた。
「おはようございます……イリア様」
まだ半分、覚醒していないディアが挨拶と共に、無意識に口にした名前。
それは幸せ気分のアイリを一転させる言葉となった。
……『イリア』?
……今、私のこと『イリア』って呼んだ?
……イリアって……誰?
「ディア、私は、アイリ……だよ?」
アイリが声を震わせて問いかけるが、ディアには自覚がないようだ。
まだ眠そうな瞳をしながらも、ディアはアイリを優しく抱きしめた。
「はい。アイリ様……」
今度は、ちゃんと『アイリ』と呼んでくれた。
それに、いつもの優しいディアの瞳だ。
アイリは不安を掻き消そうと、必死に自分の中で答えを探す。
(ディア、寝惚けて言い間違えただけ……?)
(ううん、私が寝惚けて聞き間違えたのかも……)
ディアを信用しているアイリは深く疑いはせずに、そう思う事にした。
そしてディアも、今のアイリの様子を見て、ある事実に気付いた。
(イリア様の人格が現れるのは、アイリ様が眠っている間だけ……)
そして、アイリがイリアの人格であった時の記憶はない。
アイリは、自分の中にイリアという人格が存在する事に、気付いていない。
謎の存在であるイリアだが、性格や言動を除けば、その本質は同じ。
アイリもイリアも、同じようにディアを愛しているのだから。
だが同時に、アイリに言えない秘密を抱えてしまったディアは罪悪感に悩む。
別人格『イリア』、そして同種族『エメラ』からも、同時に愛されるという現状に。
アイリとディアは寝間着から普段着に着替えると、二人で一緒に部屋を出た。
朝食のために食堂に向かう途中、廊下の曲がり角を曲がった瞬間。
目の前の光景に驚き、二人は同時に立ち止まった。
かと思うと二人同時に、瞬時に曲がりを折り返して壁に隠れた。
アイリは興奮で呼吸を荒くしながら、小声でディアに話す。
「ディ、ディア、今、行っちゃダメだよ……」
「しょ、承知致しました……」
そう言うディアも、どこか冷静さを欠いているようだ。
アイリは、そっと壁から顔を出して、廊下の先の様子を覗き見る。
そこには、代理魔王のコラン、そして真菜の姿があった。
(真菜ちゃん、今日、お兄ちゃんの部屋に泊まってたんだ……)
コランと真菜は恋人どうしなので、それ自体は不思議ではない。
アイリとしても、兄のコランと、親友である真菜の恋は応援したい。
だが今の、その二人の体勢は……
コランが真菜を廊下の壁に押し付けて『壁ドン』の体勢で迫っているのだ。
アイリとディアは壁に隠れながら、その様子を固唾を呑んで見守る。
「うわぁ、お兄ちゃんってば、大胆……」
「本当は、もっと人目に付かない場所でして頂きたいのですが……」
もっともなツッコミをするディアであった。
コランとアイリが生まれた時から二人の世話役でもあるディアは、親心のように成り行きを見守る。
父親に似て、場所も空気も読まないコランが、真菜に何をしているのかと言うと……
ディアは魔獣の優れた聴覚で、二人の会話に聞き耳を立てる。
すると、まずは真菜の声。
「ちょっと……コランくん、いきなり何なの?」
いつもらしくないコランの攻めに、さすがの真菜も顔を紅潮させている。
するとコランは子供のような無邪気な笑顔で答える。
「父ちゃん直伝、壁ドンだ!」
「何それ?こんな場所で、恥ずかしいんだけど」
「どうだ真菜?オレにメロメロか?メロメロファイヤーか?」
「ちょっと意味分かんない」
ディアの耳にはその会話が聞こえていて、クールな彼も思わず吹き出しそうになる。
イケメンなのに言動が子供っぽいコランは、ムードも何もあったものじゃない。
まぁ、コランも真菜も、見た目は高校生くらいなので、それほど違和感はない。
すると突然、コランが真剣な顔つきになった。
「なぁ、真菜。オレが魔王になったら結婚するんだよな?」
「え……うん、そういう約束よね」
「オレ、魔王になったから……結婚しようぜ」
ディアは、それを聞いて、思わずハッとして目も口も開いてしまった。
二人の会話が聞こえていないアイリは、そのディアの反応が気になる。
「な、なに?ディア、お兄ちゃんたち、何を話してるの?」
「えぇと、その……コラン様が、真菜さんに、プロポー……」
「ふぇぇえええ!?わ、わ!」
何故かアイリは、自分がディアにプロポーズされた時よりも取り乱している。
しかし、当の真菜は至って冷静に返す。
「え、でも魔王って、1年間の代理で、正式じゃないでしょ」
「えぇ〜〜まだダメなのか?」
「焦らないの。私も、まだ勉強中だから。お互い一人前になったら、ね?」
壁ドン体勢のまま、ガッカリと肩を落とすコランだったが、それで諦める彼ではない。
壁ドンまでして、このままでは格好がつかない。
コランは顔を上げて、キリッとした表情で真菜に迫る。
「じゃあ……チューしていいか?」
言い方が幼すぎて、それが聞こえているディアはズッコケそうになる。
だが、そんな彼らしい言い回しも含めて、真菜はコランの全てを受け入れている。
真菜は急に、しおらしくなって頷いた。
「それなら、いいよ……」
コランと真菜は見つめ合い、その瞳と唇の距離が近付いていく。
「真菜、好きだ。大好きだ」
「うん。コランくん、私も大好きだよ」
物陰に隠れているアイリとディアは、同時にクルッと体を180度回転させた。
これ以上、見てはいけない世界に突入したからだ。
「ディア、遠回りだけど、あっちから行こう!」
「承知致しました」
コランと真菜のやりとりにドキドキしながらも、アイリは羨ましく思った。
(いいなぁ……私もディアに壁ドンされたいなぁ……)
アイリがお願いすれば、ディアは何でもしてくれるだろうが、それでは何か違う。
朝から刺激的なシーンを目撃してしまったアイリは、何だか変な思考になるのだった。
遠回りして食堂に辿り着き、アイリはテーブルに着いて朝食を食べようとする。
すると後から来た真菜が、アイリの隣の席に座った。
「アイリちゃん、おはよう」
「真菜ちゃん、おはよう。あれ?お兄ちゃんの隣でなくていいの?」
「えっ……いいのよ」
おそらく真菜は、さっきの事で照れているのだろう。
アイリが、離れたテーブル席に座っているコランを見ると、隣にディアが座っている。
おそらくディアも、アイリと真菜の女子トークに気を遣って距離を取っている。
「真菜ちゃん、その、お、おめでとう」
「……え?何が?」
「だって、さっき、お兄ちゃんから、プロポーズ……」
「やだ、見てたの?コランくんのああいう発言は、いつもの事だから」
そ、そうなんだ……?と、アイリは逆に驚いてしまった。
コランにとってはプロポーズの言葉ですら、日常的な愛情表現なのだ。
何年もかかって、やっとプロポーズしてくれた奥手なディアとは正反対だ。
だが今度は、なぜか真菜が驚いた顔をして、アイリを見つめている。
「え、なに、真菜ちゃん?」
「……アイリちゃん、もしかして……ご懐妊?」
「え、え、ええっ!?」
アイリは驚きすぎて、椅子から転げ落ちそうな勢いで体が跳ねてしまった。
正確には、本当に懐妊したかどうかは不明確な状況なのだ。
しかし、ディアにも話していない秘密なのに、どうして気付いてしまったのか。
アイリは、今はまだ隠し通そうとして必死になる。
「そ、そんな、してないよぉ!なんで、そう思ったの?」
「うーん、アイリちゃんの中に、2つの魂が見えるような気がして……」
真菜は母が人間で、父が死神だ。そして死神は人の魂が見える。
真菜は人間に近いが、最近は死神の能力も少し目覚めてきているらしい。
アイリのペンダントの魔力を読み取って贈り主も当ててしまうし、その能力は未知数だ。
それでもアイリは、ごまかそうとする。
「き、気のせいだと思うなぁ……」
「そっか。私の能力は、そこまで正確じゃないから、ごめんね」
そう謝る真菜だったが、アイリは気が気じゃない。
真菜の発言によって、推測が確信に近付きつつあったからだ。
アイリの中には、2つの魂が存在する。それは、つまり……
(やっぱり私の中に、ディアとの子が宿っているの……?)
しかし体や体調に変化はなく、今もアイリの体内に子供の姿は見付からない。
そんな日々を過ごしていた、ある日。
魔獣の保護施設から、アイリ宛に連絡が入った。
ディアと同種族、希少種の魔獣『バードッグ』が保護されたというのだ。
連絡を受けて、アイリとディアは施設へと向かった。
施設内の中でも一際大きい頑丈な大型魔獣用の檻に、その魔獣は保護されていた。
魔獣の姿のディアよりも一回り小さいサイズの、黒い毛並みの魔犬。
間違いなく、ディアと同じ魔獣『バードッグ』だ。
片足を怪我しているとの事で、大人しく丸まっている。
そして、ある程度予測していたディアは、その魔獣の姿を見て確信した。
(エメラさん……!?)
その魔獣は、間違いなくエメラだ。
魔獣の姿のエメラは何も反応せずに、ただ静かに金色の瞳でディアを見返す。
ディアの背後では、施設の管理者の男がアイリに事情を説明している。
「密猟者の仕掛けた罠で足を怪我していました。軽傷ですが希少種なので保護しました」
「森の周辺の警備は強化したのに、まだ密猟者がいるの?」
「いえ、以前に仕掛けられた罠だと思います」
「そっか……罠の回収も急がないといけないね」
そう言うとアイリは、檻の中を見つめているディアに歩み寄って隣に立つ。
ディアは、檻の中の魔獣・エメラを見つめたままだ。
「ディアと同じ種族の魔獣、初めて見たよ。何かお話できた?」
「……いえ。魔獣は言葉が話せませんから」
「あ、そっか。でもディアと同じ魔獣だから、人の姿に変身できるかも?」
アイリの言う事はもっともで、エメラは自力で人の姿に変身できる。
だが魔獣の姿のまま、ここに来たという事は、彼女の意図は……
エメラの意図を知らないアイリは、警戒もせずに話を続ける。
「自力では変身できないのかも。ディアも最初はそうだったもんね」
「……はい」
それは、数百年前。
凶暴な野生の魔獣であったディアを、魔王オランが魔法で『強制的に』人の姿に変えたのだ。
魔王の強さに惹かれたディアは服従の契約を交わし、それ以来ディアは魔王の側近として生きてきた。
そんな彼が、自力で変身魔法を使えるようになったのは、近年なのだ。
……だが、エメラは違う。
今も野生の魔獣でありながら自我を持ち、変身魔法も使える。
複雑な表情を浮かべるディアに、アイリが不思議に思った、その時。
檻の中が突然、光り輝いた。
「え……?」
アイリとディアが、同時に檻の中に視線を向ける。
そこに魔獣の姿はなく、一人の女性が座っている。
色白の肌に深緑の長い髪に金色の瞳。黒のドレスを纏った、貴婦人のような大人の女性。
人の姿のエメラである。
やはり同種族だけあって、ディアと雰囲気が似ている。
アイリは思わず、その美しい姿に見とれてしまったが、急に我に返る。
「あっ、やっぱり人の姿になれるんだね。すぐに檻から出してもらうね」
そうして檻から出たエメラには、とりあえず椅子に座ってもらった。
足を怪我しているからだ。
エメラは、アイリとディアに向かってニッコリと微笑んだ。
「助けて頂き感謝致します。わたくしの名はエメラですわ」
「私は王女アイリ、そして彼は側近のディアなの」
アイリは根っからのお姫様なので、初対面の年上女性に対してもタメ口になる。
偉ぶるわけではなく、可愛らしい見た目と口調は愛嬌があるので、相手に不快感を与えない。
そんなアイリとは逆に、先ほどからディアが無愛想なほどに表情がなく、黙ったままだ。
エメラに警戒しているのだ。
ディアの鋭い視線に気付いたのか、エメラも対抗するように視線を送った。
「失礼ですが、ディア様と王女様は、どのようなご関係でしょうか?」
唐突な質問であるが、その真意に気付かないアイリは、それを素直な意味で解釈した。
「え、だから、ディアは私の側近……」
「私はアイリ様の婚約者です」
アイリが言い終わる前にディアが言葉を被せて、堂々と婚約者を名乗った。
その力強い断言に驚いたアイリは、一気に顔を赤くしてディアを見る。
側近である前に婚約者なのだと公言されたのも同然だからだ。
(わぁ……ディアってばぁ……嬉しい、カッコいい……)
こんな時でもデレデレの顔をしてしまうアイリだが、ディアは真剣だ。
……そしてエメラも笑顔ではあるが、目は笑っていない。
「少しだけ、ディア様と二人きりにして頂いてもよろしいでしょうか」
なんとも大胆なエメラの申し出だが、アイリはそれも特に不思議に思わなかった。
「うん。じゃあ、私は奥の部屋に行くね」
(同じ種族の魔獣どうしで、話したい事もあるよね)
そう思ったアイリは、奥の休憩室で待つ事にした。
アイリとしては、野生だった頃の記憶がないディアが、過去を知る機会だと気を遣ったのだ。
……だが、ディアは、そうではない。
過去を知りたいとも思わないし、エメラと話したいとも思わない。
いや、過去を知るのを、エメラと関わるのを、本能的に恐れているのかもしれない。
アイリが去って二人きりになった広間は、重い空気と静寂。
先に沈黙を破ったのは、ディア。
「わざと、ですか?」
冷淡なディアのその一言だけで、エメラはその質問の意味を察した。
「罠で負傷したのは迂闊でしたわ。魔獣の姿でいれば、ここに来れると思いましたので」
エメラが負傷したのは、わざとではない。
だが、ここに保護される目的で、わざと魔獣の姿のまま森で待っていたのだ。
そうすれば、ディアもここに来る事は分かっていたから。
「どうしてもディア様にお会いしたかったのですわ」
「……あの件は、お断り致しました」
ディアの言う『あの件』とは、エメラからの求婚の申し出だ。
常に微笑していたエメラの表情から、スッと笑顔が消える。
「魔獣と悪魔が結ばれたところで、何も得られませんのよ」
つまり、ディアとアイリの事を言っているのだ。
愛さえあれば種族なんて……という軽い問題ではない。
魔獣と悪魔が結ばれても、子は成せないかもしれない。
しかもアイリは王位継承権を持つ魔界の王女だ。
ディアにとっては、その言葉と責任が重く伸し掛かる。
エメラが求婚してきた理由、それは……希少種どうしだから。
「エメラさんの目的は『種の存続』という事ですか?」
「そうですわね。でも、それだけでは、ありません」
数百年前、野生の魔獣であったディアが突如、森から失踪した。
魔王オランがディアを魔法で人の姿に変えて、王宮に迎えたからだ。
それから、魔獣たちの秩序が乱れ始めた。
最強の魔獣がいなくなった事で、魔獣たちを守る存在もいなくなり、密猟者も増えた。
魔獣たちは密猟者を警戒し、人を恐れ、攻撃的になった。
ディアの存在は野生の魔獣たちにとって、まさに『魔獣の王』だったのだ。
「魔獣王ディア様。わたくしと一緒に、魔獣界を治めましょう」
……それが、エメラの目的なのだ。
しかし、ディアは魔獣界の王になった覚えなどない。なるつもりもない。
いや違う。過去の記憶がないという理由で、見ないふりをしてきた。
過去はそうだったとしても……今は魔界の王女アイリの婚約者なのだ。
まるで種の繁殖が目的のように近付いてくるエメラを、受け入れる気なんて起きない。
それでもエメラは椅子から立ち上がり、ディアに歩み寄ろうとする。
しかし怪我をした片足では体を支えきれず、痛みに顔を歪ませて倒れそうになる。
「……エメラさん!」
ディアは咄嗟に駆け寄り、エメラの体を抱くようにして支えた。
その頃、アイリは休憩室のテーブルに座っていた。
なぜか急に眠気が襲ってきて、頬杖をついて乗せていた顔がカクンと落ちた。
……そういえば最近、寝不足な気がする。
それを見た管理者の男が、アイリを気遣って声をかける。
「アイリ様、隣に仮眠室がありますので、お休みになられますか?」
「う、ん……じゃあ、少しだけ……」
眠そうな足取りで、アイリは仮眠室へと向かった。
だが……わずか数分後、アイリは戻ってきた。
管理者が驚いてアイリを見ると、その目の色は、先ほどまでとは違う。
魔性を宿したかのように妖しく、鋭く、美しい金色に輝いていた。
アイリは堂々と仁王立ちして、休憩室の出入り口に立っている。
「ねぇ、この施設に監視カメラは付いてる?」
その口調も、やはり先ほどまでのアイリとは違って、強い圧を感じさせる。
管理者の男は、アイリの迫力に思わず後ずさりそうになる。
「は、はい。全室に付いてますが……」
そう言うと、アイリ……いやイリアは、悪巧みのように口元を歪めて笑った。
「アタシに見せなさい」
数時間後、アイリとディアは施設を後にする。
エメラは施設で治療を受けて、足の怪我が治り次第、元の森へ帰されるという。
施設の門を出た所で、アイリは清々しい顔でディアに向かい合う。
……すでに人格はアイリに戻っている。
「エメラさんとお話して、何か分かった?」
「いえ、特には……」
ディアは何を思うのか、歯切れが悪い。
「エメラさんや魔獣たちが安心して住めるように、頑張って森の平和も守らないとね」
そう意気込むアイリだったが、ディアには迷いがあった。
自分が森を離れたせいで、森の平和は乱されたのだ。
全ては、自分が原因なのだと。
これからの自分は、どうあるべきなのかと……。
だが、そんなディアに追い打ちをかけるように。
今夜、『お仕置き』という名の『調教』が待ち構えている事に、彼はまだ気付かない。
その日の就寝前、ディアの部屋のベッドの上に座る二人。
いつものように、アイリが『おやすみのキス』をねだる。
「ディア、今日もお疲れ様。おやすみ、んーー」
そしてディアも、いつも通り少し照れながら返す。
「はい、アイリ様。今日もお疲れ様です。おやすみなさいませ」
そう言って軽くキスをすると、ようやく部屋の明かりを消す。
とは言っても、悪魔も魔獣も夜目が利くので、暗闇の中でもお互いの姿は確認できる。
ディアはアイリが眠るまで、ずっとその顔を見つめている。
しばらくすると、アイリの呼吸が寝息に変わった。
アイリが眠っても、ディアはしばらくその寝顔を見つめて考え事をしていた。
しかし、アイリが眠った瞬間に『彼女』は目覚める。
ここが1日の終わりではない。
これからが長い夜の始まりなのだ。
突然、アイリの瞼が、カッと全開まで開かれた。
「……え?」
突然のアイリの覚醒に驚いて、ディアも目を見開く。
今のアイリの瞳の色は、ディアと同じ金色。
光源のない暗闇の中でも自ら発光する恒星のように、光り輝いている。
ディアは、すぐにアイリの異変の意味に気付いた。
「イリア様……?」
その名を呼ばれた事でイリアは満足そうに笑うと、ベッドから降りる。
そしてディアに向かって仁王立ちすると、冷たく見下ろす。
「浮気したら許さないって言ったわよね」
憎悪を込めた、その重い一言はディアの全てを制する。
ディアは起き上がって、ベッドから降りる。
その身長差から、今度はイリアがディアを見上げる形になる。
「決して、そのような事はしておりません」
ディアはイリアを恐れる事なく、真直ぐ見据えて断言する。
その言葉に偽りはない。ディアはイリアに嘘がつけないのだから。
するとイリアは、今度はどこか遠くを見つめて顔を歪めた。
「あの女、アタシのディアに手を出して、絶対に許さない」
イリアの憎悪はディアではなく、エメラに向けられている。
監視カメラの映像では、ディアに体を支えられるエメラの姿が、まるで抱き合っているように見えたからだ。
「ディア。もっと、もっと、アタシが調教してあげる」
今のイリアの金色の瞳は、エメラに対する嫉妬の炎で燃えている。
だが、すぐにその熱は愛へと変換されてディアに向けられる。
「アタシしか抱けない体にしてあげる」
妖艶に微笑むと、イリアは正面を向いたまま後ろに下がって背を壁に付ける。
すると今度は、無邪気に笑ってディアを自分の元へと誘う。
「アタシ、ディアに『壁ドン』されたいなぁ」
「……は?」
「さぁ来て、ディア」
「……承知、致しました……」
ディアは契約により、イリアの『お願い』を拒めない。
「そうよ、ディア。もっと、もっと、アタシを愛して……」
ひたすらにディアを求めるイリアは、愛に飢えているようにも見える。
どこか必死さも感じられるほどに。
だがディアにとってそれは、さらなる罪悪感しか生まない。
何故なら、『イリア』が未知の存在だからだ。
イリアは、アイリなのだろうか?
それなら、本能のままに愛しても罪ではないのだろうか。
ディアの中の魔獣の本能が、人としての理性を越えた瞬間に衝動は生まれる。
「……っ……イリア様……」
ディアはイリアの顔の横の壁に両手を突いて、体を密着させる。
その時のディアの表情を見て、イリアが嬉しそうに目を細める。
そう、憧れの『壁ドン』が叶ったのだから。
そしてディアの首の後ろに腕を回すと、彼の頭を引き寄せて唇を重ねた。
「ディア……好き」
……『アイリ』の人格は今、『イリア』の中で眠っている。
ディアがイリアといる時は、アイリが表に出る事はない。
今、ディアが夜を共に過ごしている相手は、イリア。
今、イリアは完全にアイリを支配して……ディアをも支配している。
「ふふ、そう……もっとキスして」
イリアの言葉のままに、ディアは何度も口付けを繰り返す。
「……そうよ、ディア、好きぃ……」
「……っ!」
ディアは思わず体を震わせる。
だが、それは決して恐怖や嫌悪によるものではない。
「私は……貴方様を……」
それは、イリアの中のアイリに向けた愛なのか。
ディアの言葉を聞いたイリアが、満足そうに笑みを浮かべる。
早朝、アイリは微かに聞こえる水音で目を覚ました。
いつもの如く、ベッドの隣にディアはいない。
そして、遠くから聞こえてくる水音。寝起きの頭でも、それの予測はできる。
(ディア……シャワー浴びてるんだ)
城内には大浴場もあるが、ディアは自室の小さなバスルームで入浴することが多い。
アイリは何を思ったのか突然起き上がって、パジャマを脱ぎ始めた。
そして……
ガラガラガラッ!!
アイリは勢いよくバスルームの引き戸を開けた。
シャワー中のディアは突然の事に驚き、思考も動きも停止する。
首だけを、出入り口のアイリの方に向けた状態だ。
ディアの頭を打ち付けるシャワーの音だけが浴室に響いている。
こんな時でもアイリの目に映るディアの姿は、水もしたたるイケメンだ。
「あ、アイリ様っ!?」
ようやく動き出したディアは咄嗟にタオルを手に取ると、とりあえず前を隠す。
いきなり浴室に入ってくるなんて大胆な行動を取るのは、イリアなのでは!?
……と、アイリの瞳を確認するが、いつもの栗色だ。
いつものアイリである証拠に、彼女は顔を真っ赤にしている。
……自分から入って来たのに。
アイリは裸の体にタオルを巻いているが、それでもスタイルの良さは際立っている。
「私も一緒に入る……いいでしょ?」
上目遣いで言うと、ディアの返事を待たずに浴室に入り、引き戸を閉める。
しかしディアは立場上、歓迎も拒否も直視もできずに、ただ慌てる。
「そ、その、良い悪いの問題では……」
「だって、パパとお母さんだって、一緒にお風呂入ってるもん」
魔王と王妃は結婚して数百年だが、未だに新婚のような甘々夫婦なのだ。
それの影響で、婚約者なら一緒にお風呂に入るのも当然という考えに至ったのだ。
ディアが公言した『婚約者』という言葉が嬉しすぎて、アイリの何かが目覚めてしまった。
「どう?ディア、気持ちいい?」
「はい、気持ちいい、です……」
「もっと強く擦った方がいい?」
「いえ、ちょうど良い、です……」
背中を流してもらってるだけなのに、変なことを言わされている気分になるディアだった。
アイリは気弱に見えて本質はイリアと同じ、ドSなのかもしれない。
側近が王女に背中を流してもらっている風景は、なんとも下克上だ。
数十分後。
風呂上がりのアイリは、顔を火照らしてニコニコしている。
「ふぅ、サッパリしたね」
「そう、です、ね……」
ディアは何故かグッタリしている。
魔獣の理性を保つには、精神と体力を消耗する。
朝も夜も、心も体も休まらないディアであった。