目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第5話『エメラの思惑と、ディアの葛藤』

朝、アイリは心地よい温もりの中で目覚めた。

目の前にはディアの寝顔が見える。

ディアは早起きなので、いつもだったら彼の姿は隣にない。

今日は少し早く目覚めたので、珍しく朝のディアの寝顔を見れて微笑んでしまう。

……しかもディアは、アイリを抱きながら眠っているのだ。


(わぁ……幸せ……)


すっかり目が覚めてしまったアイリは、しばらくディアの寝顔を見つめていたが、ふと視線を少し下にずらす。

ディアの綺麗な首筋と鎖骨が見えて、一瞬ドキッとするも、それの意味を探る。

……え、もしかして……?

そして次に、自分の胸元のパジャマを手で触って確認してみる。

そして、それの意味に、やっと気付いた。


(もう、ディアってば……起きてる時に、してくれればいいのに……)


頬を赤くして照れながら微笑むと、ディアの頬にキスしようと顔を近付けた。

その時、ディアの目がうっすらと開かれた。


「おはようございます……イリア様」


まだ半分、覚醒していないディアが挨拶と共に、無意識に口にした名前。

それは幸せ気分のアイリを一転させる言葉となった。


……『イリア』?

……今、私のこと『イリア』って呼んだ?

……イリアって……誰?


「ディア、私は、アイリ……だよ?」


アイリが声を震わせて問いかけるが、ディアには自覚がないようだ。

まだ眠そうな瞳をしながらも、ディアはアイリを優しく抱きしめた。


「はい。アイリ様……」


今度は、ちゃんと『アイリ』と呼んでくれた。

それに、いつもの優しいディアの瞳だ。

アイリは不安を掻き消そうと、必死に自分の中で答えを探す。


(ディア、寝惚けて言い間違えただけ……?)

(ううん、私が寝惚けて聞き間違えたのかも……)


ディアを信用しているアイリは深く疑いはせずに、そう思う事にした。

そしてディアも、今のアイリの様子を見て、ある事実に気付いた。


(イリア様の人格が現れるのは、アイリ様が眠っている間だけ……)


そして、アイリがイリアの人格であった時の記憶はない。

アイリは、自分の中にイリアという人格が存在する事に、気付いていない。

謎の存在であるイリアだが、性格や言動を除けば、その本質は同じ。

アイリもイリアも、同じようにディアを愛しているのだから。

だが同時に、アイリに言えない秘密を抱えてしまったディアは罪悪感に悩む。

別人格『イリア』、そして同種族『エメラ』からも、同時に愛されるという現状に。





アイリとディアは寝間着から普段着に着替えると、二人で一緒に部屋を出た。

朝食のために食堂に向かう途中、廊下の曲がり角を曲がった瞬間。

目の前の光景に驚き、二人は同時に立ち止まった。

かと思うと二人同時に、瞬時に曲がりを折り返して壁に隠れた。

アイリは興奮で呼吸を荒くしながら、小声でディアに話す。


「ディ、ディア、今、行っちゃダメだよ……」

「しょ、承知致しました……」


そう言うディアも、どこか冷静さを欠いているようだ。

アイリは、そっと壁から顔を出して、廊下の先の様子を覗き見る。

そこには、代理魔王のコラン、そして真菜の姿があった。


(真菜ちゃん、今日、お兄ちゃんの部屋に泊まってたんだ……)


コランと真菜は恋人どうしなので、それ自体は不思議ではない。

アイリとしても、兄のコランと、親友である真菜の恋は応援したい。

だが今の、その二人の体勢は……

コランが真菜を廊下の壁に押し付けて『壁ドン』の体勢で迫っているのだ。

アイリとディアは壁に隠れながら、その様子を固唾を呑んで見守る。


「うわぁ、お兄ちゃんってば、大胆……」

「本当は、もっと人目に付かない場所でして頂きたいのですが……」


もっともなツッコミをするディアであった。

コランとアイリが生まれた時から二人の世話役でもあるディアは、親心のように成り行きを見守る。

父親に似て、場所も空気も読まないコランが、真菜に何をしているのかと言うと……

ディアは魔獣の優れた聴覚で、二人の会話に聞き耳を立てる。

すると、まずは真菜の声。


「ちょっと……コランくん、いきなり何なの?」


いつもらしくないコランの攻めに、さすがの真菜も顔を紅潮させている。

するとコランは子供のような無邪気な笑顔で答える。


「父ちゃん直伝、壁ドンだ!」

「何それ?こんな場所で、恥ずかしいんだけど」

「どうだ真菜?オレにメロメロか?メロメロファイヤーか?」

「ちょっと意味分かんない」


ディアの耳にはその会話が聞こえていて、クールな彼も思わず吹き出しそうになる。

イケメンなのに言動が子供っぽいコランは、ムードも何もあったものじゃない。

まぁ、コランも真菜も、見た目は高校生くらいなので、それほど違和感はない。

すると突然、コランが真剣な顔つきになった。


「なぁ、真菜。オレが魔王になったら結婚するんだよな?」

「え……うん、そういう約束よね」

「オレ、魔王になったから……結婚しようぜ」


ディアは、それを聞いて、思わずハッとして目も口も開いてしまった。

二人の会話が聞こえていないアイリは、そのディアの反応が気になる。


「な、なに?ディア、お兄ちゃんたち、何を話してるの?」

「えぇと、その……コラン様が、真菜さんに、プロポー……」

「ふぇぇえええ!?わ、わ!」


何故かアイリは、自分がディアにプロポーズされた時よりも取り乱している。

しかし、当の真菜は至って冷静に返す。


「え、でも魔王って、1年間の代理で、正式じゃないでしょ」

「えぇ〜〜まだダメなのか?」

「焦らないの。私も、まだ勉強中だから。お互い一人前になったら、ね?」


壁ドン体勢のまま、ガッカリと肩を落とすコランだったが、それで諦める彼ではない。

壁ドンまでして、このままでは格好がつかない。

コランは顔を上げて、キリッとした表情で真菜に迫る。


「じゃあ……チューしていいか?」


言い方が幼すぎて、それが聞こえているディアはズッコケそうになる。

だが、そんな彼らしい言い回しも含めて、真菜はコランの全てを受け入れている。

真菜は急に、しおらしくなって頷いた。


「それなら、いいよ……」


コランと真菜は見つめ合い、その瞳と唇の距離が近付いていく。


「真菜、好きだ。大好きだ」

「うん。コランくん、私も大好きだよ」


物陰に隠れているアイリとディアは、同時にクルッと体を180度回転させた。

これ以上、見てはいけない世界に突入したからだ。


「ディア、遠回りだけど、あっちから行こう!」

「承知致しました」


コランと真菜のやりとりにドキドキしながらも、アイリは羨ましく思った。


(いいなぁ……私もディアに壁ドンされたいなぁ……)


アイリがお願いすれば、ディアは何でもしてくれるだろうが、それでは何か違う。

朝から刺激的なシーンを目撃してしまったアイリは、何だか変な思考になるのだった。



遠回りして食堂に辿り着き、アイリはテーブルに着いて朝食を食べようとする。

すると後から来た真菜が、アイリの隣の席に座った。


「アイリちゃん、おはよう」

「真菜ちゃん、おはよう。あれ?お兄ちゃんの隣でなくていいの?」

「えっ……いいのよ」


おそらく真菜は、さっきの事で照れているのだろう。

アイリが、離れたテーブル席に座っているコランを見ると、隣にディアが座っている。

おそらくディアも、アイリと真菜の女子トークに気を遣って距離を取っている。


「真菜ちゃん、その、お、おめでとう」

「……え?何が?」

「だって、さっき、お兄ちゃんから、プロポーズ……」

「やだ、見てたの?コランくんのああいう発言は、いつもの事だから」


そ、そうなんだ……?と、アイリは逆に驚いてしまった。

コランにとってはプロポーズの言葉ですら、日常的な愛情表現なのだ。

何年もかかって、やっとプロポーズしてくれた奥手なディアとは正反対だ。

だが今度は、なぜか真菜が驚いた顔をして、アイリを見つめている。


「え、なに、真菜ちゃん?」

「……アイリちゃん、もしかして……ご懐妊?」

「え、え、ええっ!?」


アイリは驚きすぎて、椅子から転げ落ちそうな勢いで体が跳ねてしまった。

正確には、本当に懐妊したかどうかは不明確な状況なのだ。

しかし、ディアにも話していない秘密なのに、どうして気付いてしまったのか。

アイリは、今はまだ隠し通そうとして必死になる。


「そ、そんな、してないよぉ!なんで、そう思ったの?」

「うーん、アイリちゃんの中に、2つの魂が見えるような気がして……」


真菜は母が人間で、父が死神だ。そして死神は人の魂が見える。

真菜は人間に近いが、最近は死神の能力も少し目覚めてきているらしい。

アイリのペンダントの魔力を読み取って贈り主も当ててしまうし、その能力は未知数だ。

それでもアイリは、ごまかそうとする。


「き、気のせいだと思うなぁ……」

「そっか。私の能力は、そこまで正確じゃないから、ごめんね」


そう謝る真菜だったが、アイリは気が気じゃない。

真菜の発言によって、推測が確信に近付きつつあったからだ。

アイリの中には、2つの魂が存在する。それは、つまり……


(やっぱり私の中に、ディアとの子が宿っているの……?)


しかし体や体調に変化はなく、今もアイリの体内に子供の姿は見付からない。





そんな日々を過ごしていた、ある日。

魔獣の保護施設から、アイリ宛に連絡が入った。

ディアと同種族、希少種の魔獣『バードッグ』が保護されたというのだ。


連絡を受けて、アイリとディアは施設へと向かった。

施設内の中でも一際大きい頑丈な大型魔獣用の檻に、その魔獣は保護されていた。

魔獣の姿のディアよりも一回り小さいサイズの、黒い毛並みの魔犬。

間違いなく、ディアと同じ魔獣『バードッグ』だ。

片足を怪我しているとの事で、大人しく丸まっている。

そして、ある程度予測していたディアは、その魔獣の姿を見て確信した。


(エメラさん……!?)


その魔獣は、間違いなくエメラだ。

魔獣の姿のエメラは何も反応せずに、ただ静かに金色の瞳でディアを見返す。

ディアの背後では、施設の管理者の男がアイリに事情を説明している。


「密猟者の仕掛けた罠で足を怪我していました。軽傷ですが希少種なので保護しました」

「森の周辺の警備は強化したのに、まだ密猟者がいるの?」

「いえ、以前に仕掛けられた罠だと思います」

「そっか……罠の回収も急がないといけないね」


そう言うとアイリは、檻の中を見つめているディアに歩み寄って隣に立つ。

ディアは、檻の中の魔獣・エメラを見つめたままだ。


「ディアと同じ種族の魔獣、初めて見たよ。何かお話できた?」

「……いえ。魔獣は言葉が話せませんから」

「あ、そっか。でもディアと同じ魔獣だから、人の姿に変身できるかも?」


アイリの言う事はもっともで、エメラは自力で人の姿に変身できる。

だが魔獣の姿のまま、ここに来たという事は、彼女の意図は……

エメラの意図を知らないアイリは、警戒もせずに話を続ける。


「自力では変身できないのかも。ディアも最初はそうだったもんね」

「……はい」


それは、数百年前。

凶暴な野生の魔獣であったディアを、魔王オランが魔法で『強制的に』人の姿に変えたのだ。

魔王の強さに惹かれたディアは服従の契約を交わし、それ以来ディアは魔王の側近として生きてきた。

そんな彼が、自力で変身魔法を使えるようになったのは、近年なのだ。

……だが、エメラは違う。

今も野生の魔獣でありながら自我を持ち、変身魔法も使える。

複雑な表情を浮かべるディアに、アイリが不思議に思った、その時。

檻の中が突然、光り輝いた。


「え……?」


アイリとディアが、同時に檻の中に視線を向ける。

そこに魔獣の姿はなく、一人の女性が座っている。

色白の肌に深緑の長い髪に金色の瞳。黒のドレスを纏った、貴婦人のような大人の女性。

人の姿のエメラである。

やはり同種族だけあって、ディアと雰囲気が似ている。

アイリは思わず、その美しい姿に見とれてしまったが、急に我に返る。


「あっ、やっぱり人の姿になれるんだね。すぐに檻から出してもらうね」


そうして檻から出たエメラには、とりあえず椅子に座ってもらった。

足を怪我しているからだ。

エメラは、アイリとディアに向かってニッコリと微笑んだ。


「助けて頂き感謝致します。わたくしの名はエメラですわ」

「私は王女アイリ、そして彼は側近のディアなの」


アイリは根っからのお姫様なので、初対面の年上女性に対してもタメ口になる。

偉ぶるわけではなく、可愛らしい見た目と口調は愛嬌があるので、相手に不快感を与えない。

そんなアイリとは逆に、先ほどからディアが無愛想なほどに表情がなく、黙ったままだ。

エメラに警戒しているのだ。

ディアの鋭い視線に気付いたのか、エメラも対抗するように視線を送った。


「失礼ですが、ディア様と王女様は、どのようなご関係でしょうか?」


唐突な質問であるが、その真意に気付かないアイリは、それを素直な意味で解釈した。


「え、だから、ディアは私の側近……」

「私はアイリ様の婚約者です」


アイリが言い終わる前にディアが言葉を被せて、堂々と婚約者を名乗った。

その力強い断言に驚いたアイリは、一気に顔を赤くしてディアを見る。

側近である前に婚約者なのだと公言されたのも同然だからだ。


(わぁ……ディアってばぁ……嬉しい、カッコいい……)


こんな時でもデレデレの顔をしてしまうアイリだが、ディアは真剣だ。

……そしてエメラも笑顔ではあるが、目は笑っていない。


「少しだけ、ディア様と二人きりにして頂いてもよろしいでしょうか」


なんとも大胆なエメラの申し出だが、アイリはそれも特に不思議に思わなかった。


「うん。じゃあ、私は奥の部屋に行くね」


(同じ種族の魔獣どうしで、話したい事もあるよね)


そう思ったアイリは、奥の休憩室で待つ事にした。

アイリとしては、野生だった頃の記憶がないディアが、過去を知る機会だと気を遣ったのだ。

……だが、ディアは、そうではない。

過去を知りたいとも思わないし、エメラと話したいとも思わない。

いや、過去を知るのを、エメラと関わるのを、本能的に恐れているのかもしれない。

アイリが去って二人きりになった広間は、重い空気と静寂。

先に沈黙を破ったのは、ディア。


「わざと、ですか?」


冷淡なディアのその一言だけで、エメラはその質問の意味を察した。


「罠で負傷したのは迂闊でしたわ。魔獣の姿でいれば、ここに来れると思いましたので」


エメラが負傷したのは、わざとではない。

だが、ここに保護される目的で、わざと魔獣の姿のまま森で待っていたのだ。

そうすれば、ディアもここに来る事は分かっていたから。


「どうしてもディア様にお会いしたかったのですわ」

「……あの件は、お断り致しました」


ディアの言う『あの件』とは、エメラからの求婚の申し出だ。

常に微笑していたエメラの表情から、スッと笑顔が消える。


「魔獣と悪魔が結ばれたところで、何も得られませんのよ」


つまり、ディアとアイリの事を言っているのだ。

愛さえあれば種族なんて……という軽い問題ではない。

魔獣と悪魔が結ばれても、子は成せないかもしれない。

しかもアイリは王位継承権を持つ魔界の王女だ。

ディアにとっては、その言葉と責任が重く伸し掛かる。

エメラが求婚してきた理由、それは……希少種どうしだから。


「エメラさんの目的は『種の存続』という事ですか?」

「そうですわね。でも、それだけでは、ありません」


数百年前、野生の魔獣であったディアが突如、森から失踪した。

魔王オランがディアを魔法で人の姿に変えて、王宮に迎えたからだ。

それから、魔獣たちの秩序が乱れ始めた。

最強の魔獣がいなくなった事で、魔獣たちを守る存在もいなくなり、密猟者も増えた。

魔獣たちは密猟者を警戒し、人を恐れ、攻撃的になった。

ディアの存在は野生の魔獣たちにとって、まさに『魔獣の王』だったのだ。


「魔獣王ディア様。わたくしと一緒に、魔獣界を治めましょう」


……それが、エメラの目的なのだ。

しかし、ディアは魔獣界の王になった覚えなどない。なるつもりもない。

いや違う。過去の記憶がないという理由で、見ないふりをしてきた。

過去はそうだったとしても……今は魔界の王女アイリの婚約者なのだ。

まるで種の繁殖が目的のように近付いてくるエメラを、受け入れる気なんて起きない。

それでもエメラは椅子から立ち上がり、ディアに歩み寄ろうとする。

しかし怪我をした片足では体を支えきれず、痛みに顔を歪ませて倒れそうになる。


「……エメラさん!」


ディアは咄嗟に駆け寄り、エメラの体を抱くようにして支えた。



その頃、アイリは休憩室のテーブルに座っていた。

なぜか急に眠気が襲ってきて、頬杖をついて乗せていた顔がカクンと落ちた。

……そういえば最近、寝不足な気がする。

それを見た管理者の男が、アイリを気遣って声をかける。


「アイリ様、隣に仮眠室がありますので、お休みになられますか?」

「う、ん……じゃあ、少しだけ……」


眠そうな足取りで、アイリは仮眠室へと向かった。

だが……わずか数分後、アイリは戻ってきた。

管理者が驚いてアイリを見ると、その目の色は、先ほどまでとは違う。

魔性を宿したかのように妖しく、鋭く、美しい金色に輝いていた。

アイリは堂々と仁王立ちして、休憩室の出入り口に立っている。


「ねぇ、この施設に監視カメラは付いてる?」


その口調も、やはり先ほどまでのアイリとは違って、強い圧を感じさせる。

管理者の男は、アイリの迫力に思わず後ずさりそうになる。


「は、はい。全室に付いてますが……」


そう言うと、アイリ……いやイリアは、悪巧みのように口元を歪めて笑った。


「アタシに見せなさい」





数時間後、アイリとディアは施設を後にする。

エメラは施設で治療を受けて、足の怪我が治り次第、元の森へ帰されるという。

施設の門を出た所で、アイリは清々しい顔でディアに向かい合う。

……すでに人格はアイリに戻っている。


「エメラさんとお話して、何か分かった?」

「いえ、特には……」


ディアは何を思うのか、歯切れが悪い。


「エメラさんや魔獣たちが安心して住めるように、頑張って森の平和も守らないとね」


そう意気込むアイリだったが、ディアには迷いがあった。

自分が森を離れたせいで、森の平和は乱されたのだ。

全ては、自分が原因なのだと。

これからの自分は、どうあるべきなのかと……。




だが、そんなディアに追い打ちをかけるように。

今夜、『お仕置き』という名の『調教』が待ち構えている事に、彼はまだ気付かない。





その日の就寝前、ディアの部屋のベッドの上に座る二人。

いつものように、アイリが『おやすみのキス』をねだる。


「ディア、今日もお疲れ様。おやすみ、んーー」


そしてディアも、いつも通り少し照れながら返す。


「はい、アイリ様。今日もお疲れ様です。おやすみなさいませ」


そう言って軽くキスをすると、ようやく部屋の明かりを消す。

とは言っても、悪魔も魔獣も夜目が利くので、暗闇の中でもお互いの姿は確認できる。

ディアはアイリが眠るまで、ずっとその顔を見つめている。

しばらくすると、アイリの呼吸が寝息に変わった。

アイリが眠っても、ディアはしばらくその寝顔を見つめて考え事をしていた。


しかし、アイリが眠った瞬間に『彼女』は目覚める。

ここが1日の終わりではない。

これからが長い夜の始まりなのだ。


突然、アイリの瞼が、カッと全開まで開かれた。


「……え?」


突然のアイリの覚醒に驚いて、ディアも目を見開く。

今のアイリの瞳の色は、ディアと同じ金色。

光源のない暗闇の中でも自ら発光する恒星のように、光り輝いている。

ディアは、すぐにアイリの異変の意味に気付いた。


「イリア様……?」


その名を呼ばれた事でイリアは満足そうに笑うと、ベッドから降りる。

そしてディアに向かって仁王立ちすると、冷たく見下ろす。


「浮気したら許さないって言ったわよね」


憎悪を込めた、その重い一言はディアの全てを制する。

ディアは起き上がって、ベッドから降りる。

その身長差から、今度はイリアがディアを見上げる形になる。


「決して、そのような事はしておりません」


ディアはイリアを恐れる事なく、真直ぐ見据えて断言する。

その言葉に偽りはない。ディアはイリアに嘘がつけないのだから。

するとイリアは、今度はどこか遠くを見つめて顔を歪めた。


「あの女、アタシのディアに手を出して、絶対に許さない」


イリアの憎悪はディアではなく、エメラに向けられている。

監視カメラの映像では、ディアに体を支えられるエメラの姿が、まるで抱き合っているように見えたからだ。


「ディア。もっと、もっと、アタシが調教してあげる」


今のイリアの金色の瞳は、エメラに対する嫉妬の炎で燃えている。

だが、すぐにその熱は愛へと変換されてディアに向けられる。


「アタシしか抱けない体にしてあげる」


妖艶に微笑むと、イリアは正面を向いたまま後ろに下がって背を壁に付ける。

すると今度は、無邪気に笑ってディアを自分の元へと誘う。


「アタシ、ディアに『壁ドン』されたいなぁ」

「……は?」

「さぁ来て、ディア」

「……承知、致しました……」


ディアは契約により、イリアの『お願い』を拒めない。


「そうよ、ディア。もっと、もっと、アタシを愛して……」


ひたすらにディアを求めるイリアは、愛に飢えているようにも見える。

どこか必死さも感じられるほどに。

だがディアにとってそれは、さらなる罪悪感しか生まない。

何故なら、『イリア』が未知の存在だからだ。

イリアは、アイリなのだろうか?

それなら、本能のままに愛しても罪ではないのだろうか。

ディアの中の魔獣の本能が、人としての理性を越えた瞬間に衝動は生まれる。


「……っ……イリア様……」


ディアはイリアの顔の横の壁に両手を突いて、体を密着させる。

その時のディアの表情を見て、イリアが嬉しそうに目を細める。

そう、憧れの『壁ドン』が叶ったのだから。

そしてディアの首の後ろに腕を回すと、彼の頭を引き寄せて唇を重ねた。


「ディア……好き」


……『アイリ』の人格は今、『イリア』の中で眠っている。

ディアがイリアといる時は、アイリが表に出る事はない。

今、ディアが夜を共に過ごしている相手は、イリア。

今、イリアは完全にアイリを支配して……ディアをも支配している。


「ふふ、そう……もっとキスして」


イリアの言葉のままに、ディアは何度も口付けを繰り返す。


「……そうよ、ディア、好きぃ……」

「……っ!」


ディアは思わず体を震わせる。

だが、それは決して恐怖や嫌悪によるものではない。


「私は……貴方様を……」


それは、イリアの中のアイリに向けた愛なのか。

ディアの言葉を聞いたイリアが、満足そうに笑みを浮かべる。





早朝、アイリは微かに聞こえる水音で目を覚ました。

いつもの如く、ベッドの隣にディアはいない。

そして、遠くから聞こえてくる水音。寝起きの頭でも、それの予測はできる。


(ディア……シャワー浴びてるんだ)


城内には大浴場もあるが、ディアは自室の小さなバスルームで入浴することが多い。

アイリは何を思ったのか突然起き上がって、パジャマを脱ぎ始めた。

そして……


ガラガラガラッ!!


アイリは勢いよくバスルームの引き戸を開けた。

シャワー中のディアは突然の事に驚き、思考も動きも停止する。

首だけを、出入り口のアイリの方に向けた状態だ。

ディアの頭を打ち付けるシャワーの音だけが浴室に響いている。

こんな時でもアイリの目に映るディアの姿は、水もしたたるイケメンだ。


「あ、アイリ様っ!?」


ようやく動き出したディアは咄嗟にタオルを手に取ると、とりあえず前を隠す。

いきなり浴室に入ってくるなんて大胆な行動を取るのは、イリアなのでは!?

……と、アイリの瞳を確認するが、いつもの栗色だ。

いつものアイリである証拠に、彼女は顔を真っ赤にしている。

……自分から入って来たのに。

アイリは裸の体にタオルを巻いているが、それでもスタイルの良さは際立っている。


「私も一緒に入る……いいでしょ?」


上目遣いで言うと、ディアの返事を待たずに浴室に入り、引き戸を閉める。

しかしディアは立場上、歓迎も拒否も直視もできずに、ただ慌てる。


「そ、その、良い悪いの問題では……」

「だって、パパとお母さんだって、一緒にお風呂入ってるもん」


魔王と王妃は結婚して数百年だが、未だに新婚のような甘々夫婦なのだ。

それの影響で、婚約者なら一緒にお風呂に入るのも当然という考えに至ったのだ。

ディアが公言した『婚約者』という言葉が嬉しすぎて、アイリの何かが目覚めてしまった。


「どう?ディア、気持ちいい?」

「はい、気持ちいい、です……」


「もっと強く擦った方がいい?」

「いえ、ちょうど良い、です……」


背中を流してもらってるだけなのに、変なことを言わされている気分になるディアだった。

アイリは気弱に見えて本質はイリアと同じ、ドSなのかもしれない。

側近が王女に背中を流してもらっている風景は、なんとも下克上だ。



数十分後。

風呂上がりのアイリは、顔を火照らしてニコニコしている。


「ふぅ、サッパリしたね」


「そう、です、ね……」


ディアは何故かグッタリしている。

魔獣の理性を保つには、精神と体力を消耗する。


朝も夜も、心も体も休まらないディアであった。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?