夜になると少し落ち着いて、いつもの二人に戻っていた。
アイリは今夜もパジャマ姿でディアの部屋に行く。
そしてベッドに並んで座ると、例の件を別方向から話し始めた。
「密猟者は、私を希少種の『バードッグ』だと言っていました」
「バードッグ?名前は聞いた事あるかも……ディアは知ってるの?」
「いえ。詳しくは知りません」
城の図書館の本を全て読み尽くしたディアでさえ、知らないほどの希少種。
思えばアイリは、自分もまだディアについて知らない事が多いのだと気付く。
「ディアって、野生の魔獣の時はどんな生活してたの?家族とかは?」
「……覚えていないのです。野生の頃は自我がなく、記憶もありません」
「そうなんだ……」
強大な力を持つディアは、その魔性を制御できずに、見境なく人を攻撃する凶暴な魔獣だった。
そんなディアをさらに上回る力で押さえつけ、人の姿に変えて側近にしたのが、魔王オランだ。
きっとディアは今でも、自分の中にある魔獣の本性を恐れている。
人を傷つけるのが怖い、愛するのも怖い。だから奥手なのだ。
……だから婚約指輪ではなく、その前段階のペンダントなのだ。
(今はまだ、ディアには言えないよね……)
アイリが心で呟いたのは、ディアとの子を身籠った『かもしれない』という事実だ。
こんな不明確な状態では、さらにディアを悩ませてしまうに違いない。
魔獣であるディアが、悪魔と人間の混血であるアイリと、本当に子を成せるのかは分からない。
もし叶わないのであれば、ディアは魔獣である自分をさらに責めてしまうだろう。
(きっと、大丈夫……今は、ディアを元気付けなくちゃ)
突然、前向き思考に切り替わるところは、さすがコランの妹なだけある。
アイリは笑顔でディアの胸に擦り寄った。
ディアの腰の後ろに両腕を回し、可愛らしい上目遣いで『おねだり』を開始する。
「ねぇ、ディア。お願い、んー……」
アイリは、口と目を閉じて、キス待ちをしている。
ディアがアイリを見下ろすと、襟が大きく開いたパジャマの中に見える、深い谷。
それを胸板に押し付けられる、柔らかい感触。
アイリは小柄で幼く見えるが、母親に似て、スタイルは抜群に良い。
「アイリ様、今日は、もうお休みに……」
「してくれたら寝るから。ね?」
……日々、アイリは甘え上手になってきている。
ただでさえ魔獣であるディアに、理性がいくらあっても足りない。
『元気付ける』の意味が、どこかズレているアイリであった。
ディアの野生を目覚めさせているのは、アイリの魔性かもしれない。
深夜、ディアは何かの違和感で目を覚ました。
すると、隣で一緒に寝ていたはずのアイリの姿がない事に気付いた。
胸騒ぎを感じたディアは起き上がり、ベッドから降りて部屋を出る。
(アイリ様、こんな時間に、どちらへ……)
魔獣は、夜目が利く。
僅かな照明で照らされた暗い廊下であっても、視界に不安はない。
神経を研ぎ澄まし集中すると、微かにアイリの魔力を感じ取る事ができた。
『気配』や『匂い』と同じで、『魔力』を辿れば、アイリの所へと辿り着くのだ。
いくつか階段を上り、ディアが辿り着いたのは、城の屋上のテラスだった。
少し欠けた月の光が、充分すぎるほどに視界を明るく照らす。
ディアが目を細めて、高いフェンスの上を見上げる。
そこには、大きな月をバックに、フェンスの上に堂々と立つ少女の姿。
身動きせずに、ただディアを見下ろしている。
逆光で見え辛くはあるが、背格好からしてアイリだろうと思われる。
「アイリ様……ですか?」
ディアはその少女に呼びかけるが、疑問形になってしまった。
その少女が、アイリであるという確信が持てなかった。
少女はディアの呼びかけを聞いた途端に、満面の笑顔になった。
それは、微笑むという可愛らしいものではない。
相手を見下す、『悪魔の微笑み』だ。
「ふふ……ディア、待ってた!!」
少女はコウモリのような羽根をいっぱいに広げて、フェンスから飛び降りた。
ディアの胸という着地点をめがけて。
ディアは驚き、反射的に両手を広げて彼女の身体を受け止めようとする。
羽根の浮力により、ふわっと軽く、少女はディアの腕の中に収まった。
そして少女は、ディアの首の後ろに両腕を回して、思いっきり抱きついた。
「アイリ様……!このような場所で、何を……!?」
ディアは、アイリの姿をした少女と間近で目を合わせる。
月明かりを反射してなのか、彼女の目の色は月と同じ色に輝いていた。
栗色のアイリの瞳の色とは違う。
「アイリ様ではない……!?」
危険を察知して、ディアは少女から離れようとしたが……
「ディア、命令よ。動かないで」
「…………!?」
少女の口から『命令』が放たれた瞬間、意思に反して、ディアは身動きが取れなくなった。
王族との『契約』により、感情や意思よりも優先して、その『命令』はディアの魂に働きかける。
「ふふ……ディア、いい子ね。返事は?」
「……はい……、承知、致しました……」
強制的かつ抗えない、絶対服従……これが有効となる相手……
ディアが魔界の王族とだけに交わした、絶対服従の『契約』。
この少女は、アイリで間違いないだろう。
……『姿』だけ、は。
彼女はアイリ本人であるようだが、人格は全くの別人。
「あはは、そうよ!ディアはアタシに服従するしかないの!!」
アイリはディアに顔を近付けて、うっとりとした表情で見つめる。
「ねえディア、知ってる?悪魔は『口付け』が契約の証になるって」
「……それは昔の話です。現在は契約書に二人の手形を押す形式に変わりました」
「さすがはディア先生ね。でも『口付け』の契約も有効なのよ」
するとアイリは、ディアの両頬を両手で包むと、そのまま唇を重ねた。
「…………!?」
『命令』により抵抗も身動きも出来ないディアは、深く重なる甘い感触を受け入れるしかない。
アイリの唇からディアの唇へと伝わり、魂まで侵食されるように体中に痺れと熱さが巡る。
ほんの数秒の口付けではあったが、それはディアにとって永遠の鎖となる。
……交わされたそれは、単なる『キス』ではなかった。
「ふふ、これでディアは永遠にアタシに服従するの」
アイリは満足そうに笑うと、再びディアに抱きついた。
今の口付けは……『契約』だったのだろうか?
ディアの中で様々な疑問が生まれるが、1つ確認しなければならない。
「あなたは、アイリ様では、ないのですか?」
するとアイリはディアから離れて、数歩だけ歩く。
少し距離を取って、正面から向かい合う。
「気弱なアイリと奥手なディアじゃ、いくら待っても無理。だから、アタシがディアを調教して結ばれるの」
それは質問の返答になっていない。
そして今度は、まるで自分がアイリではないかのような言い方だ。
「今のアタシは『イリア』って呼んで」
『イリア』と名乗った事で、さらに彼女の存在が不可解なものになる。
「……アイリ様でないのなら、従えません」
「ふ〜ん、反抗的ね。それじゃ、命令」
イリアが『命令』という言葉を口にした瞬間、それはディアには抗えない言霊となる。
「アタシの事は、誰にも言っちゃダメよ。誰にも内緒。分かった?」
イリアは、唇の前で人差し指を立てて『ナイショ』のポーズをした。
その可愛らしい仕草とは逆に、その黄金の瞳はディアを射抜くように鋭く冷たい。
「ディア、返事は?」
交わされた唇、契約の強制力なのか……
意思に反した言葉が、イリアの望み通りの言葉が……ディアの口から自然と紡がれる。
「……はい。承知、致しました……」
すでに絶対服従となったディアには、イリアに逆らう術がない。
「ふふっ!そうよディア、好き!だぁい好きっ!!」
イリアは再び、勢いよくディアに抱きついた。
その勢いで、ディアの体は数歩後ろに下がるまで押された。
だがその後、イリアの体がディアに重くのしかかる。
まるで、イリアが急に脱力したように……
「イリア……様?」
ディアが、イリアの体を抱いて支える。
イリアは目を閉じ、眠ったように動かない。
するとすぐに、うっすらと瞼を開いた。
そこから覗く瞳の色は、栗色。いつものアイリの瞳の色だ。
「……ディア?あれ……私、なんで、ここに………」
アイリは、まだ半分眠っているような状態で、虚ろな瞳をしている。
どうやら、いつものアイリの人格に戻ったようだ。
ディアは、アイリの体が冷えないように、優しく包んで抱きしめた。
「大丈夫ですよ、アイリ様。お側におります。お休み下さい」
「う、ん……ディア、おやすみ……」
そう言ってアイリは、再び瞼を閉じて眠った。
しっかりとアイリを抱いて、ディアはその静かな寝息と鼓動を感じていた。
月明かりの下、静かに時間だけが流れる。
(イリア様とは……何者なのでしょうか)
単純に、アイリの『別人格』なのか。
全く別の存在の『何者か』がアイリの中に入り込んだのか。
何であったとしても……
(私が、アイリ様をお守りします)
ディアはアイリを抱きかかえて、静かに立ち上がった。
アイリが起きていたら歓喜したであろう、『お姫様抱っこ』である。
アイリの胸元のペンダントの赤い宝石が、月光を反射して小さく煌めいた。