その日の夜、ディアは一人で城下町周辺の森へと視察に出かけた。
魔獣の多くは夜行性で、夜に活動が活発化し、森の中を徘徊するからだ。
アイリはパジャマに着替えてから、誰もいないディアの部屋に入る。
そして、ベッドの上に仰向けで寝転がる。
ディアのいないベッドは、何だか広くて寂しく感じる。
(ディア、大丈夫かなぁ……大丈夫だよね、最強の魔獣だもん)
天井を見つめて不安げに瞳を揺らしながら、アイリは指先で胸元のペンダントの宝石に触れた。
その瞬間。
『そんなに心配なら、行けばいいじゃない?』
アイリの耳……いや脳内に直接、誰かの声が響いた。
「えっ!?誰!?」
アイリは驚いて起き上がって部屋を見回すが、誰もいない。
しかし今、確かに声が聞こえた。少女のような……幼い声だった。
(なんだろう……怖い……)
胸騒ぎを感じたアイリは、ベッドの上でペンダントを両手で握りしめる。
そのまま、祈るようにしてディアの帰りを待った。
赤い宝石はアイリの手の中で僅かに光り、鼓動のように明滅を繰り返していた。
その頃のディアは『人の姿』のまま、森の奥深くまで来ていた。
夜の暗い森の中でも、魔獣であるディアは夜目が利く。
小動物のような魔獣たちはディアを見ただけで、その気配に慄いて逃げ去っていく。
人の姿であっても、やはりディアは最強の魔獣なのだ。
(別段、魔獣たちに変わった様子は、なさそうですが……)
ディアが、心で呟いた瞬間。
パッ!!
まるで暗転した舞台の上で突然、スポットライトで照らされたかのように、眩しい光が照射される。
一瞬、目が眩んだディアは、周囲の状況を把握できない。
だが、1つだけは確実に感じ取れた。
(殺気……!!)
ディアの本能は、心よりも先に体が警戒態勢を取ろうとするが、次の瞬間。
バァン!!
重い銃声が森に鳴り響く。
どこからか放たれた弾丸は、ディアの胸を目掛けていく。
瞬時にディアは反応して動くが、完全には避けきれなかった。
「ぐっ……!!」
それはディアの左腕を掠めて、少量の赤い血飛沫を散らした。
痛みも気にせずにディアが周囲を見回すと、3人の男に囲まれている事に気付く。
すると、男たちが次々と口を開く。
「人の姿をしているが、コイツは魔獣だぞ!!」
次に小さな機械を手に持った男が、それを見て歓喜とも言える声を上げる。
「やったぞ、この生体反応は希少種の『バードッグ』だ!!」
「異世界で高く売り飛ばせるヤツだな!!確実に仕留めろ!!」
その男たちの言葉を冷静に分析して、ディアは状況を理解し始めた。
この者たちは、魔獣の希少種を狙う密猟者だ。
ディアが魔王の側近だと気付かない所を見ると、異世界か遠方から来たのだろう。
装備から見て、手練れのプロだと思われる。3人相手では分が悪い。
ディアは、一瞬にして野生を宿した金色の瞳を鈍く光らせて、相手を睨んだ。
「森を荒らし、魔獣を狩る行為……断じて許しません」
ディアは静かに怒りを込めると、懐から小型の拳銃を取り出した。
これは弾丸の代わりに、魔力そのものを込めて撃つ武器。
しばらく銃撃戦を続けるが、拳銃では猟銃に太刀打ちできない。
男の一人が、仲間に向かって叫ぶ。
「ヤツの魔力が落ちてきたぞ、一気に狙え!!」
ディアは拳銃を撃てば撃つほど、魔力を消耗していく。
弾丸ではなく、魔力そのものを放出しているからだ。
長期戦になれば、確実にディアの方が撃たれてしまう。
(くっ……魔獣の姿になれば……!!)
ディアは歯噛みする。魔獣の姿に戻れば、簡単に勝てるからだ。
しかし密猟者を前にして感情が昂り、魔力が尽きかけている今、魔獣の姿に戻ったら……
魔獣の本能を制御できずに自我を失って、この密猟者たちを喰い殺してしまうかもしれない。
魔獣となったディアを制御できるのは、彼が『契約』によって忠誠を誓った、魔界の王族のみ。
(アイリ……様……)
すでに何発かの銃弾がディアに命中し、致命傷には至らないものの、かなり負傷していた。
考えている余裕など、ない。
だが先に、ディアの魔力に限界がきていた。
「うぁぁぁああ!!」
ディアが咆哮とも言える叫び声を上げると同時に、彼の体が発光する。
その光が膨張し収まると、そこにはコウモリの羽根を持つ、巨大な魔犬が佇んでいた。
ディアの、本当の姿である。
魔獣であるディアは変身魔法によって、人の姿を留めているに過ぎない。
いや正確には、凶暴な魔獣の姿と本性を、魔法によって『封印』しているのだ。
当然、魔力が尽きれば、魔法も封印も解けてしまう。
3人の男たちは戦慄した。初めて見る、『最強の魔獣』の姿に。
「コ、コイツが、『バードッグ』……」
「初めて、見た……」
「や、やべえ……」
5メートルはある巨体、黒い毛並み、鋭い牙、鋭利な爪、理性を感じさせない、魔性の眼。
自我を失った魔獣・ディアの眼は、本能のまま、男たちに狙いを定めた。
アイリは、ディアのベッドで目を覚ました。
朝になっていて、カーテンの外は明るい。
いつの間に眠ってしまったのか、今日も記憶が曖昧だ。
隣には誰もいない。そのせいか、少し肌寒さを感じる。
ディアが帰ってくるまで起きていたかったのに……と思いながら、ベッドから降りる。
すると、
バァン!!
ノックもなしに突然、乱暴に出入り口の扉が開かれる。
「アイリ、起きたか!?大変だぞ!!」
入って来たのは、兄であり、代理魔王のコランだ。
アイリは驚いて思わず叫ぶ。
「お兄ちゃん、女の子の部屋なんだから、ノックくらいして〜!!」
「え?なんだよ、ここ、ディアの部屋だろ?」
「あ……」
アイリは笑いながら恥ずかしそうに舌を出した。
だが、コランは深刻な顔をしていて、いつもの明るさがない。
「それで、何が大変なの?」
「あぁ……ディアが……」
「え?」
ディアが、昨日の夜から帰ってきていない。
それを聞いたアイリは昨日の胸騒ぎもあって、不安に体を震わせた。
「ど、どうしよう、お兄ちゃん……ディア、何かあったんじゃ……」
コランは、今にも泣きそうなアイリの両肩を掴んで言い聞かせる。
「きっと大丈夫だ。念の為、捜索隊を出すから、アイリは大人しく待ってろ」
「や、やだ……私も探しに行く……」
「森は危険な状況かもしれないだろ。任せておけば大丈夫だって、な?」
いつものように明るく振る舞うコランだが、心配な気持ちはアイリと同じ。
だが、仮にも今は魔王なのだ。その意識がコランを強く気丈にさせる。
その時、アイリの意識の中で、再び『あの声』が聞こえる。
『だ〜か〜ら、心配なら、行けばいいのに』
見下すような少女の声、口調。それが誰なのかは、分からない。
(誰?この声、誰なの……?……ディア……帰ってきて、ディア……)
視界がグルグルと回り出し、変な不快感に襲われる。
急に目眩を起こしたアイリは、フラフラと身体を揺らし、そのまま床に倒れてしまった。
「おい!!アイリ!?大丈夫か!?誰か!!医者を呼んでくれ!!」
アイリの薄れていく視界と意識の中で……
廊下に飛び出して叫ぶコランの大声だけが微かに響いた。
数時間後、アイリは自室のベッドで目を覚ました。
ふと顔を横に向けると、悪魔の女性の医師が付き添ってくれている。
「アイリ様。ご気分はいかがですか?」
「う……ん……大丈夫……」
目眩や不快感は治っていて、呼吸も穏やかだ。
しばらく間を置いた後、医師が静かに話を始める。
「アイリ様のお体を診させて頂きました」
「うん……」
「どうか、落ち着いてお聞き下さい」
「うん……」
アイリは窓の外を眺めながら、どこか上の空で同じ相槌を繰り返していた。
そして、医師が打ち明けたのは衝撃的な真実だった。
「アイリ様の中には、もう1つの命が宿っております」
「うん…………え?」
衝撃で一気に意識が覚醒したアイリは、勢いよく上半身で起き上がった。
ハッとして、思わず自分の腹部を両手で触れる。
「そ、それって、もしかして……え、え!?」
「はい。お察しの通りです」
「も、もちろん、ディアとの……だよね?」
「はい。間違いなく、ディア様の魔力を宿した生命です」
嬉しさよりも、信じられない、まさか……という思いの方が強かった。
愛しい人が隣にいない今、なぜこんな時に、という歯痒さも感じる。
だが、医師は喜ぶどころか祝いの言葉も口にせず、浮かない顔をしている。
何か、とても言い辛そうにして、ようやく話を続けた。
「その、ここからが問題なのですが」
「……え?何が?」
「確かに、アイリ様の中に生命反応が認められます。ですが……」
ひと呼吸置いてから、医師は思い切って打ち明ける。
「どこにも、実体が、ないのです」
アイリは、それが何を意味するのか、全く理解できない。
混乱どころか、頭が真っ白になる。
生命反応はあるのに、どこにも、いない……?
赤ちゃんの姿が、ない……?
え?だって普通は、お腹の中に宿るものでは……?
アイリは脳内で自問自答を繰り返すが、確かな答えは出ない。
「魔界の医学でも前例のない事で困惑しております。今は経過を見るしかありません」
そんな医師の言葉は、すでにアイリには聞こえていない。
果たしてこれは、本当に『懐妊』なのだろうか……?
医師はアイリに配慮して、この事実をアイリにしか伝えなかった。
そしてアイリもまた、この事実は、まだ秘密にしておこうと思った。
夕方頃になり、アイリは魔王の執務室へと入る。
すると魔王の机に座るコランと、横に立つ側近のレイトが、同時にアイリの方を向いた。
「アイリ、大丈夫なのか!?」
「王女、無理しない方がいいよ」
コランとレイトに心配されて、アイリは力なく微笑み返す。
「ありがとう、大丈夫。私も、しっかりしなくちゃ」
その時、コランの机の上の電話機が着信音を鳴らした。
受話器を持ち上げてからコランは1回、咳払いをする。
「コホン。あー、こちら、魔王コランだ!」
偉そうに魔王を名乗るコランの態度に、アイリとレイトは同時に吹き出してしまう。
コランに連絡をしてきた相手は、ディアを捜しに森へと向かった捜索隊の一人。
次の瞬間。その電話の内容が、状況を一変させる。
「え!?ディアが見付かったのか!?」
ハッとして、アイリはコランを見て、その会話の続きを待つ。
「中庭に運んだ!?分かった、すぐ行く!」
そう言うと、コランは乱暴に受話器を置いた。
アイリは咄嗟に駆け出し、窓から外を見下ろして中庭の様子を見る。
すると、中庭でうずくまっている、漆黒の毛並みの魔獣の巨体が見えた。
ディアは魔獣の姿のまま、ここまで運ばれたようだ。
「ディアっ!!」
アイリは窓から叫ぶと、コランよりも先に執務室から飛び出して、中庭へと向かった。
中庭に辿り着くと、アイリは魔獣の姿のディアの元へと駆け寄る。
だが、ディアは意識がないようだ。所々出血していて、重傷を負っている。
「そんな、ディア、なんで……」
アイリが愕然としていると、捜索隊の悪魔の男がアイリに報告する。
「応急処置はしました。ですが魔力が尽きていて、人の姿になれなかったようです」
本来なら巨体の魔獣よりも『人の姿』のディアの方が運びやすいし、治療もしやすい。
しかしディアの姿を変える魔法を使えるのは、不在の魔王オランと、アイリだけだ。
兄のコランは魔力の覚醒が遅かったので、高度な魔法はまだ習得していない。
アイリはディアの毛並みに両手を添えると、深呼吸をして目を閉じた。
(ディア……人の姿になって……)
アイリが念じると、その両手から光が溢れ出し、ディアの全身を包み込む。
その光は収縮していき、それが収まると、そこには人の姿のディアが倒れていた。
アイリの魔法によって、ディアは人の姿に変身したのだ。
しかしディアの体は無数の弾丸の跡により出血し、かえって痛々しく見える。
「ディア……」
「アイリ様、後はお任せ下さい!」
そこへ救急隊が到着し、気を失ったディアを担架に乗せて医療室へと運ぶ。
アイリが目を潤ませながら見送っていると、捜索隊の男がさらに報告をする。
「森で倒れていたディア様の近くには、3人の密猟者も倒れていました。彼らも重傷です」
「密猟者……それでディアが襲われたんだ……」
ディアの事だから、ギリギリまで魔獣に戻らずに戦って耐えたのだろう。
ディアを信じきっているアイリは、それがディアの罪だとは一切思わなかった。
ディアの自己回復能力は凄まじく、数日後には通常業務に戻れるほどになった。
やはり、最強の魔獣だからだろう。
体の傷よりも、心の傷が深かったのかもしれない。
森での一件から、ディアは何か深く思い悩んでいるように感じられた。
その日も執務室では、コランがレイトに注意を受けながらも仕事と奮闘している。
少し離れた机にアイリは座り、ディアが森での件を報告する。
「森での視察の件のご報告を致します」
「……うん」
ディアは淡々としているが、その言葉と表情に、どこか暗い影を感じる。
アイリは手元の報告書に視線を落としながら、ディアの言葉を聞く。
「野生の魔獣が凶暴化している原因は、外部から来た密猟者への警戒からです」
「それなら魔獣は悪くないよね。魔界への入国審査を厳重にしてもらおう」
「はい。それと……」
そこで急にディアが言い淀んだので、アイリは顔を上げて彼を見つめる。
「森で発見された、重傷の密猟者3人は入院させて回復を待った後、魔界で裁かれます」
「うん、当然だよね……」
そこで報告は終わるかと思ったが、ディアがさらに言葉を続ける。
「密猟者の負傷は……魔獣の攻撃によるもの、です……」
あまりにも辛く苦しそうに言葉を吐くディアを見て、その続きが予想できる。
「おそらく、私……が……」
「ディアッ!!」
アイリにしては珍しく大声を上げた。
その声に驚いて、離れた席にいるコランとレイトが同時にアイリの方を見る。
「ディアは悪くないよ!だって、その人たちは犯罪者でしょ!?」
「相手が誰であろうと、無差別に人を攻撃するなら犯罪者と同じです」
「違うよ!そんなこと言わないで!」
「記憶がないのです。魔獣に戻って自我を失った時の……」
コランとレイトは全ての動作を止めて、アイリとディアの方を見つめている。
会話の内容までは聞こえないが、何やら険悪なムードに見えるからだ。
「なぁ……アイリとディア、なんかケンカしてないか?止めた方がいいか?」
……偶然ではあるが、見事に韻を踏んでいる。
そう言って立ち上がろうとするコランを、レイトが制止する。
「王子、待って。他人が口出ししちゃダメだよ」
「あの二人、いつもラブラブなのにケンカするんだな〜、ケンタッキーか?」
「倦怠期だよ」
深刻な空気も、コランの一言で一気に空気が抜けて緩んでしまった。