「死にたかった」
「それ過去形だね。今は?」
少しの間、男子生徒は大粒の涙を流しながら、自分の1.5メートル先に立つ太った女子生徒は見ずに続ける。
「『死にたくない』とは、思うよ。だって先生もノグチもカヤさんもみんな、ハヤミもヒルマだって、あんたひとりに喰われちゃったんだから。疑問や質問も、今ならたくさんある。あんたは三十人以上の高校生を、骨が割れる音を立てて、血が噴き出してもそれをべろべろ舐めて食べ続けた。今のこの教室の床はまるでレッドカーペットみたいだけど、所々に色のむらがある。血液のむらと、あんたが喰い損ねた小さな指や耳が浮いてるんだ。それに血液がこんなに臭いを発するなんて知らなかった。生魚みたいだけど違う。これが人間の血の臭いなんだね」
そこで女子生徒は目を輝かせて口を開く。
「やっぱ私の目に狂いはなかったね! フツーあんな惨状見てそこまで言えないよ? これまでの経験で言うと、『俺・私だけは食べないでぇ〜!』っていう惨めな懇願、あとは内心チキってるくせに強がって私より上に出ようとするタイプ。アレ、癪に障るんだよね。だからそういうのに当たったら、なるべーく痛く、恐くして、じぃ〜っくり喰ってやるんだ、私はね」
「質問があるんだ、カクマさん」
もう下半身がすっかりクラスメイトと担任教師の血液でびしょびしょになった状態で、男子は『カクマ』なる女子に呼びかけた。
「きみは高確率で人間じゃない。でも、妖怪とか悪魔とか、或いは天使とか、そこまで人類から掛け離れた生命体でもないような気がするんだ。ただの勘だけどね。人間じゃないと思ったのは、言うまでもなくこの教室のみならず、いや、ハヤミみたいな筋肉質な男を指一本でひっくり返した怪力、骨を折って砕く強固な歯、あと、人間は血液を大量摂取できないんだ。身体の造りの都合でね。それから、今さっききみは、『私はね』と言った。それはまるできみみたいな生命体が複数存在しているように、僕には聞こえたんだ。それはどう? 最後に、何故僕をデザートとして残したの? 僕みたいにオタクで、陰キャで、顔も成績も良くない、何の取り柄もない奴を、『クラスメイト・ランチ・パーティ』のラストに据えるなんて、変だよ」
するとカクマはカラスのようにカラカラと笑った。それは決して男子を嘲るものではなく、あたかも自分の見立てが正しかったと証明されたことを当然とばかりに喜ぶ偏執的な科学者のようだった。
「あのね、セイタくん。私、あなたが『死にたい』ってノートに書きまくってるのを見ちゃった時から、あなたにホレてたの」
セイタなる男子生徒は、表情というものを顔面からぽとりと落としたかのように固まってしまった。
「とりまセイタくんのクエスチョンに順番に答えていくと、確かに私は人間からそう遠い生命体じゃない。ユーレイでもヨーカイでも、ましてデビルでもエンジェルでもない。そんで、セイタくんの言う通り、私たちは複数存在する。確かもうすぐ次の1000体が『リリース』されるんじゃなかったかな?」
「せ、1000体?! リリースだなんてどこから?!」
またカクマがカラカラと笑う。今度はセイタを小馬鹿にしていた。正確には、彼の無知を、いっそ一抹の同情すら孕んで。
「ジゴクとかじゃないよ? 造ってるのは、世界中の政府とかレジスタンスとか、まあ主にUNだけど。あ、これナイショね。あと、こういうご時世だからね、ニンニクを食べても良きことになってて、それは私得なんだけど、シルバーアクセも全然OK。ってかカンオケで寝るっていつの時代のイメージだよ、古過ぎて人間リアルにアホで草だわ。自分らで造っといて」
カクマの言葉にセイタがぱっと顔を上げ、しばしの沈黙の後、その名を発した。
「き、吸血鬼? 人造の?」
「ん、だからそう言ったじゃん」
「おっ……俺は、食人、カニバリズムが目的だと……。その、例えば戦争における兵器みたいな存在だったり、あとは、その、口減らしとか……」
そこでセイタは一度生唾を飲み、もう誰のものかすら分からない血液で束になりつつある髪を弄るカクマに向けてこう続けた。
「だってカクマさん、きみが吸血鬼なら、このクラスの生徒の肉や骨、内臓は必要なかったんじゃ――」
「まあね」
カクマは右手の指と爪の間に染み込んだどす黒い血を別段美味そうにでもなく舐めながら、他人事のように返した。セイタには理解できなかった。そもそも彼に何が理解できたと言うのだろうか?
「じゃあ、どうして……」
自分でも顎が震えているのを自覚したままセイタが再度問うと、その瞬間、五限の終了を告げるチャイムが鳴り始めた。それで何が変わるわけでもない。しかし在り来りで聞き慣れた『キンコンカンコン』という音に、セイタはつい先ほどまで当たり前に享受していた『日常』を思い出してまた少し涙を流した。
そして今初めて気づいたかのように、この二年四組外から他の生徒たちが楽しそうに移動教室やお手洗いに向かう様子、その声、足音、衣擦れなどを耳にして、カクマのふくよかな顔をまたも見上げた。
「カクマさん、また推測で悪いんだけど、僕は最初、この教室は異次元とか魔界とか、とにかくそういう人間の力の及ばない場所にワープさせられたと思ってたんだ。だってそうだろ? あんな悲鳴や絶叫、泣き声、破壊音がしても誰ひとり様子を見にこなかった。だからそう考えた。きみからすれば滑稽かもしれないけどね。でも」
セイタは自分が早口になっていること、声量が普段の倍ほどになり滑舌まで良くなっている事実に気づいていた。カクマの、小さいがつぶらな瞳が自分をしっかりと見据えていて、いつ食われてもおかしくない生死のボーダーライン上で、皮肉にも彼は『自信』だとか『自己肯定感』と呼ばれるものを身につけつつあるのだ。
「でも、何?」
「きみが人間によって精製された人造の吸血鬼なら、地獄や異世界に僕たち或いはこの教室を丸々移動させることは不可能だと、考えを改めたんだ。だって僕たちですらそんな所が存在するか知らないんだから」
少々自嘲の意を含んだ声でセイタが言うと教壇の上にあぐらをかいていたカクマは教室の一番後ろで腰を抜かしたままだったセイタの目のまで、鮮やかな跳躍で降り立った。ぴちゃりと音がして、セイタの頬に床に溜まっていた血液が飛ぶ。それはもはや何の温度も感じさせなかった。
「じゃあ、ここはどこ?」
「繰り返すけど推測。人類の本当の化学力がどこまで進んでるのか、僕には見当もつかない。まあ、自分たちと同じ形をした別種の強化生命体を数千体単位で生造することには成功してるのに、その『餌』を然るべき場所、水面下とか場所を移動したと『餌』に自覚させることなく行わせている。これは個体の嗜好かもしれないけど。そしてさっき聞こえたチャイム。他の教室とかじゃなくて、絶対にそのスピーカーから聞こえた。もう一回言うけど、カクマさん、今から言うことは全部僕の当てずっぽうだから、的外れでも気を悪くしないで欲しい」
カクマは意外にも殊勝に、こくんとうなづいた。
「きみは吸血鬼でとんでもない力を持ってるけど、まだ『その程度』でしかない。
まだ僕たち全員を、処分所とかそういう場所に瞬間移動させることができなかった。まあ、あえてかもしれないけど。
それに、ひとりひとりの血液を味わって、食事という営みを愉しむ、という『感性』も持っていないように見受けられた。それは当然かもしれないね、殺戮兵器として生み出されたんだったらそんなの不必要だ。
だけど――」
そこでセイタは初めて両腕を膝に置き、ゆらりと立ち上がった。
「僕は人間で在るという『経験』がまだ十七年しかないけど、多分きみよりは先輩だと思うから言わせてもらう。腹を立てたなら喰うなり血を吸うなりすればいいけど……。
人間の『感性』とか『感情』っていう類は、なかなか馬鹿にできなものじゃない。僕は根性論が大嫌いだけど、火事場の馬鹿力っていうのは信じてる。まさに今の僕だね。B級スプラッタ映画みたいな光景を目の当たりにした後に、ラズベリー賞受賞作みたいな現実を聞かされて、何だよもう、死にたいとか考えてた自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。カクマさん、僕は今、確信を持って生きたい、心の底からそう思ってて、なんだかやる気とか意欲みたいなものすら身体の中に満ちてきてるのを感じてるんだ。
だから、もしルール違反とかにならなければ、見逃してくれなんて言わない、僕に生きるチャンスを――」
「結婚して」
あれだけ飄々として人を食った態度だったカクマが、たったひとことセイタに芒洋と、しかし内心では懇願するかのような声音で、それだけ吐いた。
セイタは目を見開いたが、直にカクマの目尻に涙がたまるのを見ると、
「もちろん、返事は言うまでもないよね?」
と微笑んだ。
カクマの涙が細い線となりついに流れた時、今度は六限目開始の『キンコンカンコン』が鳴り始めた。
「カクマさん、さっき僕が言ったことはどれくらい正解でどれくらい的外れだったのかな? あと、どうしてきみは泣いているんだろう? 下等生物に変なとこ言われて気を悪くした?」
「ずっと死にたいって望んでた好きな人が『生きたい』って、心の底から言い出したんだよ?! それだけで嬉し泣きでしょ普通! しかも唐突に求婚したら秒で良い返事くれた! 命乞いのためとかじゃなくて! だからこれは嬉し泣きなの!」
カクマはほんの少し鼻をすすっていたが、
「でもセイタくんと私が結婚するためにはやらないといけないことが鬼クソある。だから――」
カクマは涙をごしごしと拭い、薄い笑みを称え続けるセイタの左腕を乱暴に握って走り出し、校舎の四階に位置する教室の窓ガラスに突っ込んで、そのまま跳躍した。
「一緒に生き延びよう!」
「わ、分かった! でも僕の身体能力が雑魚ってことは忘れないでくれよな!」
(了、以上全て即興)