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第57話 「あなたの物語が面白かったからよ」

 奥の静かな部屋に寝所をしつらえ、香は身体を丸めて横たわっていた。

 額に汗を浮かべ、苦しそうな息づかいだ。

「ずっとこの調子なのです」

「そう」

 梛はそう答えながら、部屋の中を見渡す。あちこちに墨が染みついた文机。

 その上に幾本もの筆と墨、山と積まれた紙。

 ただその上には何も書かれていない。空白のままだ。

 硯は最近使われていないのか、墨跡がついたまま乾き、軽くひび割れている。

 梛は眠る香の側にそっと座り、一度しか直に見たことのないその顔をのぞき込んだ。

「私より少し下だと思っていたけど……」

 昔も小柄だと梛は感じた。その記憶の中と、目の前の彼女は殆ど変わっていない。

 出会った頃、香は既に嫁き遅れの二十歳に近かった位だが、裳着を済ませてまもなく程度の少女にしか見えなかった。

 そして今、出会った頃の実年齢くらいにしか見えない。

 白いものが少し混じった髪と、目の下の窪みだけが彼女の年月をかろうじて語っている。

 しかしそれは香の文を延々読み続けている梛には妙に納得できるものだった。

 彼女は変わらない。変わろうとしない。いや、変わる必要が無かったのだ。

 梛は思う。大概の女は結婚とそれに伴う恋愛期間で大きく変わる。

 香にもそれはあった。

 だがそれはごく僅かな期間だ。死別。相手に嫌われたり飽きられた訳ではない。しかも相手は彼女をそれまでになく甘やかしてくれた男。

 そしてその後も、己の夢の世界をその才能ゆえに大きく広げ、周囲を巻き込むことによって自分自身を変えずに済んでいる。

 周囲の変化に自分を変えるのではなく、周囲が彼女のために変わるのだ。全ては彼女の物語のために。それを作る才能のために。

 だがそれが無ければ――

「……ふ」

 香はうっすらと目を開ける。人の気配に浅い眠りが覚まされたのだろう。

「奥さま、梛さまですよ」

 不審そうに梛の顔を見る香に、野依は慌てて言い添える。

「……梛さま?」

 目を大きく開き、香は起き上がろうとする。だが身体を支えようとしていた腕には力が入らない。

「無理しなくていいわ」

「本当に梛さま? ……嘘」

「嘘? どうして?」

「お髪が」

 香は細い指を伸ばす。そこにはやや目立つ胼胝が、ちょうど筆を持つ位置にできている。

「私の方が先に世を捨てようかと思っていたのに……」

「何言っているの。別に私は世を捨ててはいないわよ」

 梛は言い放った。

「これは方便よ」

「方便とは…… どういうことですか?」 

 ふわり、と梛は短く、軽くなった頭に手をやる。ゆらゆらと流れる髪。父譲りの、たっぷりとしたくせ毛。重くて重くて仕方がなかった髪。

「それはあなたの方が良く知っているのじゃない? 香さん。いえ、紫式部の君」

「あなたまでそんな名前で呼ぶのですか!?」

 瞳がぎらぎらと狂おしいまでの光を宿す。

 今度こそ。腕に力を込めて香は身体を起こす。野依は慌ててその背を抱き留める。背に着物を掛ける。

「私は―― その名で呼ばれるのが嫌で嫌で仕方がない」

「でもそう呼ばれるということは、あなたがそう望んだということだわ、結局」

「私が?」

 ぐっ、と梛の方へと身体を押し出す。

「そんなことは無いわ」

「ただ普通に中宮さまにお仕えする女房の『藤式部』じゃなくて、物語を書く女としての、特別な名でしょう、それは」

 だから他の、よくある候名とは違う様に。

「『清少納言』が草子を賢ぶって気取って書く女房である様に。でも私はその名を誇りに思うわ」

「何を仰るの。梛さまは梛さまでしょう。『清少納言』じゃな」

「香さん。私が『清少納言』だって、本当に忘れたの?」

 言葉を遮り、ぐい、と梛は香の側に顔を近づける。香はふらふら、と首を振る。

「……違う」

「何が違うの」

「梛さまあなたは、私の言葉をいつも全て受け止めてくれるひと。得意げな顔で偉そうに宮中で振る舞っていたひととは違う」

「違わない」

 梛は強く否定する。

「確かに私はあなたの文をいつも楽しく読ませてもらっていたわ。だけどそれは香さん、あなた自身が好きだから、認められるから、ということじゃないわ」

「そんな」

「私は物語を書くあなたの才能と、変わった性格から出てくる言葉を楽しんでいた。それだけよ」

「嘘」

「嘘じゃない」

 梛は口の端を軽く上げる。

「どう。『清少納言』はこういう女でしょう? あなたの言葉を見て笑っていたかもしれない。あなたの一方的な頼み事に腹を立てていたかもしれない。そう、そういうこともあったわ。でもあなたの頼みはできるだけ叶えた。どうしてだと思う?」

「……何故」

 額から汗をだらだらと流しながら、動悸が酷いのか、胸を押さえて息をつきながら、それでも香は問いかける。

「あなたの物語が面白かったからよ」

「それだけ?」

「それだけよ。だけどそれが凄く大きかったのよ。凄すぎたのよ。そうでなくて、どうして実際に行き来しようともしない相手と十何年も文を長々と交わすと思うの?」

「そんな…… ひどい」

「ひどいのはどっち?」

 視線を合わせる。離さない。

「私はいつも、あなたの文を読んで内容を噛みしめて相談があれば返したし、感想が欲しいとあったら考えて書いた。だけどあなたはよく私の言葉を見なかったことにしたでしょう?」

 そう、よくそんなことがあった。梛は思い出す。聞きたくない感想、助言、そういったものは全て香の中では無かったことにされていた。そしてやがて言われた。皆の感想はもういらない。

「……そんな言葉、知らない」

「それで、忘れてしまった? それとも、自分の中でいい様に変えてしまった?」

「梛さま、もうお止め下さい……」

 耳を塞いで嫌々、と首を振る香を野依は背中から抱きしめてかばう。

 乳母子の温みに助けられてか、香は早口で、それでいて叫ぶ様に言い立てる。

「そんなもの、見たくない。聞きたくない。どうしてそんなこと言うの? 私の物語について『こんなことはおかしい』とか『違ってる』とか。日本紀の様な歴史じゃないのよ、物語なのよ。私の頭の中から溢れてくる、ただの、私の世界なのよ」

 ああそうだ。記憶の中から飛び出して、ぴったりと重なる、この口調。

「梛さますみません、きっと奥様には物の怪が……」

「野依、世の中に物の怪なんか居ない」

 ぴしりと香は言った。

「そんなもの、人が生きるための方便よ。見えないものが見えた方が生きてく場所で皆が上手くやっていく方法なのよ。でもそんなの嘘。私は嘘って思ってしまう。口にしてしまう。野依、お前だってそうよ。物の怪が居ないって私が言うだけで何なの、その目」

 物語を作る人間の目。この社会を回していくからくりに、気付くともなく気付いてしまうその目。解析してしまう頭。

「私が思ったことを言って、動きたい様に動いて、私らしく生きようとするだけで、皆がおかしいおかしいって言うじゃない。だから私の好きにできる世界を、ただただ紙の上にひたすら作っただけなのに、どうして他のひとの言うことを聞かなくちゃならないの? 梛さま、心の中で作らずに居られなくて形にしてしまっただけの世界にもう用が無くて何が悪いの? 私の何処が悪いって言うの?!」

 はあはあ、と息を切らして香は言い切る。

 梛はしばらく黙る。勢いと速さですぐには捉えきれない、言葉の意味を考える。ああ、今までの文と一貫した主張だ。

 生まれてきてしまった場所がとても生きづらい。どうしても馴染めない。だから空想の世界を広げた。形にした。吐き出した。才能のおもむくままに。香にとって自分の作る物語はただそれだけのもの。あとは野となれ山となれ。誰がどうしてもいい。出してしまったものは。

「悪いとは言わないわ」

 ぽつん、と梛は言った。

「それならそれでいいじゃない」

 ふわふわ、と梛は軽くなった髪を揺する。そうこれは方便だ。できるだけ自由に動くための。

「あなたが嫌だ嫌だと最近言い出した宮仕えも、昨年は大丈夫だったじゃない」

「……嫌は嫌だったわ」

「でも楽しそうだったわよ。少なくとも文では」

「それは」

「物語の世界のために全てを見ようと思ったからでしょ?」

「え…… ええ」

 小さく香はうなづく。その胼胝の出来た手を梛はそっと取る。

「香さんは、自分が生きてくために遮二無二書いてたのよね」

 野依は意味が分からない、という様に香の背後から梛を見る。 

「辛いことも嫌なことも全部物語の中に吐き出して閉じこめて。亡くなったひとへの思いも、好きなものも嫌いなものも、憎らしいものも別の形に変えて。そうしなくちゃ、この世界で生きていくのはしんどかったのでしょう?」

「言いたいことは先に言わなくちゃ、誰かに言われちゃうじゃない…… お父様は私が男だったらなんて言ったって、そんな無理なこと言われても仕方ないじゃない…… どうして漢文が読めて悪いのよ…… 面白いのだから仕方がないじゃない…… どうして女が読んだら不幸になるのよ…… 男だって同じじゃない…… どうして女の方が罪深いなんていうのよ…… 女が居なくちゃ子供もできないくせに男は…… 悪口だって、聞きたくないのに、耳に勝手に入ってきちゃうじゃない……」

「見えているわよ、聞こえているわよ。でも普通のひとはもっと鈍感なのよ香さん。見ている景色はもっと大人しいわ。突き刺さる様な色で、飛び出してくる様にはっきりと見えることはないのよ。ある程度のことは勝手に見ない様にしてしまういし、音は頭の中に響かないし、物忘れだって激しいのよ」

「そうらしいわね」

「物語を書かなくても生きていけるのよ。そのくらい鈍くて、そして、だから強いの」

「だったら私は弱いというの」

 香は梛を強く見据える。

「そうよあなたは弱いのよ。だから物語を作ればいいのよ。新しく」

 その指で。筆を持って。紙もそう、そこにある。空白のまま。梛は示唆する。

「あなたはまだまだ書き足りないものがあるんじゃないの?」

「『源氏』は終わってしまったわ。光君はもう死んでしまった。その場面を書け書けって殿にも言われたけど、書きたくないから書かなかったのよ。『雲隠』って題だけつけてやめちゃった」

「そうね、私達が昔、皆で心の中に描いた『光君』はもう居ない。死ぬ前に、あなたが壊してしまった。生々しいただの男に。だからもう彼を書く必要はない。あなたが書きたいひとを書けばいい。生々しい、あなたの気持ちを代わって喋ってくれるひとを作ればいい」

「作れば……」

「あなたの世界よ。好きにすればいい」

「好きに」

「そう、好きに。ねえ、あの残された罪の子はどうなったの? 小さな宮達は? 玉鬘の君の子供達は?」

 あ、と一言つぶやいて、香は目を伏せた。

「あの子…… ああ」

 梛の手を強く掴む。

「降って来る。梛さま、降ってくるのよ。そう彼等。彼等がどうなるのか、私も知りたい。知りたいわ。書かせなくちゃ」

「そう、書かせればいい。誰に?」

「『紫式部』に」

 はあ、と大きく息をついて、そのまま香は気を失った。

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