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第53話 香が一番嫌いなのは

 中宮側、自分の同僚に対する視線もそれなりに辛辣ではあるが、基本的に「それは仕方がない」としている。環境が悪いのだ、と。

 ちなみに一条院内裏では、再び中宮の懐妊が判っている。確かにその周囲はいつもざわついているのだ。

 そしてまた、新たな女房が四月に参入している。和泉式部とその娘小式部だった。

「前々から左大臣さまがあの方をお誘いしているという噂はありましたが」

 確かに、と梛は思う。和泉式部は一昨年の冬の帥宮の死以降、哀惜の歌を次々に発表した。その量といい内容といい、目に耳にした者の涙を誘ったことは言うまでもない。

「和泉式部さんも、気持ち的な喪も明けた頃だと思ったから左大臣さまも誘いかけを強めたのでしょうね。それに」

「それに? 何かまだございますか?」

 松野は問いかける。

「和泉式部さんは、色々ありすぎて親元の大江の家から勘当されているじゃない。いずれにせよ自分で何とか生活を立てていかなくちゃならないわ。帥宮さまが多少はお残しになったかもしれないかもしれないけど、それだけでは済まないでしょうし……」

 梛は一度言葉を切った。

「だいたいあの方が里に引っ込んでいるとは思いにくいのよ」

「あの方は殿から『浮かれ女』呼ばわりされておりました」

 香は新しい同僚に関しても辛辣だった。

「娘の小式部さんと一緒に、というのが最終的な条件だった様です。母方の親元で暮らしていたそうですが、どうも娘当人の方が母親が誘われていると聞いて出仕したがった様です。血筋でしょうか。

 和泉式部さんはとても美しいひとです。そして噂や殿の仰る様な『浮かれ女』という風ではないです。

 ただ物腰がやわやわとして、少し押したらすぐにでも靡いてしまいそうな雰囲気はあります。ただ小少将の君の様には倒れきってはしまわないでしょう。しなやかな若竹の様に、押されてもまた戻ってくる様な強さを感じます。

 このひとは手紙などにも見るべきところが多いです。気を許してさらさらと書き付けたものを見せてもらいましたが、やはり何処か言葉づかいなどに色つやがあります。

 歌はやはり、とても素晴らしいです。趣があります。古くからの歌の知識に関してはそう深い訳ではないのですが、さらっと口に任せて詠んだ歌には必ず何処かきらりと光るものがあります。

 ただそういうひとなのだから、もう少し口を慎めばいいのに、ついつい他人の詠んだ歌に口出しや批評をしてくるものですから、それだけで自分の評価を貶めるものじゃないか、と思うのですけどね。

 歌と言えば、私はむしろ丹波守の北の方の衛門の君の方が好きです。中宮さまや左大臣さまなどの辺りでは、夫君大江匡衡どのと並び称して『匡衡衛門』と呼ばれている方です。

 赤染衛門、と言った方が通りが良いのに、と思います。

 この方は私よりずっと年上ですが、飛び抜けて優れた歌詠みではないと思います。ただ実に風格があるのです。

 決して口先ですらすら詠むのではありません。実にきちんとしているのです。季節や時節に合ったもので、それこそこちらが恥じ入るほどの詠みぶりです。

 自分で『歌詠み』と思っている中には、時々上句と下句とがばらばらに離れた腰折れ歌を詠むことがあります。また何ともいえぬ由緒ありげなことをして、自分一人で悦に入っているひとは、見ていて惨めです。

 赤染衛門さんは、そういうところがなくてしっかりとした知識のもとに詠まれるから素晴らしいです。私はこういう方には無条件で敬意を払いたくなります。

 ちなみに清少納言というひとは」

 そこで梛はぎょっとして目を止めた。長いつきあいではあるが、香がこの名前を出してきたのは殆ど始めてではないか。

「清少納言というひとは、かつて宮中で、実に得意げな顔で偉そうに振る舞っていたひとです。

 あれほど自分を賢そうに見せて、文章の中に漢字を書き散らしていますが、実際のところ、よく見ればあちこち違っている部分もあり、まだまだ未熟な点が多くあります」

 頭から血が引いていく。背中に冷たいものが走る。

 思わず気が遠くなる。香は今まで自分のことをそう思っていたのか?

 梛はそれでも気を取り直して続きに視線を走らせた。

「このひとの様に、他人と違ったところを見せて目立とう目立とうとするひとは、必ず何処か何かしらの行いの上でほころびが生じます。先行きが悪くなっていくことばかりでしょう。

 思わせぶりの振る舞いが何となく身についてしまったひとというものは、ひどく無風流でつまらない時でも、何となく情趣にひたってしまおうとしてしまうのではないでしょうか。

 また、興趣深いことを逐一見過ごすまいと目をきょろきょろとさせているうちに、当人は気付かなくとも、普段からわざとらしい軽薄な振る舞いをする様になってしまうものではないでしょうか。

 そんな実のない態度が身についてしまった人の行く末に、果たして良いことがありましょうか?」

「松野」

 思わず乳母子を呼んでいた。

「松野!」

「はいはい何でしょう」

「ちょっと、ここに居て」

 一人でこの先を読み進める自信が梛にはなかった。

「そんなひとが『清少納言』です。私がいつも宮中で比べられてきたひとです。

 『定子皇后さまの所の清少納言』。

 ええ、言葉に出さずともそのくらいは判ります。

 そもそも左大臣さまは、清少納言というひとを、できれば彰子中宮さまの元、もしくは妍子さまのもとに迎えたかったのですから。確かにそうでしょう。気の利いた応答のできる女房は賑やかしとして必要なのですから。

 でも私はまるで違うのです。そういう才能を求められても困ります。困るんです。

 そう、だから清少納言というひとは私にとって困りものです。ですがもっと困りものの人物が居ます。

 それは『紫式部』というひとです」

 梛は目を瞬かせた。

「ご存じでしょうか、梛さま。

 最近では私のことを『藤式部』ではなくそう呼ぶ方が出てきています。無論『源氏の物語』のせいです。

 女主人公の紫の上から、あれを『紫の物語』と呼ぶひとも居る様です。『若紫はおいでかな』と訪ねてきた方も居ました。

 そこから更に転じて、私の候名がありがちなせいもあって、紫式部と。冗談じゃありません。

 確かに私はあの物語を書きました。でも書いただけです。それ以上のことを求められても困るのです。

 そもそも物語を書く人間が、物語の人物と同一視されるなどおかしいではないですか。私の気持ちや考えが全く入っていないとは言いません。音楽や物語、源氏の口を借りて言いたいことを言っているという自覚はあります。

 ですが、それでも私は私で、源氏でも紫の上でもその他の登場人物でもないのです。彼等を作り出した、ただの人付き合いの下手な想像力過多の女に過ぎないのです。

 そして私は前にも言った通り、一度書ききってしまったものに関しては、大した愛着も無いのです。どうしてと聞かれても、勝手に失望されるのも困ります。困るのです」

「……大丈夫かしら、香さん」

 梛は文を松野に見せる。黙ってはいたが、表情がひどく微妙に移り変わって行くのが梛にもよく判る。

「いえ、それ以前に梛さまに送るべき文ではない様な気がするんですが」

 文を読み終わった松野の顔は明らかに怒っていた。

「確かに香さまは何やら悩んでいらっしゃる様ですが、幾ら何でも『清少納言というひとは……』のくだりはひどすぎです」

 そう言うとばん、と床に文を叩き付けた。主人に来たものでも耐えられなかったのだろう。

「でも自分自身に与えられた候名についても嫌だ嫌だと言っているんだから、つまりは普段あのひとが呼んでる私ではなくて、皆が言ってる『清少納言』が嫌なんじゃないのかしら?」

「梛さまは香さまにいつも甘いですよ!」

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