「十二月の二十九日に帰参しました。
初めて参内したのもこの日でした。あの時は夢の中をさまよい歩いていた様にふわふわと現実感が無かったものです。
それに比べると、今ではすっかり宮仕えというものに慣れてしまっています。慣れたくない、と思っていたのに」
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実際年末にはこんなことも起きている。
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「女童に縫い物の重ねやひねりを教えたりなどして、のんびりしんみりとしていたのですが、突然、中宮さまの方でひどい大声が聞こえました。
私は弁の内侍を起こしたのですが、すぐにも起きません。女房の泣き騒ぐ声が聞こえるので、ひどく気味悪く、どうしてよいか分かりませんでした。
火事かとも思ったのですが、どうもそうではない様でした。
内匠の君を前に押し立てて、弁の内侍を手荒に起こして、兎にも角にも三人で震えながら参上しました。
すると何ということでしょう。裸にむかれた女房が二人、靫負の君と小兵部の君がうずくまっていました。
御厨子所の人々も、中宮さま付きの侍も滝口も追儺の行事が終わるや否や、皆退出して空っぽでした。
私は手を叩いて大声を出したのですが、返事をしてくれる者は誰も居なかったのですよ。
仕方が無いので、私は御膳宿りの刀自を呼び出して『殿上の間にいる兵部丞という蔵人を呼びなさい!』と恥も外聞も忘れて叫んでしまいました。
けどその者もまたそのまま退出してしまったのです。
やがてようやく、式部丞藤原資業が参上して、あちこちの灯台のさし油などを一人注いで回りました。やれやれ、です。
その辺りに居た女房達はただ茫然として、向かい合ってうずくまったままの者も居ました。
そのうち主上からもお見舞いのお使いなどがありましたが、まあこの騒動はひどく恐ろしかったです。
散々な目にあった女房達は、納殿にある御物の衣装を下賜されました。彼女達は元日用の装束は盗られなかったので、まあその後は何事も無かった様にしています。
けど私としては、あのぶるぶる震えている裸姿は忘れられず、さすがに恐ろしく、滑稽だったなどとは言えません」
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「でも梛さま、案外香さまはこういう時には強いと思いますよ。何と言うか、非常時には」
「非常時?」
松野の言葉に梛は首を傾げる。
「ええ。普通の人々に混じって、その中の違和感やら何やらで苦しむことはあって
も、何かこういう普通の人が立ち止まってしまう様な騒動には強いというか」
成る程、と梛は思った。もしかしたら香は、生きる世界と時代を間違えたのかもしれない、と。
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そして明けて寛弘六年。
この年の初めは、中関白家にとってはまたもや浮き沈みの激しいものとなった。
正月七日、伊周が正二位になったと思ったら、二月下旬には彼等の母方である高階家の者を元とした事件が起こった。
前年生まれたばかりの中宮の皇子、敦成親王を呪詛したというのだ。
「また何故、そんなことを……」
松野はひどく率直な疑問を口にした。一方梛は心配はしていたが、その片方で呆れていた。
「邪魔だ、と単純に思ったのでしょうね。二の皇子である敦成親王がこの世に無ければ、そして今後も中宮さまから皇子が生まれることがなければ、彼等の血筋である敦康親王が帝位につけると」
「無理ですよ!」
松野はあっさり決めつけた。
「私は梛さまのご主人の御血筋として、確かに中関白家に対してお気の毒だと思いますが、今これから、あの方々が政治の中心になるとは思えません。まずそもそも正月の除目で伊周さまがその地位をいただいたこと自体、結局は左大臣さまのお許しあってのことでしょう?」
「お前にだって判ることなのにね」
それでもあきらめきれなかったのだろう、と梛は悲しくも呆れずにはいられなかった。
「もしくは」
梛は心底嫌そうな顔で言った。
「左大臣どのが仕組んだ、か」
松野は黙って顔をしかめた。
そんな梛達の気持ちなど全く解さない香からの文には、次第に個別の人物評が書かれることが増えてきた。
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「大納言の君は、とても小柄なんです」
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に始まり、宣旨、宰相、宮の内侍、式部のおもと、小大輔、源式部、小兵衛、宮城の侍従、五節の弁、小馬…… と次々にその容貌について実に楽しそうに書いている。
一番のお気に入りらしい小少将についてはまた筆が乗っている。
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「小少将の君はですね、何気なく上品で優美なひとです。
二月頃の枝垂れ柳の様。とても可愛らしげな体つき、物腰は奥ゆかしくて。
そして何と言ってもその気立てです。一人では何も判断できないかの様に全てに遠慮し、世間を恥じらい、ちょっと違えば見苦しいまでに子供っぽいのです。
だから意地悪なひとからの苛めや悪口があれば、すぐに思いつめて、命を絶ってしまいそうな勢いです。
そんなもう、弱々しくどうしようもない方なので、私はついつい可愛くて可愛くて気に掛けずにはいられないのです」
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「つまりあれですか。他の同僚の美しい方々とはちょっと違って、何処か不器用でうじうじしているところが、可愛がりたい様な方なのですねえ」
松野があっさりそう言ったので、梛は思わず苦笑した。