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第50話 「私はまだ香さんより幸せな様ね」

 やがて内裏に中宮が戻るということで、完結をみた「源氏の物語」の製本作業に力が入り出した、と香は書いてきた。

「もう大変です。色々行事が重なって皆忙しいというのに、それでも冊子作りは御還御なさる前にやってしまわなければなりません。

 私達は皆、夜が明けると、まっさきに御前に伺候して、色とりどりの紙を選び調えます。そしてそこに私が用意した物語の元本を添えては、あちこちに清書を依頼する手紙を書いて配ります。

 そしてその一方では清書された物語を綴じ集めて製本しています。

 左大臣さまは『どうして子持ちの方が、こんな冷たい時分に、このようなことをなさいますか』などと呆れながらも、中宮さまへ、と上等の薄様の紙や筆、墨、硯までお持ちになりました。

 それをまた中宮さまは実に気前良く私にお与え下さったので、殿はそのことを大袈裟に惜しがり『いつも奥にこっそり伺候してこんなことばかりやっているのだな』と仰って私をお責めになる。

 まあでも結局は、上等な墨挟みや墨、筆なども下さったのですからいいのですが。

 でも梛さま、左大臣さまは時々困ったことをなさいます。

 まだ全部書ききっていない時のことです。

 私は自分の局に物語の草稿本などを隠していつもは置いています。ところが殿は、私が中宮さまの所にいる時に局をこっそりお探しなさったのです。

 それだけでなく、それらをすべて尚侍となっておられる妍子さまに差し上げておしまいなのですよ!

 出来上がったものならともかく、途中の、出来の悪いものを持ち出されるのはたまったものじゃありません」

「それはまた災難だわ」

 梛は思わず口にしていた。しかし自分もされたことが全く無いとは言い切れない。

「上つ方というものは、香さまや梛さまの気持ちなどはお考えにはなりませんのですか」

「松野お前は、市井でかつかつ暮らしている者達の気持ちをいちいち考える?」

「……考えなくはないですが、難しいですね」

 そうよね、と梛はうなづく。

「あれとそう変わらないのでしょうね。左大臣さまにとっての香さんなど。ねえ松野、私は確かに定子皇后さまにお仕えしていた時、同僚達と一緒になって物乞いの者とか嘲笑ったことがあったわ。その時はそれが楽しかったのよ」

 奇妙な歌や踊りを見せる尼。火事で焼け出された老人。そういった者達に対して梛達は同じ人間とは思ったことは無かった。

「でも今はきっとそう笑えないわ。だって今こうやって暮らしていられるのはお父様の家があって、棟世があれこれ送ってくれて…… そういうものが無くなった時、私もいつか彼等の様になってしまうのかもしれない」

「梛さま、それは」

 松野の言葉を遮って梛は続ける。

「だからこそ、何処かへまた宮仕えに出るのか、それとも棟世の所に寄せてもらうのか…… 今はまだその辺りもはっきりしないのだけどね」

「私は梛さまのお好きな様にすれば良いと思います。それこそ出家なされたなら、ご一緒に」

「二人で物乞いしながら旅に出る?」

「それも宜しゅうございましょ」

 松野は笑った。そして梛はその笑いに何となく救われた気がした。

「私はまだ香さんより幸せな様ね」

 やがてそれを裏付ける様な香からの文があった。里に戻った時のことらしい。

「格別見所も無いうちの庭の木立ちを見ていても、何かただもう憂鬱になるばかりです。これと言って考えるべきことも浮かばないですし。

 花の色や鳥の音を見たり聞いたりするにつけても、季節の移り変わる空の様子や、月の光、霜、雪を見ても、ああただもうその頃になってしまったんだなあ、と気付く程度です。

 ああ梛さま、私は一体どうなってしまったのでしょう。この先どうなるかも判らないですし……

 以前は物語のことで色々話し合ったひとも居たのですが、宮仕えしてからというもの、ろくでもないと見られる様になったのじゃないかと恐れる日々です。

 昔は楽しく読んでいた物語も、何かつまらなく感じて、今からどうこうお話をすることもできません。

 今となっては梛さまくらいなものです。こうやって好きなことを書き散らせるのは。

 昔はそれなりにやりとりして、時には顔を合わせて物語の話などした人も、宮仕えしてから音沙汰がありません。

 家に戻っても何となく自分の家で無い様な気がして仕方が無いです。どうしたものでしょう」

 浮かれていたかと思えば一気に沈む。あまりにも不安定だ。

「こんなこともありました。

 細殿の三の口から局に入って臥せっていると、小少将の君も来たので『宮仕え生活は辛いですね』と語り合ってました。

 寒さで震えながら冷たくなった衣装ではなく厚ぼったいものを着重ねて火もおこして二人してもぞもぞしていると、侍従の宰相、左の宰相の中将、公信の中将などが、次々と立ち寄っては挨拶してきました。こんなところを見られるのも嫌ですし、大体面倒でしたので、当たり障りの無い挨拶を交わして送りました。

 小少将の君はとても上品で美しい様子で、世の中を辛いと思い詰めているのを見ていると、私も何となく悲しくなってきます。このひとの不幸は父君から始まっています。とても素敵なひとなのに、何故か幸せがひどく薄いのです」

 香は特にこの小少将の君を好きで好きでたまらない様である。

 しかし見ているだけで悲しくなるとか、辛いだろうとか思っている割には、それを文章にしている辺り、香の中にはどうしようもない冷静な部分があるのだろう。

 五節の舞姫に対しても、重い衣装や、人目にさらされることに対し、辛いだろう、と色々書き記している。

 何かと行事があれば気分が晴れて、楽しみつつ、そんな楽しんでいる自分を何処かで恥じつつ、そしてそんな自分を含めた「その場」を淡々と見つめて書いている香が居る。

 梛は何となく大丈夫だろうか、と思う。

 出仕してから一年になろうとしている。

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