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第44話 輝かしい姉と辛そうな弟

「梛さま、年末年明けは宮中も非常に忙しゅうございました。

 ところで今年の除目では、一つ私にとって良いことがございました。弟の地位が上がったのです。六位蔵人に。

 ずっとふらふらしていた弟ですので、私も嬉しいです。これも左大臣どののおかげですね。このついでにお父様も、というのはちょっと願いすぎでしょうか。

 私のおかげだといいのですが。きっとそうですよね」

 この様に香が書いてきたのは寛弘四年の正月の半ばだった。

 梛はあの線の細い青年のことを思い出す。

 ふらふら、と香は言っていたが、一応彼は寛弘元年には少内記の役についている。左大臣から国用位記の作成を命じられたこともある。全くという訳ではないのだ。それ以上の役にはつけないというだけで。

「お祝いを致しますか?」

 松野はそう梛に問いかけた。

「そうね、お文は届けましょうか」

 全く気にしていなかった訳ではない。あの姉の元で、今までの彼女の行動を目の当たりにしてきて、多少は心配していた。

 だが現在の梛と彼とは全く接点が無かった。

 あくまで「姉君からお聞きして」ということを強調して文と祝いの品をささやかに送った。軽い返事の文が来たが、彼の印象は昔同様、決して悪いものではなかった。

 香とは違って、紙の種類や色、付けて来る花にも気を遣っている。風流人という噂は間違っていない様だ。

「左大臣さまの家人である貞中どのの婿として迎えられたと文つかいをした童が言っていたました」

「それだけ?」

「いいえ、それはそれとして、斎院さまにお仕えしている中将の君に言い寄っていると噂もあるとか」

「口の軽い童ね」

 梛はくす、と笑った。

 しかし現在の賀茂の斎院―― 選子内親王の女房と言えば、趣味の良さでは近年の随一である。風流人達がこぞって集まると専らの噂である。

 香が仕えている彰子の周囲も赤染衛門をはじめ、それなりの女房は揃っているが、全体の雰囲気は選子内親王のそれには及ばない。

「それでも定子皇后さまのところに比べれば、……ね」

 梛としてはそう付け加えざるを得ない。「思い出づくし」に書き付けている数々の出来事。あの日々と同じ様なことを今の何処であってもできるとは思えない。

 まず何と言っても、当時に比べ、内裏の場所が安定していない。幾ら東三条第が、一条第が豪壮であろうと、そこは本当の内裏ではないのだ。

 その一条第に出仕している香は催し物があるとそれを逐一書き付けてよこす様になった。

 たとえば。

「先日、奈良の興福寺から八重桜が送られてきました。

 中宮さまは以前、見事だというその噂をお耳にし、できれば宮中のお庭に植え替えたい、と仰せになりました。

 結局興福寺側の『命にかえても』との大反対で駄目だったのですが、代わりに、ということでしょう。今年は花が献上されてきました。

 引き渡しの催しが行われたのですが、その時、受け取って御前に捧げる役に私が仰せつかりました。そこでその場に相応しい歌を詠むのです。

 さすがにその時は困りました。人目が一斉に集まるその場で、ぱっと考えて詠むなんて、私には到底できません。

 指名した側の方は、『源氏の物語』の作者である藤式部に、ということなのでしょうが、私としてはまっぴらです。

 そこで私はさりげなく『ここは今参りの伊勢大輔の君にぜひ』と推薦しました。歌詠みの名家である大中臣の娘で、その場に即した歌を即座に口にできる、と評判でやってきてもらったひとです。こういう時に使わないでどうしますか。

 実際それは成功でした。彼女は私よりずっと若いし声も透き通って綺麗です。歌の方も、八重と九重、今と昔をかけたもので大変素晴らしいもので、喜んだ中宮さまも返しを詠んでくださいました。

 本当に見ている分にはああいうものはとても素敵です」

 見ている分にはね、と梛は苦笑したものだった。

 やがて多少の宿下がりの後「若菜」と名付けられた巻が梛の手元に届いた。

「……厚い!」

 手にした瞬間、梛はそう口にしていた。

「これで一巻ですか?」

 松野も指で厚みを確認する。梛は付けられていた文を見る。短くそして端的な言葉がそこには書かれていた。

「……違うわ松野、これ一巻じゃない。『とりあえず半分』ですって」

「じゃああれですか? 『うつほ』の『国譲り』の上中下みたいな」

「半分、ということは上下、か正続でしょうね」

 香は一つの巻の長さを決めている訳ではない。「花散里」や「関屋」「篝火」などは実に短い。「玉鬘」などは長い方だ。

「一つ大きなことが六条院に起こる…… あのひとはそう言ったけど」

「大きなこと、ですか」

 梛はうなづき、松野に読ませ始めた。 香からそう言われてからずっと考えてはいた。何が起これば一応平穏に治まっている六条院に嵐が巻き起こるか?

 この時点で六条院に常時滞在しているのは主たる源氏。既に「准太上天皇」で、内裏に出仕する必要もなく、ずっと六条院で全てがこと足りる。

 春の御殿の紫の上、夏の御殿の花散里と若君、秋の御殿と冬の御殿は宿下がりしない限り、主は居ない。

 それではいつも居る者としては。

 花散里の君に何かが起きたとしても、物語を大きく揺るがすことにはならない、と梛は思う。玉鬘の一連の巻において、既に夫婦らしい交わりもなく穏やかだ、としている。そもそも既に「女」として見ていない。

 では若君に何かある? それは考えられる。ただ彼が筒井筒の君と惟光の娘以外に手を出すとは考えにくい。もし出したとしても、それは果たして「六条院に」問題を起こすだろうか? 彼は既に三条にも家を持っている。

 残るは紫の上だが、彼女が最も衝撃を受けるとしたら?

 そんなことをつらつら考えていたら、話は朱雀院の女三宮の話になっていた。彼女の婿取り話だろうか。そう梛が思った時、松野の読む調子がややおかしくなってきた。

「どうしたの? 松野」

「梛さま…… ちょっとこの先、気を確かにお聞き下さいね」

 乳母子の草子を持つ手に力がこもりだしている。物語の始めの巻を読み出した頃によくあった態度だ。

 やがてその理由に梛も次第に気付きだしてきた。

「まさか本気で源氏は」

「まさか」

 二人して顔を見合わせる。

 朱雀院は一番可愛がっていた娘、女三宮のこの先を考えている。だがなかなか良い降嫁先が見つからない。院は源氏の若君が適当だと思うのだが、現在筒井筒の君とようやく結婚できたばかりなので、無理に勧めることはできない。

 そしてまた、弟である源氏に、とも考えてしまうのだ。

「自分が女だったら、もしきょうだいであったとしても…… って朱雀院、そんなこと考えていたの?」

「……続き行きましょう続き」

 松野は読み続ける。

 しばらくはそう思いつつも朱雀院は色々考えているのだが、とうとう源氏に切り出してしまう。

 そして源氏も。

「ちょっと待ってよ、本当にまたここで亡くなった女院に似てるかも、というのが出てくるの!?」

 梛は思わず松野の方に身を乗り出した。

「『形代』にも程があるんじゃない?」

「……続き行きます」

 松野は同意も反論もする気力が無く、ただ読み続ける。

 源氏は結局承諾してしまうのだ。そしてまたその間の事情を紫の上に説明する。無論、女院の縁続きだから興味を持った、などいうことは言わずに。そして紫の上は、表面上は穏やかに、内心は色々と思い詰めだすのだ。

「つまりは、それが大きな出来事なのね」

 梛はつぶやく。確か以前、その様なことを危惧していた様な気がする。

「大変じゃないですか、女三宮が新たに六条院の女君として入るとしたら……」

「そうよ、朝顔の姫君と同じ『後ろ盾がしっかりした高貴な女性』よ。紫の上よりも地位が上になってしまうのよ」

 盗まれた様にやってきた境遇の紫の上は、後ろ盾となる実家が無い。確かに父は式部卿宮とはいえ、何かあった時に頼りになる人ではないのだ。

「一大事ですわね……」

「一大事よ……」

 その女三宮というのはどういう女性、いや少女なのだろう。二人は慌てて続きへと取り組む。

 その後、玉鬘の君が源氏の四十の賀を執り行う。ここから「若菜」とつけたのか、と梛は思う。

 そしてその後に女三宮がとうとう降嫁である。昔出会った頃の紫の上とは違い、ただただ幼いだけの少女と源氏の目には映った。

 源氏は女三宮を見るにつけ、紫の上をより深く思う様になる。ついつい紫の上の方に居がちになる。だがその源氏の思いは逆に紫の上には困ったこととなる。

 源氏は結局女三宮に関しては当座、可愛いだけのものとして厚く遇した。昔はともかく四十男となった今は、と。そして子供子供した彼女を知るたび、紫の上の素晴らしさが余計に身に染みるのだ。

 その紫の上は、源氏がそういう態度を取ることで、自分がどう周囲から思われるだろうか、と不安になる。源氏のことをひどい、と思う。

「考えすぎよ。考えすぎだわ」

 梛は頬杖をつきながら、仏頂面でつぶやく。

「源氏が勝手にそんなことして、と怒ればいいだけのことじゃないの」

「それができないのが紫の上なんですから」

 松野もそう言いつつも、やや不満そうだった。

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