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第42話 「蛍」の描写にふと「うつほ」を思い出す

 内裏が一条院第へ移ってから、しばらくは世の中も穏やかな日々が続いたと言っていい。

 とは言え、幾らかのことは起きている。五月は初日に日食があった。十五日には道長の土御門第で法華三十講があった。下旬には競馬。花山院の行幸があったという。

 八月には客星があったことで大赦が行われた。

 九月の八日に中宮は土御門第へ行啓。一緒に香もついて行き、月末まで滞在した。そして一条院第に戻る機会を捉えて退出したという。

 宮中でもせっせと書きためていたという。だがそれはやはり断片に過ぎない。

「やはり物語をまとめるのは家が一番です。

 中宮さまは何かと私に気をつかって下さるのですが、どうしても出仕していると目や耳や鼻に勝手に飛び込んでくるものが多すぎます。場面場面をちらほら書くことはできても、まとめることができません。

 それに何と言っても夜です。なかなか落ち着いて眠ることができなくて、私は昼間から扇の陰で大あくびです。

 そのせいでしょうか、頭がどうもすっきりしなくて。

 涼しい秋となりましたので、ここは一気に玉鬘の話をまとめてみたいと思うのです」

 そう断言しただけあって、香の筆は速かった。「螢」と題された巻を梛はすぐに手にすることができた。

 そしてその巻を読んだ時、梛と松野は顔を見合わせた。

「……『螢』! そうよ! ああもう、あのひと『うつほ』のあの場面に満足してなかったのね!」

「これ、判りますよ、絶対。『うつほ』読んでいる方なら……」

 二人が指摘しているのは「うつほ」の連作の中の「初秋」とか「内侍のかみ」と呼ばれている巻だった。

 この巻は主人公仲忠の母が、彼に代わって琴を弾くべく宮中に招かれ、その腕によって女官として最高の地位たる「尚侍」に任じられる話である。

 仲忠の母の素晴らしい腕に、帝は白楽天の「七月七日長生殿」を掛けて「九月九日仁寿殿」で必ず琴を弾いてくれる様にと彼女に頼む。そして仲忠に螢を沢山捕まえさせてきて、その光で新尚侍の顔を見る……

 そんな描写があるのだ。

 香はその辺りに関しては文に全く記さずに「ほらどうだ」とばかりに完成された巻を梛に届けた。

 夏は螢。とは梛自身も「ものづくし」に書いた様に、「螢」の巻は夏、五月の話だ。源氏は相変わらず玉鬘の君に言い寄っては嫌な気持ちを味わわせている。そんなある日、六条院に兵部卿宮が訪れる。そして源氏は弟が玉鬘を口説く様子を面白がって見ているのだ。

「この源氏、嫌な男!」

 思わず梛は口走っていた。

 源氏は隠し持っていた沢山の螢を、夕闇の中に放って、兵部卿宮に玉鬘の姿が見える様にしたのだ。

「紙燭を差し出した様に、ということはずいぶん沢山ですね…… 用意周到というか…… 宮に姫君の姿を見せよう、という辺りが男の嫌らしさというか……」

 松野もまた、複雑な表情をしていた。

「男から見たら、とても綺麗な情景だと思うわ。思いがけない光のちらつく中に、綺麗な姫君のすんなりした身体が横たわっているのが見えるなんて…… 男からしたら、ね!」

 ぴしりと梛は言った。

「そうよ、さっきから何か胸の中でもやもやしていると思ったら、この源氏、前のだんだん偉くなって行く話より嫌な男になっているのよ。香さんが言葉を尽くして美しいとか素晴らしいとか言ってるけど、やっていることが何か……」

「花散里の君の扱いも少し…… 確かに紫の上の様な寵愛がある訳ではないにしても、寝床を別々にする、とかいちいち書くのも何か……」

 松野もまた言葉を濁す。二人してどうも今までと違って、単純に楽しめないのだ。

 それに。

「出たわね。物語についての意見が!」

 そうですね、と松野も大きくうなづく。

「『日本紀』などはほんの一面にすぎない、物語にこそ道理にかなった詳細な事柄は書いてある…… ですか」

 その後も続く。後世に語り伝えたい事柄を心の中に籠めておくことができず、語り伝え始めたものだ、と。

 その辺りが非常に香らしい、と梛は思う。

「それにしても源氏は、自分の明石の姫君には下手なものは読ませない様に、と言うんですね。玉鬘のことは何か玩具の様に思っているみたいで嫌ですわ。あ、それにここで『うつほ』出てますね。紫の上の言葉に代えて」

 文中で紫の上は源氏に言う。「うつほ物語」の藤原の君の娘はとても思慮深くしっかりした人で間違いはないようだけど、そっけない返事も素振りも、女らしいところがない、と。

「紫の上はつまり、あて宮に関しては『姫君にはこうなって欲しくない』んでしょうか」

「少なくとも源氏はそう思っているんでしょうね。紫の上はその源氏に育てられた様なものだもの。価値観が同じでもおかしくはないわ」

 そして源氏は、その紫の上を息子には絶対に見せない様にしている。かつての自分がしたことを繰り返さないために。

「……何か」

「……ええ」

 二人して言葉を無くしていく。

 何となく梛は、香の視線が男のそれに近いものになっている様な気がして仕方がなかった。源氏の行動をさりげなくけなしもしているのだが、そもそも、その視点が持てる時点で既に不思議なのだ。

 香は「うつほ」であまりにも女性がつまらないから自分の話では女性を描きたいとしていた。だがそこに出てくる女性達は、気持ちはどうあれ、男性の視線に映るそれではないか、と。

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