「とうとう八度目です。
そう言えば、中宮さまはお父上の左大臣さまとこんなお話をされたそうです。
お妹君の入内に際して、様々な草子を集められたそうですが、その中に『源氏の物語』もございましたの。
ただその時、左大臣さまは中宮さまにこんなことを仰ったのですって。この物語はちょっと困ったものではないか、と。特に『輝く日の宮』が」
*
困ったもの。
その言葉に梛の目は止まった。
確かにあの巻は「物語として」やや性急にことを運びすぎるとは思う。「桐壺」からすんなりと続いているとは思いにくい。話自体の性格が違うので、違和感があるのだ。
それに何と言っても内容だ。若き源氏が次々と女をものにする。その中で最も重要なのが、藤壺の女御との部分。帝の寵妃との密通。
*
「その部分が困る、と左大臣さまは仰るらしいのです。仕方ないかもしれませんね。少し露骨に書きすぎました。
だけど中宮さまはお父君にこう言い返したそうです。
『あらお父様、あれは物語よ。つくりばなしよ。どれもかしこも現実ではないおはなしよ』
そう仰って、お父上の言葉をはね返したとのことです。頼もしい中宮さまです。『うつほ』もその様にして、全巻揃えていらっしゃるそうです」
*
「どう思う?」
梛は左大臣の対応に関して、松野に問いかけた。
「左大臣さまは『源氏』はお読みになったのでしょうか」
「と、いうことになるわね。やはり大切な姫君に下手なものを読ませたくは無い、ということでしょうね」
「中宮さまは本当に『源氏の物語』がお好きなのですね。かばって下さるとは」
「それだけ、かしら」
梛は首を傾げる。どういう意味か、と松野は問いかける。
「左大臣どのにとって『源氏の物語』は決して宜しい話ではない筈よ。『輝く日の宮』だけでなくてね」
「それは以前梛さまが言われたことですか?」
松野はやや声をひそめる。梛はうなづく。
「『うつほ』もそうだけど、香さんの物語も藤氏ではなく源氏が栄える話だわ。中宮さまがそれを見越した上で『つくりごと』と仰ってくださったなら」
そうだったのなら、中宮彰子は、実に頼りがいのある後ろ盾になりうるのではないか、と梛は思う。
だがそこまでの考えが果たしてあるのか。
かつて自分の仕えた定子皇后には、考えはあっただろう。だがそれ以上のことはできなかった。強い力はなかった。例えば亡くなった東三条院詮子の様に。立場が弱かった。それは確かである。父道隆が亡くなり、その時点では皇子も無かった。若い伊周と隆家には人望が無かった。あったのは政敵だけだった。
それに対し、現在の中宮彰子は恵まれていると言える。父左大臣は政治の中枢。そもそも彼女を「后」の地位につけた一件そのものが力が無くてはできないことだ。
その彼女は父に逆らう程の力を今後、持ち得るだろうか? 梛は自問する。
少なくとも現在は無い。
ただこの先、彼女が皇子を生むことがあれば、状況は変わってくるだろう。父に匹敵する力…… とまで言わずとも、父の発言を抑えることができる様になるかもしれない。
そうすれば中宮が一押しである「源氏の物語」も安泰である。
「中宮さまは今お幾つだったかしら」
「たしか、十七と」
「まだお若いわね……」
*
「この様な御方と、紙と筆と墨のためなら、私は出仕してもいいかな、と最近思い始めました。
さてそうなると、準備が大変です。具平親王様の所へお仕えしていた時のものをそのまま使うという訳にもいきません。
お父様や弟もあちこちに挨拶に行くとか行かないとか。私自身も、中宮さまのお側の女房の方々にそれなりにご挨拶をしなくてはならないとか。とても面倒です。嫌だ嫌だ。
でも紙と筆と墨のためです。この先私が書き続けるために必要なものです。幾らあってもいいのです。
そう、新しく考えている『求婚話』はだいたい十巻くらいになるのではないかと思います。ただ、その中には求婚話だけでなく、多少付け加えることもありますが。
例えば源氏の若君。彼は筒井筒の仲の君とのこと以外、大して書いておりませんでしたので、まだまだ考えようがあります。
幾ら幼なじみの君が大切でも、全く誰にも気を移さないということがありましょうか。さすがにそれは無理でしょう。せっかくですので、その辺りももっと書きたいと思います。
それにそう、源氏は六条院を作りますが、そこで色々な催しをさせたいと思います。せっかく作ったのに、何も無いのは勿体ないし。
そこに住んでいる女君達同士で交流があってもいいのではないでしょうか。特に紫の上と斎宮の女御は別に源氏を巡ってどう、という関係ではないのですし。
そうそう、新しく作った女君達の処遇も考えなくてはなりません。空蝉とか末摘花とか。
源氏のことだから何処かに引き取るとは思うのですが、その辺りも不自然ではない様に作らなくては。末摘花は引き取った、と書いてしまいましたしね。
求婚話の姫君も何処に住まわせたらいいでしょう。
私はできれば女君達は仲良くなって欲しいのです。『うつほ』の大宮と大殿の上の様に牽制し合っているのではなく、本当の意味で。無理でしょうか?
全く無理ではないと思います。いえ思いたいです。だってそもそも彼女達自身は源氏を挟むから物思いをする訳であって、実際に出会ってしまえばどうなのでしょう。案外「同じ男に思われた」同士は相性が良かったりしないでしょうか?
私はできれば、紫の上と明石の君をも仲良くさせていきたいのです。
いろいろ考えることがある、というのは楽しいことですね」