「まあ姫君がこれで満足できるならそれでよし、なのでしょうか」
「この場合、姫君が決して賢くないということが大切なのかしらねえ」
「ああ、そう言えば私、ここも好きですよ。姫君が乳母子の侍従の君に、自分の美しい髪で作ったかもじを形見にあげるところ。何も残っていないから、せめて、という辺り、やっぱりいじらしいじゃないですか」
「髪は豊かで美しい、と以前から書いていたものねえ」
そう言いながら梛はふと自分の髪に触れてみる。ふわふわゆらゆらとした巻き髪。
「私の髪じゃあかもじにはならないわね」
「いいんですよ、梛さまは」
「あらお前、残念がっていたんじゃないの?」
「昔はそう思っていましたけどね」
けど、と松野は梛の波打つ髪を一房取る。
「だんだんこの先歳をとっていけば薄くなっていくじゃないですか。けど梛さまの様な髪ですと、少なくなっても薄くなった様な印象を与えないんですよ。私なんかもう、最近ほら、白髪が」
あら、と梛は松野に近付いて見る。確かにずいぶんと増えている様だった。
「お前も苦労しているのね……」
「どなたのせいだと思っているんですか。私の場合、しかもこの辺り」
耳の少し上辺りを示す。
「白髪が出るところが固まっているんですからね。梛さまの様な髪だと、割とそれも目立たないんですよ」
成る程、と何となく梛は納得する。
「でもそういう話をする程、私達も歳をとってしまったってことよね……」
「全くです」
ふう、と二人してため息をついた。
「目が暗くならないうちに『思い出づくし』もまとめなくてはね」
はい、と松野はうなづいた。
行成は草子の「ものづくし」をまとめたものを借りて筆写して返してきた。できれば能書家として知られている彼が写した方を貰いたかったが、さすがにそれは無理だった。
「私とて忙しいのですから、それは家のものにやらせました」
そして現在「ものづくし」草子は宮中を回っている様である。時々感想が送られてくる。大概は「面白い」「そうそうこういう感じです」と好意的なものだった。
だが時には「これはあり得ないです」「あなたの考えにはちょっと賛成できないです」という意見もあった。
梛はそれらを「ああそんなものか」と受け流すことにしていた。むしろ松野の方が怒っていることが多かった。
「つまらなかったのなら感想など送ってこなくてもいいのに!」
「『嫌だった』って感想を送ってしまいたくなる程、私の書いたものは強く心に残ったってことじゃない?」
「けど読んだ側が嫌な気持ちになるって思いはしないのでしょうか?」
「嫌な気持ちになる様に書いているんでしょ? そういうものって」
そういうものですか、と松野は憮然とした顔で問いかけた。そういうものよ、と梛はあっさりと決めつけた。
そして思う。香にとってはどうなのだろうか、と。当人は決してその件については触れては来ないのだが。
*
「これで五回目です。ですがいつものお誘いとは違います。
何と中宮さま御自ら筆をお取りになったとのことです!
内裏が火事で燃えてしまったので、どうやら出仕するとしたら、東三条第の方になると思います。
彰子中宮さまは何でも本当に『源氏の物語』がお好きな様です。できれば去年や今年書いた短い物語も長い話の間に入れて、草子を揃えて帙に詰めてきちんとしたものを一揃えにしておいて、いつでも好きな時に読みたいんですって。
それを聞いて私、今考えている物語があるので、それは少しお待ち下さい、って文を返したのです。
前に梛さまに少しお明かししましたよね。『少女』と『梅枝』の間の物語の時間が結構空いているから、そこで一人の姫君を使った物語を入れたいのです。
数奇な運命をたどって源氏の元へやってきた姫君。最後の二つの話を壊さないひと。
呼び名はまだ決めていませんが、夕顔の君の娘です」
*
「あ」
梛はそこを見た時に思わず声を立てていた。
夕顔の君には確かに娘が居た。だがそこを軽く香は飛ばしていた…… 様に梛には思えたのだが。
*
「ずっとずっとこれをやりたいと思っていました。……求婚話です。
姫君に沢山の男君が求婚してくる物語。梛さまもうお分かりでしょう? 私は『うつほ』より面白い求婚話を書きたいんです。
いえ書きたい以前に、私が見たいのです。
『うつほ』はずっと昔にもお伝えした様に、私もとても好きです。でも所々、私ならこうするのに、という部分がありました。ずっとずっと私は読んでいてはがゆくてはがゆくてたまらなかった所です。
それが何処かは言いません。でも私の書いたものを御覧になったら、梛さまなら絶対に判ります。
中宮さまはそれなら私にはできるだけ物語を書く時間と場所を提供する、とおっしゃいましいた。場所。そう場所です。静かなところでなくてもいいのです。私のことを突然呼びに来たりするのではなければ。贅沢ですか? でもそれでなければ私は書けません。何が嫌かと言いますと、ただ『人が居る』ということではないのです。『私を知っていて、時々必要とする人が居る』ということが嫌なのです。
私は確かに宮中に興味があるのです。でもそれは、中の人々とお付き合いがしたいということではないのです。ただ見たいだけなのです。息をひそめて、誰も私の居ることなど気にしない中で、ひたすらそこに在るもの、居る人々を観察したい、それを物語の参考にしたい。それだけなのです」