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第36話 末摘花の君に喝采を

 香の筆は止まる所を知らず、翌寛弘二年の始めには「末摘花」という話を書いた。

 これに関して梛は、以前「源典侍」という女房を出した時と同じ様な悪意を香に対して感じた。

 悪意は二方向に対して存在する。

 一つは源氏に。

 そしてもう一つは「末摘花」の姫君に対して。

 無品ではなく、常陸太守の地位にあった宮の残された姫君。世が世なら「上の品」なのに、その父宮が亡くなったことで、一気に突き落とされた女性。

 何の才も無く、引っ込み思案で、その上不細工ときた。

 姫君のその姿と現状が、あまりにあまりだったことで、源氏も「他の誰にも相手にされないだろう」と哀れに思ってあれこれ世話をしてやることになる……

「これって紫の上がなっていたかもしれない状況かもしれませんね」

「紫の上は源氏がさらってしまわなかったら、兵部卿宮の家に引き取られていたわ。もっともそれはそれで、継子いじめの話になったかもしれないけれどね」

 とは言え、紫の上は数ある宮家の中でも三番目と言える兵部卿宮であるから「落窪」「住吉」の様な事態には陥らないだろうと梛も思う。

「それでも、いくらあってもおかしくない話ですよね。現実に後ろだてのない無品の宮だっていらっしゃる訳ですし」

 中務卿宮や式部卿宮といった重要な省の長官、弾正台尹、太宰府帥、そして大国の守。親王達の役職には数限りがある。

 またそれ以前に「親王」扱いされるかどうかも。それこそ何かしらの氏をもらって臣下に下り、政治に参加する方が暮らし向きに困らないかもしれない。

「そう言えば、源氏にもきょうだいはいる訳よね」

「ええ。源氏はもともと二の宮で、一番上が朱雀院。源氏の下に帥宮がいて、……藤壺が生んだ皇子までの間に居なかったでしょうか……?」

「承香殿腹の四の皇子が舞った、というのは『紅葉賀』にあったけど、源氏との罪の子は何番目かは出ていなかったわね。ともかくその四の皇子がどうなったかも出ていない訳だし、その辺りをまた香さんのことだから考えるかもね」

 二月末、今までややはっきりしなかった伊周の地位が決まった。とは言え「大納言の上、大臣の下」というから曖昧なことには変わりはないが。

 三月には昇殿も許され、凶事続きの一族も胸をなで下ろしたことだろう、とそれを聞いた梛は思った。

 脩子内親王の裳着の儀も同じ頃行われた。身分も三品と決まり、相応の扱いを受けることとなった。

 梛はもしまた出仕するならば、定子皇后腹の宮達の元しかない、と思っている。だがその話はこのところは格別やって来ない。

 一方、香の方には。

「梛さま、私に宮仕えの話が来ました…… 何でも、『源氏の物語』の作者を捜していたら私に当たったんですって。

 何処だと思います? 左大臣家ですよ! 彰子中宮さまのもとにお仕えしないか、というお誘いなのです!

 土御門のお屋敷で仕えている女房の中に、うちとつながりのあるひとが居た様です。京極の家までわざわざ訪れて打診していきました。

 どうしたものでしょう。迷っています。

 私自身はもう宮仕えなどこりごりなのです。方違えだって何となく疲れると最近は思っているのに、人様の屋敷に住み込んで、他の同僚と一つ部屋にならなくてはならないなんて。それにやはりお仕えする方のお世話もしなくてはならないし、……いえ、それ以上に何よりあの衣装が嫌なのです。

 家だったら楽な格好ですが、宮仕えだと家より増えた分の衣装で肩こりがひどくなってしまうのです。ただでさえ私は書き物のせいで肩こりが激しいのに。

 だけど、向こうのおっしゃることがひどく魅力なんです。何と言っても、紙を幾らでも用意してくださるっていうんですから。それに『源氏の物語』をきちんとした形にまとめて、巻揃えとかもして皆に広めてくれるというのですよ!

 私は人づきあいが下手ですから、梛さまに今までいつも物語好きの方々に流していただいたり、お手間をとらせてしまったのですが、そういうことも全部やって下さるというのです。

 正直、それには凄く気持ちが動くのです。一体どうしたものでしょうか……」

 どうやら行成は梛の助言通りの条件を提示したようである。

 香は文の中で迷っているが、かなり心は出仕の方へ向かっている様だった。

 その一方で、新しい話の構想を練っているともあった。更に平行して「空蝉の女君」と「末摘花の姫君」が源氏が不遇になっている間どうだったのか、その後どうなったのかを考えているという。

「空蝉の君にはあまり興味が湧きませんが、末摘花の君は面白そうですね」

「あ、お前もそう思う?」

 松野は大きくうなづいた。

「だってあの末摘花の姫君だったらそれだけで一本の面白い物語ができますよ。『落窪』の様な」

「ああそうね、あの姫君だったら、そういう話になりそうだわ」

「だって気になるじゃないですか。源氏しか援助する者が居ない姫ですよ! 源氏が居なくなったらどうなるんでしょう?」

「……まあ、没落した家が更に没落するだけじゃないかしら」

 実際にその後香が出した「関屋」「蓬生」はその通りの内容だった。

 空蝉の君に対しては、あくまでその昔少し執心した女に対する「懐かしさ」を強調し、末摘花の君に関しては―― 

「あははははは!」

 読み終わった梛は思わず大声で笑ってしまった。

「何ですか梛さま、はしたない!」

 そう言っている松野もかなり必死で笑いを堪えていた。

「だってお前、確かに思った通りの内容なんだけど……」

 そう、確かに梛の思った通りだった。末摘花の君は、源氏によって何とか暮らしてはいたが、訪れが無くなってはたまったものではない。

 しかも一度楽な暮らしを知ってしまった。それだけに更なる没落に耐えられなくなる者も沢山居た。故常陸宮家からはどんどん家人が去って行き、残っているのは本当に古参の行き場の無い女房と、乳母子だけだった。

「けどこの姫君は『末摘花』の時よりも好きですわ、私は」

 松野は笑顔になって言う。

「何か、いじらしいじゃないですか。それでも源氏を待って待って待ち続けるというのは。源氏はすっかり忘れていたというのに」

「まあ源氏にとっちゃ…… ねえ」

 結局再会し、末摘花の君はまた安心できる生活を送ることができる様になる。とは言え、それで源氏が寄りつく訳ではないのだ。

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