おや、と梛は思った。
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「物語なら私も頭から溢れそうなのですが、歌はそうもいきません。
源氏の物語では、誰それが何処で、というのが判っていますから、それに相応しい歌を、と考えることができます。その場その場に合わせて『私の』歌を、というのはとても難しいです。
私は小さな頃から上手く物事を口にすることができませんでした。考えが頭の中であちらへ飛びこちらへ飛び、上手くまとめることすらできなかったのです。
父が文字を教えてくれ、ものを書くことを覚えてからです。私が人並みに物事を筋立てて考えることができる様になったのは。
ああ、また話が飛びました。
そうそう、簡単に姿が見えるところに居るというのも何ですね。きっとその辺りのほんのちょっとしたところが人々に軽々しいという印象を与えているのかもしれません。当人はそうと思わずとも。
とは言え、魅力的な方であるのは間違いないでしょうね。
帥宮様はそれこそ『軽々しい御方』で、色々な女房の方々を宮中で御覧になっているはずです。その方々を差し置いて和泉式部さんをお屋敷に入れ、いつでも逢える時に逢える様にしたい、というのは……」
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そして年末、いつも細かく硬い香の文字が珍しく踊っていた。
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「大変なことが起こりましたね、梛さま。
とうとう帥宮様は式部の君を迎えられました。
それだけじゃありません。北の方が女御さまの所へ出ていってしまいましたね。
元々ご夫婦の仲は良くないと聞いてましたが、式部の君を迎えてからは、全く寄りつかない様になったと。
ああ私、この一連の出来事で、思いついた物語があります。無論今は書きません。まだ今私が書いているのは源氏の君が流されて気持ちが沈んでいるところですもの」
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一度に三巻出した後、香の筆は一旦治まった。それからは三ヶ月から四ヶ月に一つの作品を仕上げては、和泉式部の噂と一緒に梛の元へ送ってくる。
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「紙は本当に貴重ですね。本当に。今は我が家ではできるだけ倹約して計画的に使っています。どんな紙でも小さな文字で、裏表使って、それと、まず私自身の物語の組み立て方を考え直さなくてはならない、と思いました。
ああ、それにしても梛さまにとっての定子皇后さまの様な方が私にもあったら!
梛さまにしても定子皇后さまがあの文章をお気に召してお招きを受けたのですよね。それで沢山の紙や筆や墨をいただいたと聞きます。
私にもそういうことがあるでしょうか。もっとも宮仕えはもう嫌なんですが。
人々の―― 特に男性の前に顔をさらすなんて、ぞっとします。見ている分には良いのです。美しい殿方は素敵です。でもできるだけ現実には関わりたくありません。
具平親王さまの所に仕えていた時は、北の方さまが私のことを良く判って下さったので、それこそ親王さまご自身がお出でになる時にも私に気持ちを整える時間を少しでも下さいました。ですが他の場所では必ずしもそうとは限りません……
ああでも、それはどなたからも誘われた訳でもないのに考えることではないですね。ただ紙のことを考えると、ついついそこまで考えてしまうのです。
物語はそろそろ折り返し地点です。源氏の君もそろそろ都に帰ってきてもらいます。須磨も明石も実際に行ったことがある訳ではない場所なので、少々疲れました。海辺の地に住んだことはありますからそれを参考にしましたけど。
あらそうしたら今度はまた宮中ですね。それも難しいですね。いっそ源氏の君には…… 少し考えてみます」
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やがてその「少し考えた」結果は、長保五年までの間に出た。
「澪標」で源氏の君は懐かしい都へと帰還する。明石で出逢った女君と、彼女の中に宿った子を残して。
「これ、『若紫』で良清が言っていた明石の入道のところじゃないですか! もうその時から須磨から明石へ行くことも全部香さまは組み立ててらしたのでしょうか?」
「まあ、たぶんね。『形代の姫君』から『桐壺』まで、結構間があったから、大筋は作ってあったに違いないわ」
松野は梛とともに「明石」の辺りを読みながら訝しげにつぶやいた。
「明石の女君と六条の御息所の関係はつまり、紫の君と藤壺の女院のそれに似ている様な気がするんですが」
「私もそう思うわ」
梛はうなづいた。
「源氏にとって憧れの対象である年上の二人の代わりに、それぞれ、それぞれに応じた様に身分の低い身代わりを手に入れている…… 気がするわね」
「源氏の君にしてみれば楽ですわね。高貴な方々は会うのにも大変ですが、紫の君は二条院でいつでも一緒ですし、明石の君も向こうではいつでも逢えましたものね」
「楽…… そう、楽よね。明石の君もそういう意味では『形代』かもね」
そう思うと、やはり梛の中には疑問が湧く。「形代の姫君」達は本当にそれで幸せなんだろうか?
ただ紫の君と明石の君では大きな差がある。明石の君にはしっかりとした親元があるのだ。身分はともかく、両親そのものと財力とが。
「この先、明石の君はどうなると思いますか? 梛さま」
「子供ができるなら―― おそらくそれは姫君でしょうね。源氏がこの先出世していくとするなら、姫君が必要になるわ」
かつての中関白家、現在の左大臣家のことを思えば、そういう展開は必然だろうと思われた。何と言っても、帝の後宮に入れられるのは姫君なのだ。女子が居ない場合、余所から美しい姫を養女にする場合もあるのだ。
「と、すれば無論姫君の生母をおろそかにはしないと思う…… ただ」
「ただ?」
松野は首を傾げる。
「すぐには無理ね。このお話の時点の帝に入れるにせよ、次のせよ、時間がかかる…… とすると」
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その梛の疑問の答えは「澪標」の最後の辺りで明かされた。
「成る程こう来ましたか!」
松野は顔を上げ、梛の顔を凝視した。
「御息所の斎宮の姫君! ……忘れてました」
梛は思わず声を立てて笑った。確かに彼女は印象が薄かった。朱雀院が望んでいたということだけ梛もおぼろに覚えていた程度だ。
「彼女を養女ということにして、女御にする、と……」
「でも既にあの…… ええと、前の頭中将ですか」
「……あのひと、『うつほ』で女性が目立たないから、と言ってたけど、考えてみれば、男の人の場合こうやって名前をつけておかないと、役職がどんどん変わるから結構困るじゃない!」
源氏の青春時代に一番仲の良い相手だった大臣家の息子は「頭中将」と呼ばれたが、この時点では「権中納言」だった。
「この先、彼に関しては『あああの人だ』と思いながらも、女君達の様に『何とかの君』とか言いにくいのが困るわね」
「確かにそうですね。私達が話す時にも困ります。ああ、そう言えばいつの間にか私達光君、って呼んでませんわね、梛さま」
「あ」
今更の様に梛は思う。最初は確かに光君だったのだけど、だんだん光る源氏の君、と変わり、現在では何となく「源氏の君」に落ち着いてしまっている。香の書く文の中でも数は少ないが、そう呼ばれているせいかもしれない。
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長保という年号が終わるまでに、香はその様にして「絵合」「薄雲」「朝顔」「少女」と着実に源氏が政権を掌握して行く様や藤壺女院の死、朝顔の姫君への気持ちの決着、息子とその従姉妹の筒井筒の仲など様々に進めて行った。
そして更には「梅枝」「藤裏葉」で明石で生まれた姫君の入内と、源氏自身の太上天皇に準ずる位の授与、最高に恵まれた一族の話を書き終えたのだ。