「物語の書き手であったことがまずかった様です」
松野はそう言った。
香の夫、藤原宣孝はその夏の疫病であっけなく亡くなった。
寝ずの看病を何日も香はしたそうだが、それは何にもならなかった。彼女の目の前で、最愛の夫は息を引き取った。
ただそこからの反応が他の誰とも違っていた。
彼女の乳母子の野依は松野にこう漏らしたという。そして一つ頼み事も。
「奥様は看病疲れで葬儀の後に倒れてしまい、それから数日寝込んでしまいました。
まさか病気が伝染ったのか、と家の者は皆心配致しました。
ですがそれは杞憂でした。香さまは起きるとすぐに文机に向かい、宣孝様が寝込んで以来放り出していた物語の続きを書き出しました」
そこまでは良かったのだという。何て立ち直りが早いのだ、と感動した者も、実は愛情は薄かったのではないかと訝しんだ者も居たという。
「だけど実際はそうではなかったのです。
香さまはひたすら文机に向かい続けました。昼も夜も、ずっと。
お食事にも殆ど手をつけず、私どもがお休み下さいと申し上げても、聞こえているのかどうかも判らず、ともかくひたすらそこにある紙に書き付けているのです。
しかもどんどん字が小さくなっていきます。そして手元に紙が無くなった時、香さまはようやく私の方を向いて言いました。『紙が無いわ』と」
梛はぞっとした。自分も集中した時には時間を忘れてしまうことはよくあるが、香のそれは尋常ではない。
「私どもは慌てて紙を探しました。が、元々家では殆どの紙が香さまの所に集められているのです。新しい美しい紙から薄墨紙まで。
春に任地から戻っていらした大殿様に止めていただこうとも思ったのです。
ですが、香さまのその様子に驚いた大殿様が実際にできたのは、自分の手元にある、使っても構わない紙や反古を私どもに渡すことくらいでした。
私は紙と引き替えにお食事とお休みをしてもらいつつ、何とかしてきたのですが、香さまの書く早さは人のするそれではございませんでした。鬼神がとりついたが如くです。
反古にも書き尽くしたとみると、自分が一度書いた紙の裏に書き出しました。最初の字が透けて見えるのですが、後で書いたのはその半分以下の大きさでした」
梛は彼女が送ってくる文を思い出した。あの密度で。もしくはもっと細かくぎっしりと。
「しかし今、それも殆ど尽きかけている状態です。大殿様も頭を抱えています。どうかそちらで不要となった紙がありましたら、どんなものでもいいのでいただけませんでしょうか。不躾であると承知でお願い致します。今の香さまを止める術を私どもは知りません」
大変だ、と梛はため息をつきながら思った。
できれば紙を出してあげたい。おそらく気が済むまで香の無茶苦茶な書きぶりは止まらないだろう、と。
だが梛自身、現在の段階に至るまでに大量の紙を使っている。余分は殆どない。
「梛さま、例のお友達の方々に呼びかけてみてはどうでしょうか」
「ああ…… でもどうかしら」
いくら余分があると言っても、基本的に紙は高価なものなのだ。梛はたまたま中関白家や陸奥守だった故
「大丈夫ですよ。光君の物語の作者が紙が足りなくて困っているから、皆様一人一人の感想のお文を書く分の紙を作者に回していただけませんか、と呼びかけてしまうんです」
さすがにそれはどうか、と梛も一瞬思ったが、他に手立ても考えつかなかった。「至急」と仄めかしながら梛は皆に呼びかけた。
幸い未だに梛は作者が香だとは誰にも話していない。皆知りたがっているが、わざわざ根ほり葉ほり聞き出す程野暮でもなかった。
そして都中の物語好きの女達が、作者への感想の文に使いたい紙を自分の好きにできる量だけ、差し出した。
仕えている所に物語の愛読者が居る者は「主の分です」とかなり多めに送ってきた者も居た。
「ずっと続きを待ち望んでいるのですが、そんな理由が……」
と涙ながらの文を付けてくる者も居た。
あの物語は広がっているのだ、と梛は感心した。そしてまとめて松野が野依に手渡した。
*
一月ばかりして、野依は梛の元へ直接やってきた。既に冬の半ばとなっていた。
「本当にこのたびは、梛さまにはずいぶんお世話になりました」
そう言って深々と頭を下げる野依の顔はひどく憔悴していた。
「いいえ。私に何もできないから、ちょっと皆様に声をかけただけ」
「ありがたいことでございます。うちの奥様の名ではそんなことは絶対にできませんでしたし」
「それはそうと、香さんの様子はどう?」
「はい。一応構想していた分までは書き付けることができた様で、昨日からずっと眠っています」
梛は松野と顔を見合わせてほっとした。
「ひどい時には『昔は竹簡にも書いたのよ! 竹もってらっしゃい竹!』なんてわめきちらすこともありましたから、皆様からの紙が無かったら、私ども、どうしていたことやら。それこそ竹を割ったり、木の皮を剥いだり、薄い板を沢山削ったりしなくてはならなかったかもしれません」
そこに至らなくて良かった、としみじみ梛は思った。
「ただ、今回奥様の書きぶりとか、時々ぶつぶつつぶやいていた言葉が少々心配で……」
「つぶやいていた?」
「『冗談じゃない、そう簡単にめでたしめでたしなんかあり得ない、あり得ないわ!』とか『源氏の君なんかとんでもない醜女に手酷く振られてしまえばいいんだ』とか……」
はあ、とため息をつくと梛はこう言い添えた。
「……ともかくゆっくり休んでね。香さんだけでなく、野依、そなたも」
*
やがてこの年のうちに「紅葉賀」「花宴」「葵」と題名がつけられた三巻が梛の手元に渡ってきた。ただそれは、反古で作られた草子であった。
待ち望んでいた読者達は、綴じられた紙の裏まで覗くに違いない、と梛は思った。実際自分もそうしたのだから。
緻密に書かれた文字からは、どうしようもない行き場の無い思いが感じられた。それはどちらかと言うと、悲しみよりは怒りに似ている、と梛は思った。