題名。言われてみて成る程、と思ったが、それには梛も気を止めていなかった。
確かに「桐壺」と「輝く日の宮」では印象が全く違う。
そしてその物語は。
「うわああああ!」
今度は本当に梛も叫んでしまった。
「どうしたんですか梛さま!」
慌てて松野が飛んできた。
「松野松野松野、お前もこれ、これ見なさいよ!」
「それはもしや」
松野の表情も変わった。震える手で梛は草子を差し出す。
「ええ、『桐壺』の続きよ。私ちょっと正気で読み続ける自信がないから、お前声に出して読んでちょうだい」
「よろしいんですか?」
「いいわよ。その代わりお前もちゃんと読んでちょうだいよ」
はい、と松野は読み出した。だがだんだん返答にも関わらず、その表情と声も震えだした。
*
話は光君の青春へと差し掛かる。
彼は十代も半ば。祖母の残してくれた二条院と内裏で大半を過ごし、時々左大臣宅へと顔を出す日々。
少し年上の妻は気位が高く、光君と打ち解けようという気配も無い。
そんな彼の心の中に住むのは、ただ一人。内裏に住む母に似た美しい人。父帝の最も寵愛する妃―― 藤壺の女御。
しかし彼女に会えるはずもなく、御簾越しで直接に声を聞くことすらできない。下手に面影が残っているだけに、思いはつのるばかりだった。
まだ若いが故に、父帝にも隠さなくてはならない、という心が彼を軽く荒れさせた。とりあえずは他の女に目を移す、という方向で。
まずは五節の舞姫に目をつけた。さすがの光君も、噂で見当をつけてさまよい歩くには若すぎた。
ここで味をしめた彼は、次に従姉である桃園の式部卿宮の姫君に会ってみたくなり、朝顔の花をつけて文を送った。だがこの姫君はゆかしく返しの文をくれただけで、会ってくれる様な気配は全くなかった。
肩すかしを食らった様な気分の彼は、今度はやはり風流だと有名な御息所に目をつけた。彼女は父帝の兄が東宮だった頃に入内し、皇女を一人生んでいる。だがこの前東宮は早世し、彼女は六条の風流な住まいに皇女と二人暮らしだった。
その彼女に光君は先の経験や失敗を元に、今度は関係を持つことに成功した――
*
松野はそのくだりに差し掛かった時、口に手を当て、ひどく赤面していた。
「……何と言うか、奥様、前の『桐壺』とはずいぶん雰囲気が違うお話ですね」
「そうよね…… それに何と言っても、一人一人の女性の雰囲気がちゃんと書き分けられているのが見事よね」
「五節の君は、舞姫ですからまず綺麗なひとですよね。だけど身分はさほどではない…… そして朝顔の姫君は」
ちょっと待って、と梛はそこで松野の言葉を遮った。何でしょう、と松野は問い返した。
「今お前、女君達のことを何て呼んだ?」
「え? ああ、五節の君とか朝顔の姫君…… ですか? それが何か」
何となく梛は香が以前文に書いたことの意味が分かった様な気がした。
「そしてもう一人の方は六条の御息所、と私達読者は呼ぶわね、多分」
あ、と松野は口を押さえた。
「これと言ってそう文中に書いてある訳ではないのよ。だって朝顔の姫はあくまで『式部卿宮の姫君』じゃない。だけど私達読者は彼女達に確実にそういう呼び名をつけるのよ」
それが香の狙いなのだ。そう梛は確信した。
彼女達の本名は、例えば「うつほ」における「あて宮」「けす宮」の様には出て来ない。
だがこの後の話で彼女達が登場すれば、確実に「朝顔の姫君」「六条御息所」という呼び名を思い浮かべるだろう。それは彼女達の地位や立場が誰それの奥方や母、という立場となったとしても変わるものではないのだ。
やられた、と梛は思った。
「続き行きましょう。松野」
はい、と赤い顔のまま松野は続きを始めた。
*
光君はゆかしい六条の御息所との仲をどんどん深めていく。
高貴な彼女はずいぶん年下の男と深い仲になったことに恐れ戸惑っていたが、それでもそれを切ることはできない。
光君の方は彼女と夜を共にすればする程、もう一人の年上の高貴な女性を思いだし、比べずにはいられない。
そしてとうとうその思いは堰を切って流れ出してしまった。
*
「きゃあああ」
「きゃああああああ」
梛と松野は二人してその場に転げ回った。
「ままま松野、草子を握りつぶしてるわ、気を付けて」
「す、すみません。気を付けます気を付けます。けど、けど! 梛さま、光君、あの……」
「やって…… しまったわね、とうとう」
二人は顔を見合わせた。そう、やってしまったのだ。
「梛さま本当にいいんですか? 藤壺の女御と……」
「いいんですか、と言ったって、……ねえ」
「でも帝の女御さまですよ!? そこに忍んで……」
松野はそこではたと口ごもる。
「どうやって藤壺に忍び込めたんでしょう……」
「そこはまあ、結構さらっと書いてあるけどね。仕方ないわ、実際の内裏後宮の様子は香さんがどれだけ想像しても、実際に見た訳では無いから、いっそある程度ぼかした方がいいわよね」
「そうですわね。それにこの一番身近な命婦、皇族の末だ、と書いてあるこの人が協力してくれれば百人力ですものね」
そうなのだ。どんな姫君、妃にしたところで、一番側仕えの女房さえ味方にしてしまえば思いを遂げることは可能なのだ。
命婦にした所で女性である。そして光君がどれだけ藤壺女御のことを思っているのかを心と言葉を尽くして聞かされるのも彼女なのだ。
「でも香さまそういうことも色々お考えになって書かれたんですよね!」
「しかもほら、光君が他の女と違って必死でかき口説く様子とか、藤壺の女御にしたって、口で拒んで無論逃れよう逃れようとするんだけど、それでも結局昔からの仲とか色々だの、間近で見る光君の美しさにどうしても拒みきれない…… と、か……」
二人してほぉ、とため息をつく。そして顔を見合わせる。
「ねえ松野!」
「梛さま!」
「この先この二人、どうなるのかしら!」
「そうなんですよ! どうなるんでしょう!」
「一応彼女、『形代の姫君』の話につなげたいと思っているらしいのよね」
「つながる…… んですか?」
「つながるんじゃないの? 書いている本人がそのつもりだって言うんだから……」