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第22話 実方と棟世、別離と出会い

 年も終わりに近付いた頃、陸奥の国から一つの知らせが届いた。

 藤原実方が亡くなったと。

 梛はその頃、中宮職の曹司で可愛い盛りの女一宮の袴着のことで忙しかった。

 一方、翌年には道長の大姫の裳着があり、それと同時に入内するだろう、という話も出ている。

 そんな気忙しない中で届いた訃報は、何処となく梛の心の中に風穴を開けた。

 実方との付き合いは、他の友達づきあいの男とは違った。身体を重ねたことも何度かある。その時梛は確かにうっとりとその時間に酔っていた。

 ただそれは、言葉遊びの延長の様なものだったとも言える。

 彼は美しい言葉で梛をその場にかんじがらめにした。耳元の囁きは、身体を滑る指先よりずっと梛の身体を熱くした。

 だがそれだけだった。

 彼の言葉はいつも宙に浮いていた。梛は彼の言葉は嘘だと分かっていた。彼は彼で、応える梛が自分で無い誰かを演じていることに気付いていた。

 気付いていながら、二人とも知らぬ顔をした。

 その時その場でのみ、梛達は永遠の恋人だった。現実のものではない。

 子供でもできていたら、また何かが変わったのかもしれない。宙に浮いていた梛達の足は地面に容赦なく縛り付けられていただろう。だがその時二人の関係は、最悪の形で終わったはずだ。

 結局は彼の間には何も生まれず、梛は耳に届いた彼の死を遠い絵空事の様に受け取った。

 かつて恋したつもりになった記憶の一つに過ぎないと。

 思いこんでいた。

 そして胸に空いた風穴に気付かなかった。

「顔色が悪いわよ、少納言さん」

 同輩の一人が言う。そんなことは無い、と梛は答える。誰にでも答える。そんなことは無い、無いはずだ。

 だが確かに何処かおかしかった。身体に妙に力が入らなかった。女房装束がこんなに重く感じられるのは初めてだった。

 途端に、梛はひどい不安に襲われた。出来るだけ早く御前から退出し、一人になりたかった。

 局に戻り、横になると、中宮の御前に居た時には考えない様にしていたことが滑り込んで来る。

 あの頃。

 まだ中宮一家が健在で、毎日が夢の様だった日々。実方はその中で梛に甘い一時をくれた。

 一つ思い出すと、数珠つなぎに当時のことが心の中に浮かび上がる。あの頃は楽しかった。晴れがましかった。これがずっと続くと思っていた――

 今は。辛いのだろうか? 苦しいのだろうか?

 負の感情はできるだけ持ちたくない。持ったところで何にもならない。

 心がそんな闇に取り付かれそうになったら、歯を食いしばる。表情を作る。可笑しな表情、可笑しな話、可笑しな口調。少納言ならそうすると期待されている様に。

 そうしなくては。なのに。今はその気力が全く出ない。

 ぐったりと横になると、起きあがることすら思いつかない。眠りたい。何も考えずに。

 だが足音が騒々しい。遠くで女房達の、外では警備の従者達の声がする。眠りたい眠りたいと思っていても、頭の芯が妙に冴えて、眠れない。

 装束の下、自分の身体をぐっと抱き締める。胸乳をぐっと掴む。身体の記憶がよみがえる。

「……どの」

 気が付くと、つぶやいていた。触れている自分の手が、彼のものの様な錯覚を起こす。違う、違うはずなのに。

 手を伸ばす。と。誰かがその手を取った。 

「……納言さん、少納言さん」

 同じ局の女房の声で目が覚めた。

「ああ良かった…… 具合が悪そうだと聞いたから、心配したのよ」

 起きあがろうとするとぐらり、と視界が揺らぐ。髪の重さがいつになくずしりと感じられる。

「ああ駄目駄目。あなた本当にうなされていたって言うから……」

 そのまま、また横にされる。身体が楽になる。

「私、うなされていたんですか?」

「ええ。ちょうど通りかかったって言う方が伝えて下さって。あなたが苦しそうだから、誰かついてやっていてくれって」

 そう言ってから同僚はくす、と笑った。

「本当に心配そうだったのよ、その方」

「……どなただったのですか?」

「男の方」

「男の」

 心配してくれる男。

 梛の知り合い達は、同僚をそっと呼んでくれる方ではない。どちらかというと大騒ぎしそうな気がする。

 予想がつかない。

「……どなたかしら」

「あら、判らない?」

「ええ」

「きょうだいの君ではないわよ」

 則光? 考えもしなかった。

 梛は元夫である彼とはもうずいぶんと顔も会わせていない。子供達がどうしているかは向こうの女房が時々文をよこす。彼とは仲違いをして以来、それきりだ。

「棟世どのよ」

 棟世? ……駄目だ、すぐには浮かばない。

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