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第14話 藤原宣孝登場

 ふう、と梛はため息をついた。

 明るい日差しが庭に降り注いでいる。誰も居ないことを見計らってそろりと簾の外に出た。

 誰もいない…… はずだった。

 気配は無かった。

 だが。

「ため息は似合いませんよ、少納言の君」

 よく響く低い声が梛の耳に飛び込んできた。はっとして袖で顔を隠した。

「何も隠さずとも」

「どなたでしょう」

「さあ」

 そ、と袖の端から垣間見る。背の高い男。直衣の色からしたら、さして位は高くない。梛と同じ、受領階級だ。

「別にため息をついていたわけではありませんわ」

「ほぉ」

「とてもいいお天気で、風に乗って花の香が漂ってきたから、胸に思い切り吸い込もうと思っただけです」

「それはそれは」

 ゆったりと男は微笑む。

 歳の頃は四十を幾つか越えているか。恰幅のいい男盛り…… そう、正直言って、いい男だ。口元が特にいい、と梛は思う。笑顔に余裕を感じる。

「それはいい。とてもいい」

「それでは」

 と。ふっと手が袖を掴んだ。

「ようやくあなた一人の機会を掴んだのですから、簡単に逃げないでくださいよ」

 梛は黙って男を睨み付ける。

「それにあなたは私に一つ貸しがあるはずですよ」

「私が何を?」

 問いかける。見知らぬ男に貸しなど作った覚えは無い。

 すると男は口を開く。

「『これは特にあはれという訳ではないけれど御嶽の……』」

 低い声がすらすらと、とある文章を読み上げる。記憶にあるそれに梛は思わず声を立てそうになった。

「ようやくわかりましたか?」

 男の方を向く。口元がゆったりと上がっている。

 思わず梛は顔が赤らむのを感じた。面識の無い人物のことを書いたのは初めてだったのだ。ことのついでだと思って。里で、あまりにも書くための面白いことが浮かばなかったので。

 「あはれなるもの」づくしの中で御獄詣のことを書いてしまった。

 そして目の前に居るのはその当事者。藤原宣孝という男を、梛はこの時初めて見た。

「何故また、私のところに」

 梛はそれでも必死で袖を払う。何とか手を振り払う。

「失礼なことを書いたというなら申し訳ございません。しかし私もあれはどちらかというと面白かったこととして書いたのですが」

「いやいや、そんなことはどうでも良いのですよ」

 はっはっは、と彼は笑った。離した手がいつの間にやら、扇を取り出しぱっと開く。

「あの御獄詣に関しては、まあ何かと言われるだろうとは思ったし、それがどうしたという気分もあったし。まあ息子にはやや可哀想だったかもしれませんがね」

「だったら何を……」

「いや、清原の梛さんは為時どののところの香ちゃんと仲がいいとお聞きしましてね。ずっとお会いしたいと思っていたのですよ。ですがなかなか機会が無く」

  清少納言と、藤式部ではなく。

「あなたがあの子とは、ずいぶん長い間、文をやりとりしていると聞いて、またずいぶんな強者だなあ、と思ったのですよ。求婚している身としましてはね」

「つわもの、ですか」

 それはまた、女性に言う言葉ではなかろう。しかし「はい」と彼はしっかりうなづき、再び笑みを浮かべた。

「あの子は昔から、友達ができにくくてね」

「昔からご存知なのですか?」

 梛は思わず身を乗り出した。しかもこの口調からしたら、あの性格を知っている。その上で求婚?

「ええ、それこそまだ小さな小さな頃から。為時どのとはまあ、同族でもありますし、上に出す文書の代筆を頼むこともよくありまして」

「もしやその折に、彼女をご覧になったことも?」

「はい」

 大きく彼はうなづいた。

「姫君としてはあまり感心しないと言われるかもしれませんが、昔の彼女は実によく外を飛び跳ねてましてねえ」

 懐かしそうに宣孝は話す。何となくそれは梛にも想像できる様子だった。

「来客があると、ともかく直接見たがる子だったんですよ。そのくせ人見知りも激しい。ですが一度相手をすると、今度は懐く懐く。変わった女童だなと思ったら、乳母子が慌てて飛び出してきて、手を引っ張って行きましたがね」

 野依の苦労は昔からのものか、と思わず梛はため息をついた。

「しかしそれくらいではめげない。乳母子の目をくぐり抜けて、私のところへもよく地方の話を聞きにきたものです。もっとも初めは『聞きに』来たはずなのに、いつの間にか彼女自身の愚痴に変わっていましたがね」

「愚痴?」

 子供のくせに、と梛は驚く。

 初めて出会ったあの時、もう彼女は少女ではなかった。子供っぽくはあったが。あの時の彼女は愚痴など漏らしているようには見えなかった。

 ……いや、……確か――?

 記憶の中を引っかき回す。

「思い当たるふしがありますか?」

「無くも…… 無いです。もしかして…… お父上のことですか?」

 ええ、と彼は大きくうなづき、扇を閉じた。

 あの乳母子だという野依は言った。

 ――お父君がいつも、弟君とお比べになって、『この姫が男であったらさぞ』と嘆かれる程ですの――

 香自身は文に書き記してきた。

 ――ただいつも『お前が男だったらなあ』と言わなければ最高なのてすけどね。

 ――私はそれを言われるのが大嫌いなのです。本当に嫌いなのです。

 ――そんなこと私に言われても困ります。困るんですよ。

 ――だったら初めから漢文とか教えなければ良かったのに、と思います。

 ――母が居たら、絶対私をそういう風には育てなかったと思うのですよ。

 あの時感じたのは。

「私が最初に彼女の愚痴を聞いたのは、まだ七つかそこらのことでした」

「そんな小さな頃から?」

 彼はうなづいた。

「彼女はその時、私のことをどこの誰とも知りませんでした。だけど話を聞いてくれる人だと感じた途端、一気に話し出したのですよ。必死でした。必死に見えました。……悲しい子だな、と思いました」

 それは確かに梛も思う。

「姫君としては何ですがね」

 彼は口の端を上げた。

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