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第13話 翌年の状況

 梛が中宮の元へ戻ったのは、翌年になってからだった。

 その間に、更に様々なことが立て続けに中関白家の人々に起こった。

 中宮の兄である伊周は、母・高階貴子の病気を聞くと、流された播磨からそっと戻ってきた。だがすぐに露顕し、更に遠くへと移された。それを知ったせいか、貴子はその事件からまもなく亡くなった。

 中宮は御産のために里内裏に移る必要があったのだが、状況が状況のため、進んで彼女を引き受ける者は殆ど無かった。

 最終的には平惟仲の屋敷へと引き移ったが、そこは今まで彼女が住んできた場所に比べるとひどく小さく質素なところだった。

 しかしともかく、そこで中宮は出産した。皇女だった。

 やがて初夏、出家して「東三条院」と名乗る様になった詮子皇太后の病気平癒のために大赦が行われた。その結果、伊周と隆家は帰還を認められた。

 日が欠けたり地震があったり、と天変地異は先年までと変わらない。それでも中関白家の状況にはやや柔らかな風が吹いてきた様だった。

 ただ、一度出家したという中宮をそのまま再び宮中の同じ場所に、というのはさすがに難しかった。たとえ一条帝の思いがどれだけ深かろうと。

 結果、清涼殿からほど遠い、中宮職の曹司にそっと入る、という形になり、帝はそこに足繁く通うことになったのだ。

 梛が再び中宮に仕える様になったのはその場所だった。

 しかも今までとはまるで違う環境。

 少し間の空いた職場というのは、どうしてこうも寒々しいのだろう、と梛は戻った瞬間に思った。

 久々の同僚達は口々に言う。

「少納言さん、ずいぶんごゆっくりだったじゃない」

「こちらではずっと大変でしたのよ。でも皆で中宮さまをお守りいたしましたのよ」

「あなたが居たらもう少し楽だったのにねえ」

 梛はそんな嫌味は聞き流した。

 無論、耳が痛くないわけがない。だが聞いても仕方がないことでもある。皆が一番辛かったであろう時期、確かに梛は中宮のもとには居なかったのだから。

 だが自分が居たところで何ができただろう、ただただ、おろおろとし、泣き崩れるしかなかったのではなかろうか。梛はそう思う。

「浮かない顔をしているのね、少納言」

 はっ、と梛は顔を上げた。笑いかけてくる中宮の顔は、以前よりやつれて見える。だがその一方で透明な美しさが増した様にも梛には感じられる。「あなたが沈んでいると、私は悲しいわ。ねえ少納言、私はあなたとは、楽しい話をしたいのよ」

 ああ中宮さま。梛は内心思う。私もそうしたいのです。ですが。

 そんな彼女の心を見透かした様に中宮は続ける。

「どんなところにでも、楽しいこと、美しいものはあるわ、少納言。あるはずなのよ」

「……中宮さま」

「どんなところにでも。どうなろうとも、あなたや私がそうしようと思う限り、見つけようとする思いがある限り」

 静かな声だった。だがそれは、梛の心の中に、深く深く染み入った。

 そう言われても。

 梛は一人になると、ふっとため息をつく。

 美しいこと、楽しいこと。

 それは何と考えるのが難しいことだろう。

 夜はいい。宿直の番ならそれなりに物語の話などして、楽しく過ごそうとできる。そうでない夜なら眠ってしまえばいい。

 忍んでくる者も今はいない。夜の闇に沈むとき、自分は一人だ。眠ってしまえ。

 怖いのは朝だ。何もかも光の中、曝け出してしまう昼だ。

 明るい日射しの中、遠い殿舎の新たな綺羅綺羅しい気配がそれなりに伝わって来る。中宮が居ない間に帝は二人の女御を迎えた。

 実際に目にしたことはない。噂はあてにはならない。控えている女房達が流す噂は主人の都合の良い様でしかない。当然だ。

 逆に、向こうの女房達にどれだけ中宮の素晴らしさを語ったところで、その言葉は宙に浮く。言葉の無力さをこれ程に感じたことはない。

 そんな折、久々に中宮が物語の話題を持ち出した。

 やはり話の中心は完結し、控えている女房達の大半がだいたい読み終えた「うつほ」だった。

 ああでもないこうでもない、と皆で熱く語り合うのはやはり楽しい。

 ただ。

「『うつほ』は…… いえ、『国譲り』は以前より読んでいて辛いです」

 梛は率直にそう言った。中宮は彼女にそうあることを望む。

「あらなぁぜ? 私は楽しく読んだわ。あのお話は」

 中宮は微笑んで問いかける。

「粗雑でございます」

「でも力強いわ。私にあの藤壺くらいの意地が持てたらね」

「いえいえいえいえいえ」

 梛は慌てて手を振る。そんな中宮さまなど見たくない、と彼女は思った。

 「国譲り」はこの物語における「今上」朱雀帝から東宮への譲位の話である。

 話の中、様々な人間関係、遊びはあれど、中心となるのは次の東宮争いだ。

 譲位の時点で、新たな帝には皇子が幾人か生まれている。

 そのうちの三人が求婚譚の中の女主人公「あて宮」――藤壺の方から。

 他には、主人公仲忠の異母妹である梨壷、嵯峨院の小宮と呼ばれる妃方からそれぞれ一人。

 さて、藤壺はこの時点では不利だった。彼女が東宮の寵愛を独占していたからだ。父・朱雀帝が注意しなくてはならない程に。

 彼女は後宮のあちこちでひどく憎まれ、ひどい陰口を叩かれていた。

 彼女自身も、入内する前の日々を恋しがったり、主人公仲忠と女一宮の夫婦仲が良いことを羨んでもいた。

 東宮の母である大后は、自分の実家である藤氏出身の梨壷を推していた。兄弟達を叱咤し、何としても梨壷の皇子を次期東宮に、と息子にも迫った。

 一方小宮の方は、強くは出ないにしろ先帝・嵯峨院が望んでいた。入内以来、小宮もまた不遇な日々を送っていたのだ。

 東宮――新帝はそれぞれの思惑を聞きながらもじっと黙っていた。

 藤壺はやがて出産のために里へ戻った。だが出産してから戻るように要請があっても、がんとして聞かなかった。

 結果として、藤壺の皇子が東宮に立った。一の皇子ということもあったが、何よりもまず、藤壺と約束していたからだという。

 だがそれは実際にはありえない、と梛は思う。

 藤壺は源正頼の娘。つまりは源氏だ。

 現実なら、藤原氏の女御腹の皇子以外、東宮にはなりえない。

 無理な話なのだ。

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