五月に一周忌があった、中納言道綱の母のことを経房は示す。彼女は「かげろうの日記」と呼ばれる手記を書きつづっていた。
日記というだけあって、物語ではなく、実話である。ただ男の書く日記と違うのは、そこに自分の心情を実に生々しく絡めているところだ。
藤原兼家の妻の一人、たいそうな美女だと噂されていた女性。だが正妻ではない。美しく才気もあったが、あくまでたくさん居る妻の一人に過ぎなかった。
この心情の部分が梛達物語好きの間でも評判になったものだった。
「この気持ち判る」
「いやここまで思い詰められない」
「美しい人でもこんなに思われたら怖い」等々。
梛もそういう仲間達とそう感想は変わらない。
「正直、あれは凄いと思いました。……好きかどうかは別として」
「私もそう思います。男には絶対にできない書きぶりだ、と思いましたね。ちょっと最後まで読み通せなかった」
「そうですか?」
「ええ。いや、もし私が似た様な立場…… 例えば高貴な姫と結婚したけれど、彼女の親が別の男に縁づけようと、私のことを遠回しに追い出す様な素振りを見せたとします」
「まあずいぶん、あなたも想像力豊かではないですか」
梛は笑った。経房も口元を緩めた。
「そういう立場にあったとしてもです。私は女に対する恨みごとをああ切々とは書けないでしょう。特に日記とあっては」
「ではどうお書きになります?」
「まず日記というくくりに縛られます。そしてその日その時あったことを書き出します。それだけです」
「男の方にとっては、そういうものですか?」
「そういうものでしかないのです。日記にせよ何にせよ、歌ではない文章で、自分の気持ちを表すということが、我々男は慣れていない、いや、どちらかという禁忌の様なことに感じられるのです。『うつほ』の作者、あれは確かに私も男性だと思います。とても我々がふだん文に使う書きぶりに近い様な気がします。そうだとしたら、正体を隠すのもよく判るのです」
「そうですか?」
「だからあなたも、私にとってはとても凄い存在です。あなたは思ったことをそのまま文に書ける」
「お上手。私は歌が苦手だからですわ」
「歌。そう、歌も一つの形だ。自然、我々は頭の中に囲いを作ってしまう。歯止めをかけてしまう。ところがあなたにはそれが無い。そこがうらやましくも、ややねたましいところですよ」
「誉めたところで何も出ませんよ」
ころころ、と梛は笑う。
「いえいえ、その越前守の娘…… そうそう、具平親王の所では『
それは以前の「形代の姫君」を推敲したものだった。だが作者の意識は大分変わった様である。香は文でこう書き添えていた。
「この物語に登場する男君は『光君』のつもりです」
「光君」と言えばその昔、皆で形作った「理想の男君」である。
何を今更、と言う気分がした。一体あれから何年経っていると思うのだ、と。
経房は前提を知らない。そこで梛は軽く説明をした。
「そんな試みがあったのですか」
「女には女の付き合いというものがありますから」
「少納言の君はそういうのは好きではないと思っていましたが」
「女にも色々居ますのよ。『うつほ』の女君のように単純ではありませんわ」
「まあ、あれは所詮、男の目から見た女ですからね。さて、女の方から見た理想の女君と言うのは一体どのような方なのだろうか、私の方も聞いてみたいものでしたよ」
「あて宮の様なものではないのですか?」
「我々男が皆、作者と同じ目を持っている訳ではないでしょう」
梛は首をひねる。
「あなたはどうでしたか? 例えば仲忠や涼が猥談をしていたら」
「それは……」
文中ではさほど記憶がない。「……な話をした」とぼかした部分はあったが。
一方、仲忠の父である兼雅はあの琴の君、美しい北の方の前でも平気で汚い言葉を使っているところがある。正直、そういうところは梛も好きではない。
「あまり嬉しくはないですね」
「でしょう」
経房はしたり顔で笑った。
「私達も、女性の前ではしたくはないですね。礼儀として。しかし気を許したひとの前では何でも話したいと思ったりしますよ。あなたの『あにうえ』も実際そうではなかったですか?」
元夫の橘則光のことだ、と梛は気付く。
梛と彼は宮中で再会して以後は「きょうだい」の様な仲と見られていた。そのことでよくからかわれもしたものだ。
「誰のことでしょうね」
「おやおや、そこでそういうことを言いますか。ではまあ、とりあえず物語の方をお聞かせくださいな」
*
「ある春の日、北山に男君が出かける。軽い病気にかかってしまったので、その養生のために。
男君は高貴な身分であるし、実際世の中でできないことは無いような方ではあるが、それでも心に重い悩みを抱えている。
深い悩みの原因はどうやら道ならぬ恋をしていることらしい。ただ、その相手が誰であるのか、なぜ叶わないのか、そのことについては触れられていない。
お付きは気の知れた乳母子をはじめとする、ほんの少し。
気分のよくなったところで、彼は乳母子を連れて散策をする。
するとそこで美しい少女を見つける。
少女は彼の想い人によく似ている。
彼はできれば少女を想い人の代わりに傍に置きたい、と願う。
だが本当に小さな少女でなので、申し込んでも保護者である少女の祖母君からも相手にされない。
ちなみに少女の父親は皇族であるが、本妻が怖くて少女を引き取れない。母親は本妻の嫌がらせを苦に身体を壊し、亡くなったのだという。
なお、男君自身もどうやら母を亡くしているらしい。彼はそのあたりで少女に共感を覚えている。
やがてその祖母君が亡くなり、少女は実の父に引き取られなくてはならない。
そんなところに少女を送ってはいけない、とばかりに男君は無理矢理引き取る。
少女は男君の庇護のもと、美しく賢く育ち、時が経つにつれて妻となる。
二人はいつまでも幸せに暮らした、ということである。」
*
「うーん」
経房は最後まで目を通すとうなった。
「綺麗な話では、ありますね」
「では、ですか」
「どう言ったらいいでしょうね、難しい…… そう、どこか首を傾げたくなると言ったらいいでしょうか……」
やはり、と梛は思う。以前見たものよりはずっと出来が良い。だがやはり何処か首を捻りたくなる。それが以前より余計にもやもやと、形にならなくて。
上手くなった分、何かはぐらかされてしまった様な気がして。
「少納言の君、これをお借りしてもいいでしょうか」
不意に隆房は言う。
「は」
梛は目を瞬かせる。
「私やあなたが疑問に感じた『何か』の正体が、他のひとにはもしかしたら判るかもしれないでしょう? だとしたら、私とあなたで額をつき合わせていたところで何の発展も無いと想いませんか?」
それはそうだが。
「だとしたら、少々これをお貸しください。筆写して返します。そうすれば、そちらはそちらのお仲間に流すことができますね」
経房はにやりと笑った。
「何か、企んでいますか?」
「いいえ別に」
そう彼は答えたが、どう見ても何か企んでいる顔だった。