やがて香から「下向するから」という文が来た。
立て文の中身は今回は多かった。
物語が入っていたのだ。
「確かに越前は近いと言えば近いですし、大国です。お父様にとっては大大大大栄転です。『詩を作って送ったら如何ですか』と私も助言した甲斐があります。
ただ嬉しかったのは最初だけです。行くのはお父様だけだと思っていたからですが。悲しいことに、私も行かねばならないのです。とは言え、他の方を一緒に行かせるよりはましです。それに向こうでお父様が誰か女の方を寄らせるのを見張ることもできますし」
香は自分の異母弟妹のことは手紙に書かない。同様にその母親のこともだ。
「どうして男の方というのは、同時に二人も三人もの女君を持つことができるのでしょう。私には判りません。いえ、判りたくないです。お父様は真面目な方ですが、それでもお母様の他の方が居たことに対しては、私は嫌な気持ちを拭うことができません」
*
「ご結婚はなさらないのですか? 香さまは」
文を読む梛に、松野がふと訊ねた。
「結婚?」
「そうですよ。だってあの方だってもうかなりのお歳になったのではないですか? 梛さまより三つ下とお聞きしましたけど」
松野は香の文の内容を梛から聞くのを案外楽しみにしている。梛にしても結局はそうなのだが、香は遠くから面白がるにはいい対象なのだろう。
しかし結婚か、と梛はあらためて思う。確かに遅い。しないつもりか、と思われても仕方がない程に。
「あ、そう言えば」
「話があるのですか?」
松野は身を乗り出してくる。思い出したことがあったのだ。
「この間、経房どのがおっしゃってたのだけど。松野は山城守の藤原宣孝どのを知っていて?」
「知るも知らないも、有名な方ではないですか!」
梛はそこで苦笑する。目を丸くした松野はまさか? と問い返す。
「そのまさかよ。宣孝どのが、どうも香さんに歌とか送っている様なのね」
「あの洒落者と噂される方が、またどうして香さまを」
「洒落者だから、じゃないの? 松野も知ってるでしょ、御獄詣の時のこと」
「ええ」
*
山城守・藤原宣孝のことを梛が知ったのはまだ中宮のもとへ出仕する前のことだった。
当時彼は筑前守だった。その役につく直前に彼は息子と一緒に御獄詣に行っている。
この参詣には、たいがい粗末な身なりをしていくものと決まっている。
ところが彼は違った。
「つまらない。別に御獄の蔵王権現が粗末な身なりで来い、なんておっしゃっている訳でもないのに。清浄であるならどんなものでも良いではないか」
そう言って彼が身に着けたものは、紫のとっても濃い指貫に白い狩衣、山吹色の派手な袿。息子には青色の狩衣、紅の袿、乱れ模様を摺り出している水干袴をつけさせて。
質素な装束の参詣者達は唖然としていて見送ったそうな。
梛もその話を聞いた時には思わず開けた口が塞がらなかった。
周囲も皆「罰があたる」と噂していた。しかしその参詣から二、三ヶ月後に亡くなった筑前守の後がまにまんまと座ることとなってしまった。
*
「まあおそらく、度胸がいい男と見たのではないですか」
経房は彼のことはそう評していた。
「実際、口にしたことはやる男です」
そう言われれば梛も「なるほど」と思わなくもない。
「それがまた、どうして香さんに」
そう問い掛けたら。
「為時の娘は、非常に頭のいい方だと聞いております。で、そういう女性は今まで彼の付き合った中には居なかった」
なるほど、とその時梛は合点がいった。
「珍しがられているのかしら。そういうの、香さんすごく嫌うと思うわ」
経房は苦笑しながら扇を揺らした。
「そう言われたら身もふたもないのですがね」
「そもそもあのひとは、香さんは男の方がたくさんの女君を持つのすら、嫌な様ですよ」
「ふふん。それは女だから言えることですよ」
この話は平行線になりそうだ、と梛は判断し、入っていた物語の話に切り替えた。新作が一緒に入っていたと。
「ほう、例の。そう言えばあなた方、長いおつきあいのようですね」
「でもまるで、男女の仲のようですのよ。文を交わすばかり。上つ方の姫ではないのですから、もっと頻繁に直接会って話すほうが内容も深まると思ってはいたのですが」
「ほほう」
経房はにやりと笑う。
「思っていた、ということは、そうではないのですね」
梛はうなづいた。
「直接顔を合わせるお付き合いをするには、いささかあのひとは荷がかちすぎます」
「そうですか?」
「ええ。どう思われます? 経房どの、物語をつくるひとというのは皆ああいうものなのでしょうか?」
「さあ?」
彼は首を傾げる。
「私は歌すらもろくに読めない人間ですから、長歌より長い文章を、それも一つの流れのことを延々と書き続ける人のことはやはり上手く判りませんね」
「『うつほ』の方も? 男の方ではないかと私達、踏んでいるのですけど」
彼はやや困った様な顔をした。
「どうですかね。まああの、行事のあるごとに細かく記す気持ちはよく判りますねえ」
「そうですか?」
「私には先頃亡くなられた方の日記のような書きぶりのほうが判りません。あなたからしたら如何ですか?」