「うつほ」の連作。この頃、続きが出るのを皆楽しみにしていた物語である。
元々は数年前に出回った「俊陰」「藤原の君」「忠こそ」という三つの物語だった。それがある時、三つの話を元にして、「俊陰」を新たに書き直した様な物語が現れだした。元の話と作者が同じとも違うとも、様々な憶測が流れている。
その後、次々と続きが書かれ、出回る様になり―― 現在では主人公の幼い頃の住処から「うつほ」の連作の物語と呼ばれている。
山の木の大きな穴―― うつほに住んでいた少年が全体の主人公。その祖父にあたるのが「俊陰」。梛と同じ「清原」俊陰という人物。
遣唐使として海を渡るが、船が遭難し、様々な苦難の末、琴の秘曲を天人から伝授され、神仏によって名器を得、国へ戻る。
ちなみにこの「琴」は「
帰国後の俊陰は妻を得、娘をもうけたが、任官を拒否した彼の生活は苦しく、彼と妻は娘を残して亡くなる。そして琴の腕と名器が娘に受け継がれ。
娘は、時の太政大臣の愛息子、藤原兼雅と正体を知らぬまま契り、子ができる。それが主人公である仲忠。やがて二人は見つかって兼雅に引き取られる。
この主人公の一族と、「藤原の君」と呼ばれる源正頼の一族を中心に都や紀伊国で様々なことが起こるのだ。
最初は正頼の九女「あて宮」を巡っての求婚話。最終的に彼女は東宮のもとに入内するのだが、それまでの顛末が凄まじい。
色好みの者、権力者に繋がろうする者が殆どだったが、それ以外にも様々な人が居る。
喜劇的なのは「三奇人」と呼ばれる結構な歳の人々。無頼の者を周囲に置いて、結局は偽あて宮を掴まされてしまう宮。帝の血を引きながらも、異様な吝嗇家。財が全てという価値観を持ち、自分は物持ちだ、だからそんな自分が受け入れられない筈がない、と決めつけている宰相。
悲劇的なのは、それまで仲睦まじかった妻子を忘れて夢中になる者。一人はそのまま出家し、もう一人は物語の後半になるまで妻子のもとへ戻ることができなかった。
しかし一番の悲劇はやはり「死」だろう。同母兄ながらあて宮に恋してしまった者も居たのだ。
その後、御所で、都のあちこちで、はたまた紀伊国の吹上浜あたりまで行ったりと、話は広がり、登場人物も多く、見所は沢山ある。
そしてまた、出てくる装束やら食事の描写は、しつこいまでに細かい。
この細かさから、作者は絶対男性だ、と主張する女房も居る。
そうかもしれない、と梛も思う。この細かさは、男文字の日記に通じるものがある。
それに何よりも、登場人物。男性は沢山出てきて、様々に個性的なのだが、女性ときたら通り一遍の描写しかない。
のちにそれが高じて、皆で物語の中の「男の品定め」を始めてしまったこともある。
中宮は主人公の仲忠の好敵手の立場にある先帝の落胤である「
そこで皆で仲忠がいい、涼がいい、とまっぷたつに分かれて喧々囂々と議論になってしまった。
さすがに梛もそこでは真剣にこう主張してしまった。
「やっぱり仲忠です! 生まれや育ちよりこの話ではやっぱり琴じゃないですか! 涼は天変地異を起こした程度ですけど、仲忠はそのおかげで帝の女一宮をいただいているんですから!」
熱い議論はやはり楽しいものである。そういう時、梛は本領発揮した様な気分になるのだ。
ただ、物語に関する熱い話をする都度、梛は中宮に問われる。
「あなたは書かないの?」
そしてやはり、その都度梛は答える。
「私は駄目でございます」
「何故? あれだけ面白い文章が書けるのに…… でも確かに、あなた向きじゃあないわね。あなたは身の回りの物事を短い言葉で鋭く書くひとよ」
「そのくらいしか書くことが……」
「謙遜は度を越してはいけないわ」
そしてこの中宮こそ、時々鋭い言葉で梛を突くのだ。
「少納言、そんなあなたの言葉が何故反古で書かれたもので出回っているのでしょうねえ」
そうしてその「反古」をひらひらと。あ、と声を立ててももう遅い。
「それはその…… 元々、浮かんだことを、すぐに書き付けておくものですから」
紙は貴重なのだ。普段、梛は亡き父の反古紙に書き留めておく。少し余裕があると、薄墨紙に。その中から特に気に入ったものは、陸奥紙に書き写す場合もある。
だが大半は、そんないい紙が手に入らないうちに、書き付けを周囲の皆に取られて行ってしまう。中宮がひらひらとやったのは、そのうちの一つだろう。
「いい紙に書こうとは思わないの?」
ある時中宮は梛に問いかけた。
「書きたいです」
「あなたは綺麗な紙が好きでしょう?」
「大好きでございます。美しい色の薄様も好きですが、白い紙はことに。
「そう」
中宮はその時はにっこり笑っただけだった。その笑みの意味は、後日判明する。
*
ある日のことだ。
中宮の兄・伊周から紙が献上された。料紙のままのものもあれば、草子に綴じたものもあった。中宮は梛を呼び、こう問いかけた。
「ねえ少納言、これには何を書いたものかしらね」
一つをひらりと開く。素晴らしいものだった。真っ白な陸奥紙。きっちりと作られた美しい草子。
「帝は『史記』という書物を一部お書きあそばされたのだけど。私は一体何を書いたものかしらね。『古今』でも書き写そうかしら」
帝が唐の国の書物なら自分は我が国の。
口振りから、中宮さまは梛に、適切な答えよりも、面白さを求めていると梛は感じた。
「だったら私に下さいませ。枕本に致したいものでございます」
したり、と中宮は口元をほころばせた。
「そうね。じゃあ少納言、あなたにあげましょう」
は? と梛は思わず問い返していた。
「今までも歌枕の種を書いていたのでしょう? 今度は枕にしたり、枕元に置くなり、歌以外の『枕』のためにお使いなさいな」
梛はしばらく感動で身体が動かなかった。
紙! この紙が自分のものに!
今まで反古に書く時は、前に書かれたものの墨のせいで何がどう書かれているのか判らないことさえあった。それがこの紙。書かれた全てが自分の思い!
「……本当に……」
「私が少納言に嘘をついたことはあって?」
嘘は無い。からかわれたことは度々だが。
梛は涙ぐむ程の勢いでありがたく頂戴した。