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第7話 中宮定子との出会い

「ずっと昔から会いたいと思っていたのよ」

 中宮は梛に会う早々、弾んだ声でそう言った。正暦四年の寒い日のことである。

「お兄様達からあなたの武勇伝はあれこれ聞いていたし、女房達の中には、あなたの…… 何というのかしら。歌枕の種?」

「は、はあ……」

 敬服した梛は、まるで頭を上げられない。自分がつれづれに書いている散文のことまで知っているなど!

 現在の中宮―― 中関白家の定子のもとに梛が出仕し始めたのは、冬のことだった。彼女は新しい世界に瞬く間に魅了されていた。何よりまず、新しい主たる定子に。

 美しいひとだ、とまず思った。今までに会ったどの姫君よりも。肌の色、髪の艶、涼しい目元。一挙一動の優美さ。

 ちょうど梛の十歳年下だと聞いている。だがその気品といい、威厳といい、とてもその年には感じられない。

「嫌ね、少しくらい顔をお見せなさいな」

 そう言って中宮はくすくすと笑う。梛がそっと顔を上げると口元を扇で隠す。目に映るその仕草一つとっても、頭に血が上ってしまいそうだ。

 最も中宮の間近に居る女房が問いかける。

「この者の候名は何と致しましょう…… そなた、何処へも出仕したことは無いのでしたね」

「家では梛、と……」

「あら、それは素敵ね。でも……」

「いえいえ中宮さま、それではあんまりでございます。確か清原の元輔どのの最後のお役目は肥後守でございましたが……」

 女房の一人が言う。

「でも『肥後』は少し耳触りが良くないわ。母方で何か無くて?」

 中宮さまは梛に直接問いかける。梛は慌てて、母の縁者を思い出す。

「え、ええと、確か母の遠縁になにがしの少納言という者が」

「少納言。その方がいいわね。それにしましょう」

 ね、と側に仕えていた女房に有無を言わせぬ笑顔を見せる。

「清原の少納言。清少納言と呼びましょう」

 さて、出仕したはいいが、しばらくの間はさすがの梛も大変だった。

 覚悟はしていた。

 だが想像していたことと現実は違う。

 与えられた部屋に戻ると、気が付かないうちにぽろぽろと泣いている。

 それが果たして恥ずかしいからなのか、中宮の問いかけに上手い受け答えを返せない悔しさなのか、それとも周囲の古参女房達の視線が痛かったからなのか、そのあたりは判らない。

 ともかく梛はこの時期、それまで知らなかった感情にとりつかれていた。父の死以来滅多に流すことの無かった涙を、毎日の様に流さずにはいられなかった。

 だが涙は困る。

 厚く塗った白粉が濡れた分だけはげてしまう。

 涙の跡だけ地肌が見えた顔を鏡で確認した時には仰天した。あまりに仰天しすぎて、涙も止まってしまった。

 鏡の中を見つめながら、梛は思った。

 これはまずい。物笑いの種になる。

 元々周囲の女房は、梛のことを決して良くは思っていない。

 どれだけ父に歌人としての名声があろうが、所詮梛は、低い身分のくせにいきなり取り立てられた新参者なのだ。

 宮仕えに憧れはあった。ましてやそれが最高の場所なら。だが憧れと現実はなかなかに落差が大きかった。

 出仕しても、始終側に居るという訳ではない。そもそも梛は一種の「賑やかし」なのだ。

 少年帝が「おや、何をやっているんだろう、面白い」としばしば足を運ぶような雰囲気作りが、梛に与えられた役目なのだ。

  その役目を持つ者が、昼間陰鬱な顔をしていたり、涙で顔がまだらになるようなことがあっては。

 ――それは嫌だ。

 梛の生来の負けん気に火がついた。

 火が点けば早い。

 ――自分の利点は?

 梛は鏡の中の自分に向かって問いかける。

 ――そもそも自分はどうしてこの宮仕えをする様になった?

 美しいから。違う。滅相もない!

 若いから。気が利くから。それも違う。そんな女房は中宮の周囲には元々高い身分の者でも余る程居る。

 梛は一つ一つ要らないものは捨てて行く。

 だとしたら。自分でなくてはならないことと言えば。

 きっかけ。あの「歌枕の種」。

 気の利いた言葉、お喋り。楽しい話。

 ただただ中宮さまのための楽しいことを。

 ――それだけだ。それ以上のことは考えなくともいい。いや、できるだけ考えないことにしよう。

 梛は鏡の中の自分に言い聞かせた。

 さて、物事が単純になれば、気も軽くなる。

 やがてそれにつられる様に梛の表情や声も明るくなっていった。

 そしてまた、例の「歌枕の種」が、女房達の間で「次を」と待たれる様になった。

 実際は「歌枕の種」だけではない。その言葉一つ一つから派生した考え事をさらさらと書き流したものだ。

 歌か物語しか知らない女房達にはその書きぶりが物珍しかったのだろう。物語のように回りくどくなく、自分達の生活に近いことを鋭く切り取っていく、そんな文章。彼女達はそれを自分達の生活になぞらえて「そうそう!」と楽しんでいたのかもしれない。

 たとえば、同僚の一人はある日梛に言った。

「この間のあなたの、説教師について書いたの、これこれ! って思ったわ」

 「説教師は顔が良くなくっちゃ」と書いたくだりのことだった。

 僧の説教は何かと後世のために聞いておいたことがいいのは確かだけど、講師がぶさいくだったら、どれだけ有り難いお話でもつまらなく感じてしまう―― そんな内容。

 これはまずいかな、と梛も多少は思った。不埒ではないか、とも。

 だが。

「私もそう思ってたけど、実際大っぴらに口に出してくれる人ってあまり居ないじゃない。こうやって文章にしてくれると、嬉しくなっちゃうのよね。同じこと考えてる人がいる、って」

 同意してくれる者が居る。

「今までもやもやしてたことを言い当ててくれたって感じなのよね。少納言さんの文章って」

 なるほど、と梛は思った。「ものの見方」を誉められる。これは実に新鮮かつ、嬉しいものだと感じた。

 文章の一つが、中宮の御前女房全員を巻き込んで議論になったこともある。

「面白い物語は……」 

 この時梛が書いたのは単純だった。昔からあるもの、今あるものを軽く並べただけ。

 やがてそれを読んだ中宮は皆にこう問いかけた。

「皆は今、何が面白いと思う?」

 そこからは喧々囂々だった。そして誰か一人がこう言った。

「出来はともかく、続きが気になるのは『うつほ』の連作です」

 確かに、と梛もそれは思った。

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