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第6話 存在しない同腹の姉という存在

 はた、と彼は一瞬目を丸くした。そしてすぐに訝しげな表情になる。

「そのことを何処で?」

「香さんが」

「姉が」

 惟規はふっと視線を床に向ける。

「香さんは、最近お二人にとっての姉君が亡くなったと手紙に書かれてましたが……」

「いいえ」

 彼は首を横に振った。

「私達に、同腹の姉など居りません。異腹のきょうだいは居るには居ますが、皆下です。弟と妹が。皆母方で、私達とは別々に暮らしています。そうではないことを、姉が?」

 うなづく梛に、彼はため息をつく。しばらくは懐から出した扇を閉じたり開いたりする。

「きっと姉の中には、居るのでしょう」

「香さんの中には?」

「はい」

 彼はやや苛立たしげに答えた。

「姉は、姉を欲しがってましたから…… 兄が居ればいいと思ってましたから」

 そうですか、と何度か彼は口の中で繰り返した。ぱちん。扇を閉じる音が大きくなる。

 ぱちん。

「不躾なことを伺いますが」

 顔を上げ、低い声で惟規は問い掛ける。

「姉とこの先、文だけでも構わないのですが、お付き合いを続けて下さるのでしょうか」

「ええ、そのつもりです」

 元々、直接会うことはあまりできないと思っていた。文ならば―― 香からの内容は楽しい。

「でしたら、姉には気を付けた方がいいですよ」

「気を付ける?」

「夢とうつつの境が時々おぼろになっている様な気がするのです。以前そちらがご紹介下さった方々も、姉のそういう点に辟易したのです」

 だろうな、と梛は思った。

「優しい方は、それでも結構長く付き合って下さったのですよ。時々姉が押し掛けても」

「え、押し掛けたりしたのですか」

 さすがにそれには梛も驚いた。

「はい。そちらは今までそんなことは無かったのですか?」

 いいえ、と梛は即答した。香は怖ろしく長い文はよこすが、決して当人が直接やってくるということがなかった。

「私の方が、出仕とか、あれこれとややこしいことになっていたからではないかと思うのですけど」

「そんなことはありません!」

 彼はそれまでに無かった大きな声で否定すると、首を横に振った。

「姉はそんなこと気にしません。特に地方へ行かれる方のところなぞ、わざわざその支度でごたついているところへ出かけて行っては『行かないでくれ』と泣きついたようです」

「……それは初耳です」

 松野に視線を向けるが、同様だった。

司召つかさめしで一度都に戻ってきた友達が、またすぐに出かけることになった途端、支度で忙しいだろうに押し掛けて行って『せっかく再会できたのに、まるで早く沈む七月と競う様にあなたは遠くに行ってしまうのね』とか皮肉な歌を読みかけたり……」

 ああ、あの歌だ、と予想がついた。歌そのものはは巷に出回り、出来の良い恋歌だ、と言われていた。

「あれは恋歌ではなく、お友達に対する皮肉だったのでしたか」

「最近では、その、貴方におっしゃった様な、姉が亡くなったということで、同じ様に妹を亡くしたという方と文を交わしている様ですが……」

「その方はそれが嘘だということを知らないのかしら?」

「女房達が隠している様です。少なくとも姉は信じて書いているし、ご存知でしょうが、姉は作り事が非常に上手いのです」

「それは判ります」

 梛は大きくうなづいた。

「正直、ですからこれから中宮さまに出仕するあなたに、ご迷惑なことが増えてしまうのではないかと、心配になっていたのです」

 確かに。彼が言うのが本当だとすると、香というひとは実に困った性格だ。

 だが、松野に聞くまで梛は彼女の文を鵜呑みにしていた。鵜呑みにできる程、彼女の文には現実感があったのだ。

「惟規どの」

 梛はどう言ったものか、と少し迷ったが、切り出した。

「きっとこの先も、私は香さんと文のやりとりは続けて行くと思います」

「それは…… しかし」

「それに香さんはこの先も、私のところへ直接は押し掛けたりはしないと思います」

 彼と松野は同時に首をひねり、顔を見合わせた。

「それは…… 何故ですか? 梛さま」

 問い返したのは松野の方だった。

「それはね、松野、惟規どの。私と会うと、彼女の作り出した世界が壊れてしまうからです」

 二人は言われた意味が判りかねる、とばかりに顔を見合わせた。

「ところで香さんは中務宮のところでのおつとめは如何ですか? 今でも続いていますか?」

「それは」

 惟規は言葉を濁す。

「続いていないのですね?」

「……はい。今は家で、物語三昧です。中務卿宮からは引き留められたのですが」

「彼女が帰ってきてしまったのですね」

「ええ。でも、悪くはなかった様です。実際、物語を読んだり、話をしたり、漢文のさわりを教えたり…… そういうことをしていたことは確かですし……」

「惟規どの」

 はい、と彼は背筋を正した。

「あのひとには、好きなだけ、物語を書かせてやっては如何ですか?」

「は?」

「あなたは香さんが物語を書くことに関してはどう思われますか?」

「……判りません。私は仮名文字の物語には詳しくないし」

「つくりごとは紙に書き付けたほうが、あのひとにとってはいいと思います」

「紙に、ですか」

「少なくとも宮仕えで直に口にされるよりは、あなたも周りの方々も気がもめないのではないでしょうか?」

 それはそうかも、と彼はうなづいた。

 梛がこの香の弟、藤原惟規に直に会ったのは、それが最初で最後だった。

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