「変ねえ」
梛はしげしげと手の中の文を見る。
「何が変ですか? いつもの香さまのからでしょう?」
松野は答える。彼女が「いつもの」という様に、それはもうこの一年ほどの間に見慣れたものとなっていた。
ともかく頻繁に来るのだ。しかも梛の事情を考えることもなく。
「ええいつものよ」
離婚したとか子供が夫の方に引き取られてしまったとか、それによって梛が気落ちしているとか。
その様なことをまるで考えることなく。文つかいをする童や女房の方が「本当に大丈夫ですか?」と訊ねてくる位だ。
「けど何で私にばかりなのかしら」
梛は首を傾げる。内容は面白いのでつれづれを慰めるには楽しいのだが。
「ねえ松野、私確か、香さんにできるだけご近所の方を紹介したはずだけど」
ええまあ、と松野はやや口ごもる。
「梛様がご紹介した当初は、紹介した方々ともお文を交わし合ったり、直接お訪ねしたりなさっていた模様ですが……」
「駄目になったの?」
松野は力無くうなづいた。
「えー……、四条京極の方の人から聞いたお話ですけど」
梛は身を乗り出した。
「何でも、あの方、ひどく口うるさかったのだと」
「口うるさい?」
「姫君にあるまじき早さで」
「早口?」
「ええと、それもあったのでしょうが…… 何でも、人の話をどんどん取ってしまうのだそうで」
「人の話を? どういう意味かしら」
「皆様幾人かで集まったことがあったそうです。『俊陰』の作者が新しい物語を出した、ということで」
「ああ…… 確か、『藤原の君』。求婚話なのよね。出てくる人が多すぎて、この間の『俊陰』の方が私、良かったな」
「ともかくその時にも、人の言葉尻を捕らえては、何かと自分の話に持っていったとのことで」
ああ、と梛は天井を仰いだ。
「あの姫君よりお年かさの方ばかりでしたから、お顔に出しは致しませんでしたけど、後で皆、文でほんのり怒っていたそうです」
それはそうだ、と梛はため息をついた。
「香さまは、お話の種などは面白いものを持ってらしたそうですが、集まりのお知らせなど回されることも自然、無くなっていき……」
「私のところへこういうものが来る、と」
卓の上には、彼女からの文が箱に入りきらず、山と積まれていた。
山。そう本当に山なのだ。一枚を手に取り、梛は松野の目の前でひらひらと振る。
「
あらまあ、と松野は口元に手を当てる。紙の端から端まで細かい字でみっしりと書き連ねている。結んだ時に裏の墨の色もくっきりと判る程に。
「そうなのよね…… はじめの頃はそうでもなかったのよ。それなりに歌を交えつつ、全体の配置や、結びつけてくる花などにも気をつかったものだったのよね」
だが次第に紙が厚くなり、一枚が二枚になり、……現在では、一回に送ってくるのが数枚ということが多い。結ぶどころではなく立て文ばかりになった。
「それに文字がいかついのよね。香さん自身自分の字は好きではない様なんだけど、たくさんのことを一度に詰め込もうとするとこうなってしまうらしいのよ」
そしてそんな事情を最後に書いては「どうして私はこうなのでしょう」と嘆く。
最近ではそのあたりは決まり文句だろうとばかりに梛の目は流すことを覚えてしまった。
「向こうの野依さんも『困ったものです』と。梛さまから何か一言強く、と」
「でも書いて来る内容は面白いのよね」
「梛さま!」
松野は眉をつり上げる。
だが仕方がない。たとえ相手が多少奇妙な行動を取ろうが、文の内容が面白いから許せてしまうのだ。
「そりゃ梛さまはそれでいいですよ。でもそれにいちいち付き合う野依さん達のことも考えて下さいよ」
「だって松野、お前もこの間、楽しがってたじゃない。ほら、あの『
それはこういう話だった。
***
「あるところに、母君を早くに亡くした姫君がいました。
決して低い身分ではないのですが、頼りになるひとが少なく、心許ない暮らしをしていました。
そんなところに、ある一人の男君が現れます。
彼はかなわぬ恋をしていました。
ふと垣間見た姫君の姿が思い人にそっくりだったことから、彼は姫君を妻として引き取ります。
美しく聡明な姫君は男君一人に愛され、幸せになりました。」
***
「幸せになりました、か……」
梛は脇息にもたれ、ため息をついた。
「どうか致しました? それが何かおかしいですか?」
「おかしいというか……」
「だって姫君はそれで、たった一人の妻として愛された訳でしょう? 生活の心配も無くなった訳だし……」
松野は首を傾げる。
「それはそうなんだけど…… わざわざ『形代』にする意味が判らないのよ」
「あ」
合点がいった表情で松野はうなづいた。
「少なくとも私は嫌ね」
「梛さまはそうでしょう」
「判る?」
「判りますよ」
そうね、と梛達は顔を見合わせて笑った。夫と別れた理由もそこにあった。別の妻を持ったということが梛には許せなかったのだ。
疑問は残った。
だがその後の梛達にはそれについて深く考える余裕はなかった。
出仕の誘いがあったのである。時の中宮、藤原定子から。