「止めて!」
がたん。
都を横切る大路の真ん中、網代車の歩みが突然止まった。
「ど、どうしたのですか」
車を牽く牛についていた男は中に居る主人に慌てて問いかける。するとひょい、と女が一人顔を出した。
「今さっき思い出したの。梛さまは今日そっちは方塞がりよ」
はあ、と男は車を道の端に寄せる。
「それでは松野さん、どちらへ」
「ちょっと待って」
中で何やら語り合う気配がする。男は耳を澄ませる。
「全く気付かなかったなんて、私も馬鹿だわ…… もうすぐ先だって言うのに」
「仕方ないでしょう、気付いてしまったんですから。そのまま行って後でお気づきになって嘆くのは梛さまですからね。それより早く方角を」
この先に行くのはまずい。方角を変えて進み一晩過ごし、そこから目的地に移動しなくてはならない。
「……面倒ね」
「別に私だって何かあるとは思ってませんが、何かあっても嫌でしょう」
「でも面倒よ」
「はいはい。ともかくこの近くのお知り合いに方違えの打診をしなくてはなりませんよ。どなたか良いお宅は無かったですか?」
容赦の無い松野の言葉に梛は考える。
「そうそうこの南に、お父様の昔からの歌仲間の家があったはずだわ。そこにお願いしましょう」
梛は早速筆を取り出し、さらさらと依頼の文を書く。古歌も軽く嫌味ではない程度に言葉の端に引用して。
「何かここではご自分の歌をお詠みになった方が」
「うるさいわね、私はあんまりそういうのは得意じゃないの」
それに、と彼女は付け加える。
「お父様のお友達に下手な歌を詠むと、お父様の名に疵がつくでしょう」
「そりゃ『梨壺の五人』の一人の姫君としては正しいお考えだと思うのですが、それでも普段なさっていることを考えれば今更疵の一つや二つ」
「お前ねえ」
「はいできましたね。……ああ、あの方ですか。それではちょっと行ってきましょう」
松野はひょいと文を受け取ると、車から出て足取りも軽く大路を横切って行った。
全く、と梛は乳母子の相変わらずの口の悪さに呆れつつも笑った。
*
「今日は何かとある日ですなあ」
父の友人である、方違え先の主人は淡々とそう言った。
「いえ、漢詩の方の友人の娘さんがやはり今日方忌みに気付いたということで。それで申し訳ないですが、うちも決して広くないことですし、お隣ということで……」
間借りした母屋は几帳であちこち仕切られていた。その向こうからは若い女の声がする。妙に早口で騒がしい。
「冷えましたでしょう。どうぞ」
松野の手から渡されたのは白湯だった。器から、じんわりと温みが伝わって来る。
使われていなかった部屋らしい。火桶の点きは悪く、なかなか冷えた身体を温めてはくれない。ぶる、と梛は身体を奮わせる。
「梅は咲いてもまだまだ寒いわね」
「梛さまは本当、梅がお好きですね」
くす、と松野は笑う。
「そりゃあ、木の花なら、梅。特に紅梅が一番好きよ。色が多少濃くとも薄くともね」
「桜は如何ですか?」
「桜なら八重咲きよ。で、いっしょにこんもりと葉が茂ってるの」
「ああ、確かにあれは可愛いですね」
「可愛いし、何かうきうきするじゃない」
「色も宜しゅうございますね」
「そう、真ん中がほんのりと柔らかな紅になって……」
そうそう、と梛は呑み終えた器を下ろす。
「物語はちゃんと全部持って来たでしょうね。忘れたなんて言ったら、先様に悪いわ。それに借りると約束したものも借りられない」
「はい勿論。ええと……」
「『住吉』『こまの』『正三位』。最近噂の『俊陰』は向こうの方もお持ちということだからいいとして……」
梛は記憶をたどる。
「私が向こうにお貸ししなくちゃならないのは『月まつ女』『交野の少将』『梅壺の少将』『人め』ってところかしらね」
「さあ、私はそう詳しくはございませんから」
そう言って松野は笑う。
「ああ、そこがお前の玉に瑕だわ。もう少し物語の話に付き合ってさえくれれば、女房としては完璧だというのに!」
「そうはおっしゃいますけど、完璧な人など、面白くないでしょう。梛さまとご一緒に読めるならともかく、私は私で忙しいのですから」
「まあそうだけど。じゃあ今度新しく手に入れたら、お前一緒に読むのよ」
はいはい、と松野は苦笑する。
「新しい、と言えば、例の『光君』のは……」
がたん。
そう梛が言いかけた時、隣で何かが動く音がした。慌てて振り向くと、几帳がこちら側にふわりと膨らんでいる。
「誰ですか!?」
松野は即座に誰何する。
「あ……」
若い女の声がした。向こう側とを隔てる几帳に手がかかる。ずらされる。
「あ……あの! 『光君』についてご存知なんですか!?」
姫さま、と慌てて止める声。梛は松野と顔を見合わせる。どうやら声の主は、似た様な趣味を持った者の様だ。