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第16話その2 あて宮出産と周囲の反応、そして母大宮の不安

「馬鹿みたいだと思います」

 今宮は「女房」として、涼に文で書く。

「今でもあて宮さまのところに、ちょくちょく御返事をもらえるものと信じて文が来るのです。あり得ないことです」

 確かに、と受け取った涼も「女房」の見解を尤もだと思う。

「それに比べて、両中将の態度はご立派です」

 くす、と笑って涼はそんな文に返事を書いた。

「そういうあなたはいつまで私と逢えないままなのですか」

 最近、彼は時々「女房」に対する文に、その様な言葉をはさむ。

「あて宮ではなく、私はあなたに逢ってみたいのですけどね」

 受け取った今宮の方は当初「やっぱりこんな人!」と憤慨していた。自分を軽く見ているのだ、と思って一度は文をびりびりに引き裂いたこともある。

 だが後でその文を拾い集めて、周囲の女房達や一宮に内緒で継ぎ合わせているあたり、心中は複雑だった。

 だから彼女は返す。

「そもそも私が誰の女房かもあなた様は知らないでしょう」

 すると何かしらの季節の花につけて「知らない訳でもないですよ」とばかりに微妙に答えがある。

 ああどうしましょどうしましょ、と今宮の心中は、実忠とは違う方向と明るさで千々に乱れるのであった。

   *

 そのうちに、あて宮が出産のための里帰りをすることになった。

 早朝に退出するあて宮に東宮は大進を使いにして、歌を詠んだ。

「―――夜の明けるのも待ち遠しいという風に急いで行ってしまったんだね―――

 夕方になると秋の白露の様な自分は、あなたという宿っていた花が行ってしまったので、心のやり場もなくて消えてしまいそうだ」

 あて宮はそれに返す。

「―――様々な美しい花の様なお妃達の中にあるあなた様が、どうして萩の下葉の様な私を思い出しましょうか」

 使いの者には、紫苑色の綾の細長と袴を一具被けた。

 退出しても、東宮からはたびたび文が来た。

「―――私達の間を隔てているのは衣だけなのだなとぜと、どうして衣を恨んでいたのだろうか。月も日も衣と同じように二人の間を邪魔していたのに」

 あて宮が返す。

「―――二人の間を隔てる年月や衣がいくら沢山ありましょうとも、心だけは絶えず通い合いたいものです」

 またある時は、この様なやり取りがあった。

「―――私を置いて、里に長逗留するあなたの呑気さに比べ、私は毎日あなたを待ちこがれて袖も滴るほど泣いているのです」

「―――待っていらっしゃることを何とかあてにできる事情さえあればいいではございませんか。ちゃんと根はそのままで分かれているだけなのですから」

 そして、十月一日に男宮が誕生した。

 東宮からの祝いや見舞いの使いが忙しく往復する中、母后や帝からも喜びの声が上がった。

「東宮はもう二十歳になって、妃も何人も入内してから久しいのに、今までお産の一つも無かったのか考え合わせると、二人は本当に仲が良いのだな」

 そのせいだろうか、三日目の祝いには、后宮から御産養おんうぶやしないとして、銀の透箱すきばこが二十、御衣が十襲、むつきが十重ね、沈の衝重二十に銀の箸、匙、坏などが贈られた。

 贈り物の種類は何処も同じで変わりは無いのだが、何と言っても后宮からのものなので、皆品が立派で堂々としていた。

 碁手には銭百貫を、大きな紫檀の櫃に入れて、中宮亮を使いにし、大宮のもとに文を入れて届けさせた。

「御子出産という、久しく無かったことを先ずあなたの息女からお始めになったことを、非常に満足にも嬉しく思います。

 羨ましそうに見える他の妃達に、そちらのあやかり物をと思いますので、食米を少しいただけないでしょうか。

 差し上げた品はこの程ずいぶんとご活躍だった夜居の僧達の眠気覚ましにと思いまして」

 まあ、と大宮はくすりと笑った。

 大宮はすぐに使いの亮に女の装束を、祝いの品を持って来た男達には絹布などを与えた。

 そして后宮の要望には、黄金の壺の大きなものを用意し、その中に米を入れ、文を添えて返した。

「おそれ多いことでございます。

 皇子があて宮のお腹から御誕生になったのを大変光栄に存じていましたところ、そちらの御満足とのこと、誠に誠に嬉しゅうございます。

 米のほうは夏だというのに多く食べてしまい、残り少なくて恐縮ですが」

 受け取った后宮は、米を瑠璃の小さな壺に移し替え、東宮の妃達に「あやかり物ですよ」と分け与えた。

 女四宮から始め、妃達は皆このすき米を食べた。そして皆それぞれ使いの者には被物を与え、后宮にお礼の文を差し上げた。

 ただ一人、昭陽殿をのぞいては。

 気位ばかりが高い彼女は、使いの者がこれこれこういう訳で、と壺を渡すが早いが、中身をその場に投げ散らかしたという。

 何を、と焦る使いの前で彼女は叫んだ。

「誰があの女の食べ残しなどを欲しいと言った! あの女は大勢の懸想人の子を生んで、それを東宮の御子だと言ってるだけではないか! それを后宮さままでが本気になさってこの有様、は、何ということよ!」

 部屋を揺るがす程の大声で繰り出される悪口雑言は、周囲の者がどうしていいか判らなかった程であったという。

「こんなものなど貰わずとも、私は立派な御子を生んでみせる!」

 言い放ち、半ば錯乱した様な主人の見えないところで、すみませんねえ、と女房達はすき米をかき集め、元の壺に入れると、持って帰る様に使いの者にはそっと頼んだ。

「……という訳なのです」

 恐縮しながら使いの者は后宮に昭陽殿での詳細を打ち明けて、壺を返した。

 すると后宮は「ほほほほ」と笑い、やがて苦笑するとこう言った。

「哀れなひとだこと。すっかりひがみっぽくなってしまったふのだね」

 そう言っている彼女にしたところで、何年か後、自分がその様な口を聞くことになろうとは思ってもいなかった。

 五日いかの夜には、院の后の宮からやはり立派な贈り物があった。

 他にもあちこちから御祝いが届けられたがどれも素晴らしいものであり、また、碁手も沢山あった。

 上達部や親王達も大勢産養に参上し、誰も彼も御衣や御むつきをそれぞれ持ち寄った。

 七日の夜には、東宮から更に美しく立派なものが届けられた。それには権の亮に託された文も付けられていた。

 また右大将兼雅からは、紫檀の衝重が二十、沈の飯笥、坏、御衣や御むつきなど、兄の大臣に劣らぬ素晴らしいものばかりだった。

 仲忠は銀の立派な火入れに七草の粥を入れて、蘇芳の長櫃に据えて奉った。

 涼は他の人とはまた違った趣向で産養の祝いをした。

 彼らだけではなく、帝や東宮に仕える殿上人や、上達部、皇子達も皆そっくり集まった。

 碁手として二百五十貫の銭が大きな櫃に入れられ、客人達の前に出された。

 客人は合わせて二百余人である。

 そこで上達部には銭五貫、四位五位の殿上人には三貫、六位の蔵人やその下の者達には一貫づつ分けられることとなった。  

 銀の笥一つに一貫づつ入れられ、皆その位に応じた数だけの碁笥を与えられた。

 一方、産屋のほうでは大宮が皇子のへその緒を切った。

 乳を含ませる役には、兄である左大弁の北の方がなった。

 産湯を使わせたのは内蔵助のおもと、御誕生の御子を祝う文を読んだのは式部大輔であった。

 乳人になったのは三人で、一人は皇統出身、二人は太宰大弐の娘だった。

 ここでは禄として、左大弁の北の方は箱に夏冬の装束と上等の絹や綾を畳み入れて貰った。式部大輔は女装束を一具と上等の馬と牛を二頭づつ贈られた。

 騒ぎの中、あて宮は中の大殿に設けられた産屋で白い衾を着て臥して休んでいた。

 側には白い綾の袿、白い綾の裳、唐衣をつけた乳人が控えている。この人は二十歳くらいで非常に美しい人だった。

「御気分は如何ですか」

 時々彼女はあて宮に問いかける。あて宮は黙ってうなづくだけだった。

 その様子を見て大宮はいささか心配になる。

 里帰りしてからというもの、以前から何を考えているか判らないこの娘が、いっそう見ただけでは判らなくなってきたのである。

「宮中は何かと大変だったのではないの?」

 問いかけても「そうでも無いです」とつれない言葉が戻ってくるばかりだった。

 「大変でない」訳がない、と大宮は孫王の君や兵衛の君からの文からで知っている。

 目に見える嫌がらせは無い。

 だが他の妃の女房達が、あちこちで何かとあて宮に関する悪口を振りまいているということである。特にそれは昭陽殿からのものが多いらしいと。

 仕方のないことだとは思う。

 ただその内容を克明に知らせてくる腹心の女房達の口調が、普段の落ち着きをいささか無くしている様に思えて仕方がないのだ。

 なのに。

「本当に大丈夫です、お母様」

 そうあて宮は言う。表情から本心は伺い知れない。

 この子は苦しいことというものはあるのだろうか、と大宮は時々思う。

 悪阻が酷かった頃も、それ以降にも続く、微妙な身体や気持ちの不調にも、何一つ愚痴を漏らすでもなく、ただ淡々と日々を送っていた娘は。

 それまで親しげに付き合っていた妹達から身分上か、何処か疎々しくなった様に見えても。

 そして何と言っても、お産という非常に辛く苦しいその場においても。

 あて宮は何一つ「苦しい」とはこぼしていなかった。

 痛みに顔をしかめることも、歯を食いしばることも、意識を失うことがあっても、決して「辛い」と言わなかった。

 幸い生まれた皇子はとても元気だった。そして美しかった。今まで沢山の赤子の生まれる場に居合わせた大宮も、こんな美しい子を見るのは初めてだった。

 しかも男皇子である。

 嬉しい。大宮はとても嬉しかった。

 誰よりも最初に男皇子を―――

 姉の女御は確かに三の皇子を生んだが、少々遅かった。寵愛が深くとも、東宮の母になることはできなかった。しかしこれなら……

 そんな思いで浮かれかかっていた大宮だったが、娘の表情を見て一気にそれが冷え込んでいくのに気付いた。

 この子は嬉しくないのだろうか。

 疲れているからだけではなく、さほどの興味がある様に、大宮には感じられなかったのだ。

 それからというもの、あて宮は返事もろくにすることはなく、ひたすらうとうとと休んでいるばかりだった。

 周囲の騒ぎが大きいだけ、その静けさは大宮にとって不安を呼び起こした。

 疲れていたのかもしれない。

 どうしようもなく、疲れていたのかもしれない。

 大宮は思った。

 そして思ったところでどうしようも無い場所に娘をやってしまっていた自分を今更の様に実感した。

 やがて東宮から熱心な文が何度も届き、あて宮は十二月には宮中に戻った。

 翌年の二三月頃、再び懐妊の知らせが正頼邸にもたらされた。

 それを聞いた大宮は、このまま東宮の寵愛が変わらないことを、と切に願った。

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