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第15話その2 求婚者達の末路―― 滋野真菅の狂乱、仲純の頓死、仲頼を訪ねる仲間達 

「あなた」

 しばらく考えに沈んでいた正頼の元に、騒ぎを聞いた大宮がやってきた。

「おお、そなたの懸念した通りになったぞ」

「そんな言い方をなさらないで下さい。けどこちらでも確かに深刻なことになりつつありますわ。私は今はただ仲純の心配をしていたいのに……」

「何だ」

「兵衛の元に、実忠どのから御文が来たそうです」

「仲頼同様、出家したのか」

「いいえそこまでは。坂本というところにある小野という家で未だ大願立てて万の神仏に祈り続けているそうです。こう詠んできたそうです。

『―――ご存知のように、長年死ぬ思いを続けて、今もやはり燃える程悩んでいます―――いつになった心の安まる時が来るでしょう』」

「馬鹿な!」

 正頼はそう吐き捨てる様につぶやいた。

「全くどいつもこいつも、何故それだけのことで、そこまでするのだ!」

 大宮はそんな夫の言葉を聞きながら、複雑な気持ちになっていた。

 何故。それは彼女も聞きたいことだった。

 これまでの彼女の娘達にも沢山懸想人が現れた。特に最初の娘、仁寿殿女御の時には、入内させるだろうというこちらの目論見を皆知っていたにも関わらず、熱心だった。

 そう、あの現在の右大将兼雅にしても。

 だがその時の懸想人達は、今度の仲忠や涼の様に潔かった。兼雅にしても引き際は良かった。

 なのに今度は何故―――

「他の懸想人達はどうだ? そなたの知る限りで、とんでもないことをしでかしそうな者は居るか?」

「弟の兵部卿宮と、仁寿殿の三宮の方にはそれとなくあたってみました。弟はあっさりしたものでしたし、弾正宮の方は、何を考えているか判らないですが、格別変わったところは無いということです」

「兼雅にしてもそうだな。元々さほど熱心という訳ではなかった様だし。平中納言にしても、一種の彼自身の箔付けの様なものだしな。しかしあて宮がそのことを聞いたら、さぞ辛いだろうな」

 どうだろう、と大宮は内心思った。あの娘はそこまで考えないのではないだろうか、と。

「できるだけあて宮の耳には入れない様にしたいものだ。特に高基たかもとの様な異様な行動は」

「そうですね」

 彼女もさすがに三春高基の行動には顔をしかめる他無かった。

 そこにばたばた、と簀子を走る音がした。

「何ですか騒がしい」

「忠純! 和政はどうだったのだ」

「それどころではありません、大変なことに」

「和政? というと滋野の宰相が何か」

「直訴すると……」

 ああ、と大宮はその場で気を失ってしまった。 

「何でも、あて宮のためにと、家も新築し、調度も用意し、良い日を選んで迎えとろうとしていたと」

「何を勝手なことを! こちらは良いとも何とも返事はしていなかったはずだ」

「ですが滋野の宰相は、本気だったそうです」

 それからの忠純の話に、正頼は半ば呆れ、半ばどうしようもないやるせない気持ちに襲われた。

 治部卿じぶきょう滋野真菅は、あて宮入内を耳にしてはいたらしいが、本気にしていなかったらしい。

 自分で勝手に決めた「良き日」に子供や家人を引き連れてあて宮を迎えに出た。

 すると、左大臣家の者に「もう何日も前に東宮さまの元に御入内されました」と言われた。

 彼はしばらく「嘘だ謀っているのだ」と騒いだ。

 和政は「迎えに出る」と言われた時に、父の正気を疑ったという。

 いくら父の思いこみが激しかろうが、東宮入内の折りのあの仰々しい行列のことを知らないはずはない、と彼は思っていた。

 それでも父が自分を連れて出たので、これはまずい、と和政は思った。

 だからせめて、父が何かをしでかす前に、取り押さえるべく、彼は正頼の屋敷へと一緒に行ったのだと。

 果たして想像通りのことは起こった。彼は父を連れて慌てて家へと戻った。

 戻るが早いが、滋野真菅は半狂乱になった。

 用意させたものを手辺り次第に投げつける、几帳を倒す、御簾を引きちぎる…… 手のつけられない状態になった。

 そしてこう言い放ったとのことだった。

「天下に名だたる国王や大臣といえども、色々な人々が結婚の申し込みをしておいて、相手のために家や寝室を立ててその日を待っている間に、勝手に入内させてしまうという不法なことが、どうしい許されるというのか!」

 無論、和政は父の根本的な間違いに気付いている。

「自分は無論、帝や東宮、大臣に比べれば賎しい身分ではあるが、自分の妻になるはずの娘を他の者に取られてそのままにしておけようか、我慢ならん!」

 いや違う違う、と和政はひたすら内心父に向かって言いたい気持ちだったという。

「幸い今は、政治も宜しく行われている世の中だ。そうだ、朝廷へ愁訴状を送ろう!」

 すると真菅は即座に文机に向かい、例の鬼の目をつぶした様な字を更に荒々しくし、長々と訴え状を書きつづった。

「よし、行くぞ」

 書き終わるすぐに、文挟みに差し入れてすっくと立ち上がった。

 これはまずい、とさすがに和政も思った。慌てて彼は父の足に取りすがった。

「父上どうか、それだけはお止め下さい!」

「何をする、離せ、離せ、和政そなたは子のくせにわしを止めようというのか」

「子であるからこそ父上をお止めしなくてはならないと思うのです! 宮仕えをして高い官位を望むのも、全ては父上のためです。父上お一人のことを皆大事に思うからです」

「お願いです父上」

 弟の蔵人も逆の足にすがりついた。

「直訴など、その様なことをすれば、父上だけでなく、我ら一家皆流罪です。家族一党をその様な目にあわせようというのですか!」

「ええい離せ!」

 しゃっと音がして、太刀が抜かれた。ひっ、と蔵人はそれだけで手を外してしまった。

 だが和政はそれでも父の足を離さなかった。

「どけ和政。さもないとお前の首を今すぐ取ってやる。ただてさえお前は大臣やら何やらの側に立って、普段からわしをないがしろにしている奴だ!」

「……父上」

 さすがにそこまで言われた時、和政の手からも力が抜けてしまったという。 

 そのまま真菅は抜いた太刀をひらめかし、止めようとする家人達を次々に追い払い、内裏へと向かったという。

 無論、子供達は皆追いすがった。

 娘達も父の手にしがみついた。だが振り払われ、五体を地に投げてしまったらしい。その姿の痛々しかったこと。

 和政の号令で息子六人と娘四人総出で止めようとしたのだ。

 なのに何処からこの老人にそんな力が湧いて出たのか、皆振り払われてしまわったという。

「それだけでも大変なことなのですが」

 忠純ははあ、とため息をついた。

「和政が本当に可哀想になってきました」

「どういうことだ」

「その時の治部卿の格好です」

「格好」

「何でも、冠をうしろ前にかぶり、表袴もやっぱりうしろ前、しかもその片方に両足を入れて」

「よく走れたものだな」

「しかも夏に着る袍を、冬に着る下襲と重ねて着て、武官でも無いのに矢を入れる靱を背負い」

「そもそもどうして夏冬両方出してあったんだ……」

「その手に持っていたのはしゃくの代わりに飯を盛る匙」

「だからどうしてそんなものが手元に」

「足元はと言えば、片方に草鞋、もう片方には沓。しかもその草鞋ときたら、前とかかとが逆で」

「どうしてそれで走ることができたんだ? というか、徒歩だったのか?」

「徒歩だったんです」

 何だそれは、と正頼は思った。滑稽だ。滑稽すぎる。

「で、紫宸殿に出御されていた帝のもとに走りより、白い髪髭の中からだらだらと涙やら何やら判らないものを流しながら、例の訴え状を差し出したということです」

「……」

 もはや何処をどう突っ込んでいいのやら、正頼には判らなかった。

「それでどうなったというのだ」

「はい、まあ、当然のごとく、捕まえられました。何せ書いてあることが滅茶苦茶でしたし。一族流罪です」

「何処に」

「治部卿は伊豆の権守に、和政は長門の権の介に。蔵人で民部丞をかけていた息子や、他にも大勢いた子供達も皆何処かしらに流されることになりました」

「和政が本当に哀れだな」

「全くです」

 それから程なくして、流される和政を忠純は見送った。

「残念です。ずっとそちらにお仕えしていたいと思っていたのに……」

 その時の和政はもう見ていられない程に泣き嘆いていたという。

「愚かな親を持ってしまった彼は本当に可哀想です。いい家令だったのに」

 そう、実際この左大将家において、和政は優秀とはまではいかなくとも、実直ないい家令だったのだ。

 忠純も彼を気に入っていた。頼りにもしていた。

 それだけにこのたびのことは、残念で仕方が無かった。

「わしはせいぜい、そうならない様にしなくてはな」

 正頼はしみじみと言った。

「しかしもう何も起こらないだろうな」

「そう思いたいですね」

 そう言っていた矢先のことだった。

   *

「あなた、仲純が、仲純が……」

 真菅の件が終わるが程なく、大宮が直接正頼のもとに飛び込んできた。

「どうしたというのだ、その様に、ばたばたと、らしくない……」

 まさか。

 正頼は彼女らしからぬその態度に、不吉な予感を抱いた。

「あなた、すぐに御祈祷を、御祈祷を! ありったれけの御祈祷を! 仲純が、仲純が……」

「落ち着きなさい、落ち着くんだ。仲純がどうしたと?」

 大宮は黙って泣きじゃくり、首を横に振るばかりだった。言えない。認めたくない。どうしても!

 仲純はあて宮の入内の日、意識を失い、死を疑われた。

 だがあて宮からの文のおかげで、一命を取り留めていた。

 正頼はそれを真言院の阿闍梨の験のおかげだと思いこんで、彼に感謝していた。

 一方の大宮は、それは違う、と思っていた。

 阿闍梨は確かに僧として尊いのかもしれない。だがその一方であて宮に懸想していた様な生臭坊主ではないか、と考えていた。

 しかし確かに仲純は今にも死にそうだったのに、何とか白湯が喉を通るくらいになっていた。

 それからも、柑子の絞ったのだの、ほんの薄い汁くらいは飲み込む様になっていた。

 何か理由があるのではないか、と大宮は思った。

 彼女は無闇に仏の奇跡を信じる女ではなかった。そうでなくては今宮の様な娘がどうして生まれて来よう。

 何か自分達が席を立った時になかったか、とそれとなく周囲に聞いてみた。

「そういえば、あの時兵衛さんが一瞬だけ……」

 兵衛の君が。

 大宮の中で何かがひらめいた。 

 仲純は自分の身体が今もまだこの世にあるのが不思議で仕方がなかった。

 あの日。

 あて宮の入内した日、自分はそのまま死んでしまうのだ、と思った。魂だけになって、あて宮と共に宮中へ飛んで行くのだ、と思ったはずだった。

 しかしそれはできなかった。

 腕に誰かが温かい指で、恋しいひとの名前を書きつづった。あて宮からの文がそこにあると知らせてくれた。

 仲純はそれを見たかった。

 誰かが自分の手に握らせたことはぼんやりと気付いていた。

 このまま力を失ってしまっては、その文が見られない。

 意識を取り戻せたのはそのせいだろう、と彼は思った。

「―――たとえ今はお別れしても、涙の川が絶えず流れるように、先々の交わりもあるのだと知って下さい。私と兄上の縁は切れることは無いのです―――

 どうしてこうも一途なのですか。馬鹿げたことだとは思うのですが、その一方で兄上が悲しくも愛おしく思えます」

 何度も何度もその文を彼は繰り返し読んだ。

 少なくとも嫌われてはいなかったのだ。彼は思った。

 だがどうして、それならそうと言ってくれなかったのだ、と寝床でうとうととする彼は常に思う。

 少しでも目が覚めている間はひたすら思う。

 あて宮は自分を嫌いではなかった。

 むしろ愛おしくも思っていた。

 では何故あの様に冷たく。

 それは自分が同腹のきょうだいだからか。

 そうでないというなら気持ちに応えてくれていたのか。

 もし自分が無理矢理にでもあの白い手を取っていたら。

 身体を開いていたならば。

 あて宮はそれもまた宿世とばかりに受け止めてくれていたのだろうか。

 仲純は考える。考えずにはいられない。止めどない考えが、彼の意志とは無関係に流れてゆく。

 もう一度―――

 筆を持たせてくれ、と彼は周囲の女房に頼む。それだけで息が弾む。重い。筆はこんなに重いものだったろうか。

「―――あんなに申し上げてもとうとう行っておしまいになった。こんなに甲斐の無いものなら、いっそ申し上げないでいるべきでした―――

 申し上げずにはいられませんでした。全くどうしてこんなにも。

 私のことがあなたにとって嫌な思い出になるだろうことが、心残りです。

 でもまあ、あなたのためなら、私がどうなろうと悔いはしません。

 ただもう一度、いや、一度でも会うことができなかったことが、心残りです」

 乱れた文字でそれだけ書くと、藤壺のあて宮の元へと届けさせた。

「仲純さまからです」

「嫌だわ」

「それではあまりにも兄上さまが可哀想です」

 そう言ったのは兵衛の君だった。

「兵衛」

「はい」

「そなたは知っているのですね」

「……はい」

「だったら判るでしょう。困るのだ、と」

「しかしもう、死にかけていらっしゃるのですよ」

「私は」

 あて宮は目を伏せた。

「仲純の兄上は、大勢の兄上達の中でも一番頼りにしてきた方です。嫌いである訳がありません。しかしどうして、そういう意味で私が見られなくてはならないのですか」

 兵衛の君は驚いた。小さかったが、それは絞り出す様な声だった。

 彼女があて宮に仕えて以来、初めて聞く声だった。

「兵衛はそうやって私を責めるけど、もしそなた、自分と同じ母から生まれたきょうだいから『そんな目』で見られているとしたら?」

 そんな目。そんな―――

 ああ。

 宮中に出てみて、今までよりずっと男の目が多いことに兵衛の君は驚いていた。

 自分を隙あらばくるりと剥いてしまおうとする気配も時々感じられた。

 ある程度彼女にとっては慣れた視線だった。だから少し心を強くすれば大丈夫だった。

 だがあて宮はそうではない。姫君というものは、そういう眼差しで見られる様には育てられていないのだ。

 男は家族でない限り近付けない。

 だから仲純は近付けた。

 しかしそれ故に、あて宮には本来向けられるべきではないその「視線」が。

「文に書いたことは嘘ではないわ。兄上を可哀想だと思うわ。愛おしくもあるわ。しかしそれはあくまで妹としてよ。それ以上の気持ちなど、私の中には一欠片も無い。それの何処がいけないというの」

 そう言うと、あて宮はさらさらと返しの文を書いた。

「―――同じ野に置いた露は結局どちらも留まらずに消えるのですが、先ず最初に消えたと聞くだけでも辛いものです―――

 お聞きいたしました、可哀想だとは思いますが……」

 既に東宮との結婚生活に入っている彼女である。

 兄の視線が「そういうもの」であったことを、現在はより生々しく感じているのかもしれない、と兵衛の君は思った。

 文は早速仲純の元に送られた。

 送られた文に、横たわりながら目を通す。

 ふわり、と彼は笑った。側に控える女房は、少しだけ安心した。

 だが。

「……仲純さま?」

 指が。

 いきなりそれを小さく小さく押し包んだ。

 女房は一体何を、と思った。

 が、次の瞬間、彼女は自分の血の気が引のを感じた。

 仲純は丸めた文を口に入れ、そのまま白湯と共に飲み下したのだ。

「いけない!」

 女房は叫んだ。

 大きく仲純はせき込んだ。

 何処に入ったのだろう、彼の咳は止まらなかった。

 身体をよじり、涙を流しながら咳こみ、ひぃひぃと喉から息を漏らし―――

 やがて力つきた様に、動かなくなった。

 女房達は、あまりのことに、思わず大きく悲鳴を上げた。

 少しは状況が理解できている者が、大宮を呼びに走った。

「仲純! ああああああああ!」

 大宮の声が局中に響きわたった。

「……お亡くなりになられたそうでございます」

 兵衛の君は涙声であて宮に告げた。側に居た女房達が皆その場で声を上げて泣き出した。

 あて宮は呆然とその場で目を見開いたままだった。

「退出?」

 夜の大殿で東宮はあて宮の願いを繰り返す。

 彼女はうなづき、はい、と答えた。

「仲純のことか」

「はい」

「ならぬ」

「何故でございますか」

「そなたにはきょうだいは大勢居ろう」

「それは」

「私からしてみれば、そなたが兄一人のためにわざわざ退出しなくてはならないという気持ちの方が判らない」

「私には…… 仲の良い兄でした」

「それも私には判らないな」

 東宮はそう言うと、あて宮をぐい、と引き寄せる。華奢な身体が軽くきしむ。

「きょうだいのために悲しむなどという気持ちは、私には判らぬ!」

「東宮さま」

「喪服も着るには及ばぬ。里にいずれ少しだけ帰った折りに着ればいい」

「それでは服喪の決まりにも」

「私が言うのだ」

 東宮は彼女の声を遮る。

「誰が何の文句があろう?」

 そのまま抱きしめる力を強くする。

 あて宮はただもう、その嵐の様な力に、思いに流されていくばかりだった。

   *

「さて」

「行くとしようか」

「ああ」

 仲純の死の悲しみがやや薄れた頃、仲忠と涼、それに行正は彼らのもう一人の友人を訪ねて水尾みずのおへと向かった。

「少将どのは山に籠もってからというもの、五穀や塩を絶って、木の実や松の葉と言ったものを食べていらっしゃる様です」

 様子を見に行かせた涼の家人はその様に告げてきた。

「修行も実にあの方らしく真面目に取り組んでいるということですが、それでも消えない思いにずっと嘆き悲しんでいるということです」

「私も先日参りました。今となっては、あの方の楽を聞くことができないと思うと実に残念です」

 部下であった松方もそう言う。

 様々な殿上人や公達が、彼を訪ねて水尾へ出掛けているらしい。

 そこで花摘みのついでという体を装い、彼ら三人は仲頼を訪ねることにしたのだった。

「やあよく来てくれた!」

 その姿。

「似合わないよ」

 仲忠はつぶやいた。

「仲頼さんに、そんな、僧形なんて」

「何だよ仲忠、そこで泣くか?」

 そう言いながら、仲頼はぽんぽん、と仲忠の肩を叩いた。

「だいたいそんなごつい僧なんて…… 居ないよ」

「結構痩せたと思うんだけどな」

 そう言いながら笑う顔は、以前より何処か儚げだった。

「大体水くさいよ、仲頼さん。どうして僕等に何も言わずに出家してしまったんだよ。そんな見慣れない格好を見たら、泣きたくなるのも当然じゃないか」

 そう言って仲忠はこう詠んだ。

「―――あなたをお見上げすると、涙が川の様に流れるのです。私だって明日の知れない浮身なのですから」

 仲頼はそれに返す。

「―――世の中の苦しみを深く体験した心が出家の導きとなったのです」

 すると涼がそれに対してこう詠んだ。

「―――蝶や鳥の様に花と遊んだあなたが、まさか深山の苔のもとに住む様になるとは思いもかけませんでした―――

 実際、どうしていきなり出家など。無論尊いことには違いないのですが、北の方や子供達のことはどうするのです?」

「何と言うのかなあ」

 仲頼はふらりと空を見上げる。

「あて宮が入内してしまった時、何か…… 何だろう、あて宮が、ということでなく、何かが終わった…… そう思ってしまったんだ」

「何かが」

 行正は眉を寄せ、繰り返す。

「けどそれは、兄弟の契りを結んだ私にも隠すことですか?」

「正直、俺にも本当のところは判らないんだ」

 そう言ってふい、と空を眺める。

「ただ全てが嫌になったのかもしれない。先日左大将どのがいらした。ずいぶんと俺のことを心配して下さった」

「そうだ、君は期待されていたんだ! なのに!」

 行正は食い下がる。

「君は甘えているんですよ! 食えるかどうかで悩んだことが無いから、その様なことであっさりと世を捨てられる!」

 いつにない強い口調に、涼は驚いた。一方仲忠はその言葉にうなづいている。

「それは正直、僕も同感です」

「かもしれない」

 ふっ、と仲頼は笑った。

「だとしたら、余計にだ。そんな甘い人間が宮中でやって行くことはできないよ。いつか俺はこの甘さ故に潰されただろうさ」

「仲頼さん……」

「俺は家のおかげで少将の地位にはつけていたけど、それ以上になる気配はなかった。今となっては仲忠、お前の方がずっと上だ」

「それは」

「いやいや、琴の腕のためだけじゃあない。俺には出世欲というものが無かった。色々ここで考えて思った。宮内卿の舅どのにも悪いことをしたと思っている。こちらに来てから、あの家の苦しさに気付いた。俺はただただ遊び暮らして」

「だったらこれからそうしなければいい」

「俺はお前の様な強さは持てない、行正」

「そうですよ、私はそういう意味では強いのです。強くなくてはならなかった。私は唐で生き残って何としても帰らなくてはならなかった。そのためには何でもやった。……そういう私だからこそ、あなたの様な幸せに生きてきた公達にひどく憧れたというのに……」

「行正……」

「帰ります」

 行正はくるりと背中を向けた。

「また来ておくれよ」

「気が向いたら」

 では、と仲忠と涼もそこから立ち去った。

 仕方が無い、と仲頼は思う。

 自分はぬるま湯の中で生まれて育って、結局それだから、最初の強烈な恋の終わりに堪えられなかったのだと。

 その後、左大将家の君達が訪れた時、彼は文をあて宮にと託した。

「―――血の涙で染まった紅の袖を形見として、出家の後は涙など出ないものと思いましたのに、今は同じ涙が黒い僧衣をいよいよ黒く染めています―――

 着替える着物も無いのが悲しゅうございます」

 そしてそれにはあて宮からの返しがあった。

「―――今はと悟って深い山に行いすます人の墨染めの袖は、俗な涙には濡れないものだと聞いています」

 それを見て仲頼は涙を流して喜んだ。

「ずっとずっと長い間、文を送っても一文字の返しもなかったというのに。これこそ仏の尊い功徳だ」

 そう言って彼は、あて宮からの文を宝物としたという。

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