「……まあ、あれからずっと」
大宮は驚く。
あて宮と共に宮中に上った女房達からの文の中身。
まず
「あて宮さま――― 現在は藤壺さまと申し上げなくてはなりません――― はどんなことでも上手になさいます。音楽といい、和歌といい、碁といい……
ですので、東宮さまも昼間はいい遊び相手になさります。毎日毎日、実に楽しそうなご様子です。
夜は、御入内の日より藤壺さまが東宮さまの御寝所に侍らない日はございません。
今のところは全てが順調に私の目には映ります。ただ」
ただ? 大宮の目が軽く細められる。
「大宮さまもご存知だとは思われますが、現在、東宮さまのもとには幾人かの方がお仕えです。
少々不安な言葉を耳にします。左大臣どのの
そのあたりは彼女はぼかしている。
「どういうことだと思う?」
大宮は自分の古参の女房に問いかける。
「まだ直接には、厳しい言葉や噂が聞こえて来ないということではないでしょうか。奥ゆかしい孫王の君らしいと言えますが」
「そう……」
大宮は続きを見る。
「本当に東宮さまのご寵愛ぶりときたら、まぶしい程です。
が、東宮さまは時々他の方がお泊まりになる夜でも、なかなか御寝所にお引き揚げにならないのです。遅くまで藤壺においでになって音楽などを遊ばします。
……確かにご寵愛まぶしい程なのですが……」
そう、確かに娘が寵愛を受けるのは大宮にとっても嬉しい。だがそれが度を越えると。
大宮はやや不安になる。
気分を変えようと兵衛の君の文を開く。
「先日藤壺さまが東宮さまのもとにいらした翌朝早く、東宮さまはこの様にお詠みになりました。
―――久々にあなたに会えた夜は、春霞が濃くかかってあなたの帰る先の岩戸を塞いでくれればいいのに……―――
不謹慎なことながら、その様に詠まれたら私などその場に倒れてしまいそうです」
まあ、と大宮は微笑む。
彼女はこの乳母子は嫌いではない。
多少軽はずみなところもあるが、人の気持ちを良く汲んでくれる子だ、と思っている。
この文の最後には、仲純の心配もしている旨が書かれていた。
その仲純は。 仲純は入内の日からこのかた、起きあがることもできない。悪くなった訳ではないが、良くなる気配がちらとも見えない。
妹の後見として藤壺に頻繁に出入りしている忠純は、先日この様なことを言っていた。
「この間、私と父上が藤壺に行った時、ちょうど東宮さまがおいでになってね、仲純のことを心配していたよ」
どんなことを、と大宮は息子に問いかけた。
「どうして最近は全く姿を見せないのか、と」
「それでどう父君は答えたの?」
「『仲純はもうずっと病気で臥せったままです。あちこちの神仏に願をかけているのですが、……残念ながら、もはや回復の見込みは無いかと……』と申し訳なさそうに」
申し訳の問題か、と大宮はややむっとする。あて宮入内が叶った今では、彼女の最大の問題は仲純の病気にあったのだ。
いい子なのだ。本当にいい子なのに。
彼女は何が息子をそこまで追い込んだのか、しばらく考えた。
だが考えれば考える程、恐ろしい結論が導き出される。
だから彼女はある時からぴたりと考えるのをやめた。考えてどうにかなることではあるまいと。
「で、東宮さまは首を傾げてこうおっしゃったんだ」
忠純は続けた。
「『可哀想なことだな、朝廷で活躍しそうに見えたのに。言えば実忠も同じ様なことを聞くな。それぞれの家で一番見込みがありそうな者ばかりが、揃いも揃ってこうも身体が弱いというのはどういうことなのだろうね』と」
大宮はその話を苦々しい思いで聞いていた。
実忠は夫にとって実忠は可愛い甥だろうが、彼女にとっては鬱陶しい娘の懸想人に過ぎない。
そしてその男と息子が同じ様だということが、考えない様にしていたこと思い出させる。
はあ、と大宮は大きくため息をつく。
「あて宮は入内するまでが大騒ぎだったけど、してからも騒ぎを起こす様ね」
「それはやはり、あて宮さまが人並み外れて素晴らしい方だったからでしょう」
おそらくはそれが周囲の見方だろう、と大宮も思う。
人並み外れた娘。
大宮はその娘が手元から離れたことを内心ほっとしている。もうあれは「自分の娘」であるより、畏れおおい「東宮の妃」なのだ。
孫王の君が書いてくる様に、そんなに頻繁に夜のお召しがあるならば、懐妊するのもそう遅くではないだろう。
そうすれば更にその地位は高くなる。距離が開く。 開いてほしい、と大宮は思う。
自分はもう、下の娘のことだけにかまけていたいと。
あの様に非の打ち所の無い娘ではなく、何かと煩く注意をしたくなる様な、それでいて可愛い娘達の世話をしたいのだ。
そう思いを巡らせながら彼女は
と。
「大宮さま、こんなことがあっていいのでしょうか。仲頼さまが出家なさるとおっしゃるのです!」
ああ、と大宮は思わず額を押さえた。彼までが。
「先日のことです。仲頼さまが私の元へおいでになりました。
その時から私はひどく恐ろしいことが起こる気がしていました。
仲頼さまは私と顔を合わせても、ずっと黙ったままでした。
やがてその頬に涙が伝いました。
あの方はそれに気付いていらしたのでしょうか。ぬぐうこともなく、しばらくそのまま涙を流したまま、私をじっと見つめていました。
どのくらい経ったでしょうか。あの方はおっしゃいました。
『すまない。ずっとあて宮…… いやもう藤壺さまと呼ぶべきなのだろうな。取り次ぎを頼んでいた君だと思うと、つい色々なことが思い出されてしまって……』
そう言ってまたしばらくお泣きになりました。
普段非常に快活で陽気な方が、と私は胸が締め付けられる思いでした。私はじっと次の言葉を待ちました。
しばらくして、何かを吹っ切った様に涙をぐっと拭うと、今度はしっかりとしたお声でおっしゃいました。
『今まで有り難いことに左大将殿が俺を可愛がって下さって、俺もそれに甘えていたんだけど、判ったんだ。結局は分不相応だったんだって』
そんなことは無い、と私は言いたかったのですが、下手なことを言ってしまったら、あの方を更に傷つけてしまう様で、結局は何も言えませんでした。
『俺の様な者は恋などするものではないな。風流びとの様にあんまり苦しくて苦しくて、死んでしまうかと思ったけど、結局はこんな風にぴんぴんしている。そんな奴なんだな、俺は』
そしてこうお詠みになりました。
『―――今が最後だと思って声を高く張り上げると、紅の涙が後から後から流れて止まらないものですね―――』
そうしてまたしばらくお泣きになりました。
そこで私も勇気を出してこう申し上げました。
『今まで本当に望みをお持ちになって姫さまに言い寄っておいでだとお見受け致しておりましたので、御入内なさってしまった今では、どんなに御失望でしょう。……けどあなた様だけではございません。皆様お気の毒なご様子だと承っております。
―――あなたばかりが濃い紅の涙の色に染まった訳ではありません。誰もが止めどのない血の涙を流しているのです―――
……失恋など、世の常のことだとお思いなさいませ』
大宮さま、一体私にそれ以外どんな言いようがあったでしょう!
やがて仲頼さまはすっとお立ちになると、何処か晴れ晴れとしたお顔になり、私にこうおっしゃいました。
『ありがとう。最後に君に会えて良かった』
お去りになった後、私までしばらく泣かずにはいられませんでした。
それから少しして、水尾という所から御文が私宛に来ました。心当たりの無い場所だったので、何だろうと開いてみたら、何と仲頼さまからでした。
そしてそこに、御出家なさったということが書かれていたのです……
此方を訪れたその足で、山に入られたということでした。
私は思わず気を失い、気が付いた時には兵衛さんや孫王さんから介抱されていました。
彼女達も驚きました。あれほど皆様に愛され、周囲からも期待されていた方です。
噂に聞く北の方はどうなさったのでしょう。御子様も幾人かいらっしゃるはずです。その全てをお捨てになったとおっしゃるのでしょうか。
そしてそれが、このあて宮さまへの失恋のせいだとおっしゃるのでしょうか……
だとしたら、取り次ぎをした私こそが責められるべきなのではないでしょうか……」
大宮は思わず目眩がして、脇息に寄りかかった。
どうなさいました、と慌てて女房が側に近寄る。
「ああ、すぐに殿にこの文をお見せする様に」
「殿は今お出かけに」
「では探して頂戴。急いで伝えて欲しいの」
はい、と若い女房が慌てて正頼の所へと向かう。
大宮は同じく懸想していた実忠が病気になったと聞いても、仲頼のことまでは考えていなかった。彼は実忠の様に思い詰める気性には彼女には思えなかったのだ。
舞の師を努めてくれた時の様に、公私の区別はつける青年だと思っていた。入内が決まってからも、病で倒れるという噂も聞かず、きちんと少将としての役目を果たしていたと聞いていた。
だからあまり心配はしていなかった。友人である仲忠や涼同様、ある程度の割り切りができていると信じていた。
だがそれは甘かった様だ。大宮は唇を噛む。
彼は純情な、実に一本気な青年だったのだ。
気付いていれば良かった。
実忠の様にぐずぐずと病気になってしまうより、ある意味これはひどい結果だった。
そして大宮は、これはまだ始まりに過ぎない、と感じた。
懸想人の数だけ悲劇が存在するのではないか。
だとしたら、それは誰に、どの様に。
彼女は目眩をこらえながら身体を起こし、とりあえず何処から真意を聞くべきか、考えようと思った。
*
「……そうか、そういうことが……」
宮中で正頼は大宮からの文を受け取り、仲頼が最近出仕しない理由を悟った。
「……懸想人か……」
誰が居ただろう、と正頼はしばし考える。
「父上? 母上から火急の知らせとか」
「ああ忠純。何でも仲頼が、あて宮の入内で世を儚んで出家してしまったということだ」
「何ですって!?」
忠純は驚く。
「帝のお気に入りの一人のあの方が一体」
「そう、それ程に入内は仲頼にとって衝撃だったということだろうが…… 忠純、誰か心得違いを起こす様な者は他には居らぬか?」
「私はそのあたりには明るくありませんゆえ… そういえば」
ふっ、と忠純は一つ思い出したことがあった。
「父上、確か
「ああ。それが?」
「最近和政を見かけないのです」
少将滋野和政は、左大将家の家令の一人である。
「和政が?」
「はい。あれは勤勉な男なのに、と皆不思議がっておりましたが…… 実家で何かあったのかもしれません」
「お前、まさか滋野の宰相が入内で病気になったとか出家したとか」
いやいや、と正頼は手をひらひらと振る。
「想像できん。そんな繊細な御仁ではない」
「しかし」
「そうだな、心配なら問い合わせてみたらよかろう」
そう話し合っている時だった。
「左大将さま! 大変でございます!」
「何ごと」
「火事でございます」
火事?!
それを聞いて正頼は忠純と共に飛び出した。同じ様に飛び出して来た者は、二方向を見ては騒いでいる。
「二カ所同時にか!」
正頼は驚く。
「検非違使は」
父上、と忠純は声をかける。
「
四郎連純は衛門佐の地位にあった。
「そうだな」
実際に現場で動くのは彼より更に下の地位の者である。
だが内部の庶務を指揮する立場にある以上、事態の全体像を掴みやすい位置にあるとも言えるだろう。
*
連純が父の元に顔を見せたのは、翌々日のことだった。
「火事は四条と七条でした」
「ずいぶん離れたところじゃないか」
「七条は大路に面した二町でした。こちらは元々燃えるものが少なかったから、すっかり焼けてはしまいましたが、被害は少なかった様です。人も少なかった様ですし。ただ、現在、焼け残った倉に殺到する住民の整理に大変な模様です」
「……倉?」
「はい。屋敷は小さく、使用人も殆ど居なかったということです。畑が多く、水を使いやすかったので、周囲への延焼は食い止められました。が、倉が非常に沢山あって、どうもそっちの方から出火した模様で」
「ちょっと待て、それは一体誰の屋敷だ」
「ええと」
記録を開く。連純はあっ、と小さく声を立て、顔を上げた。
「七条は、
「
「はい、ええと、ちょっと待ってください」
思い当たるところがあるのか、連純は四条の方の報告を慌てて繰った。
「そうです、四条もまた、高基どのの屋敷です。改築したばかりの」
「あの御仁が!」
正頼は唖然とした。あの何よりも財を蓄えることを至上価値としていた人物が。
「もう少し詳しく調べさせろ。いや」
「父上、まさか」
忠純は腰を浮かしかける。
「高基どのはあて宮に話を持ち込んではいた。しかし歌の一つも送ってくるではなし、全く気にしていなかったし、最近では格別な贈り物もなかったから、諦めたのかと思っていたのだが……」
「だったら何かの間違いですよ、父上」
忠純は苦笑する。だがその表情にいまいち力が無い。
「いや、どんなことでも全く無いとは言い切れない。あて宮のせいで仲頼が出家したなんてことを、お前達は想像できたか?」
忠純と連純は顔を見合わせる。
「そもそも四条の家は何故作られた? あの御仁がいきなり華美な生活を始めたのは何故だ? 全てあて宮への求婚のためではなかったのか?」
「しかしそれでも東宮さまへの入内ですよ? 誰がそれを断ってまでと」
「だから絶対ということは無いと言うではないか! その時の状況を良く知る者を探しだせ!」
父の怒号に連純は慌てて自分の職務へ立ち返った。
*
「はい、その時の致仕の大臣さまのご様子は明らかにおかしゅうございました」
四条の屋敷の家令を勤めている者は、未だ呆然としていた。
「あて宮さまの御入内を、当初は信じられない御様子でしたが、日取りを調べ、当日、そちら様の行列に駆けつけ、嘘だ嘘だ、と帰るなり叫んでは泣き叫んでいらっしゃいました」
あの人物が、と正頼は唖然とした。
「水も呑まず物も食べず、心配していたのですが、元々何処か極端なところがある方ですから、そんなもので、ある程度放っておけばいい、と皆鎮まるのを待っていたのですが、我々の認識が甘かった様です。気が付いた時には、松明に火を点けていらして」
止めようとしたのだ、と家令は言った。
「できなかったのか? 相手は確かに主人であるとは言え、諫めなくてはいけない場ではなかったか?」
「殿は大きく目を開き、笑いながらこう言われたのです。
『わしは昔から食べるものも食べず、着るものも着ず、人に謗られようが何だろうが、ともかく物を貯めた方が勝ちだとずっと思ってきた。
どんなことも財産さえあれば何とかなると思ってきた。
それがわしの、帝の血を引きながら賎しい女の腹に生まれた男の、たった一つの支えだったのだ!』」
正頼はぞく、とした。
「『わしを賎しい女の子供とあなどった者達も、わしの姿がおかしいと笑った者達も、皆わしの財の前には頭を下げたではないか!
全ては財だ!
財さえあれば何ごとも叶う、そう思ってわしはずっとずっとずっと、今まで生きてきた!
だがそうではないというのか!
越えられない壁があるというのか!
ならもういい、全て無くなってしまえ!』
……私は、そして周囲の者達も皆、殿のその勢いに、足がすくんでしまいました」
四条の屋敷のあちこちに火をつけて、燃えさかるのを見た後、馬に飛び乗り、七条へ向かったという。
家令達はその時ようやく、呪縛が解け動くことができる様になったという。
「七条の方へ追いついた時には、既に火が廻っていました。元々小さな家でした。倉ばかりは沢山ありましたが、殿のお住まいは本当に小さく、そこいらの商人の家の方がよっぽどましな程でした」
「倉は」
「立ち並ぶ倉にも殿は次々と火をかけていました。そしてぶつぶつとつぶやいておられました。
『大臣の地位も今は無い。あて宮を妻にすることだけが願いだったのに、それも叶わなかったとなれば、こんなもの何になる……』
倉の中には本当に様々なものがございました。七条の周囲に住む貧しい者達なら喉から手が出るほど欲しい食物も沢山ありました。それに惜しげもなく火をつけたら、…不謹慎ですが、香ばしい、良い匂いがしました。それにつられて周囲から貧しい者達が押し寄せてきましたが、殿はもうそれにも興味も無い様で、ふらふらとそのまま馬に乗り、山の方へと向かって走って行かれました」
「お前達は止めなかったのか?」
「どうしたらいいのか、さっぱり判らなかったのです」
「そのせいで現場が大混乱になっていたということだぞ。人は押し寄せる、物は飛び散る、火はなかなか消えない……」
連純は思わず眉を寄せた。おかげで彼の仕事が山積みになったのだ。
「山へ向かったということだが」
正頼は問いかけた。
「はい。それ以上のことは判りません」
「本当に極端な御仁だ」
苦笑する。正頼はそうすることしかできなかった。
彼を馬鹿だと言うのは容易い。
だが彼の残した言葉の一つが正頼の胸を刺した。
帝の血を引きながらも賎しい女の―――
自分と彼がどれだけその生まれに違いがあるというのだろうか。そう、女蔵人の子である涼あたりなど、更に近いはずだ。
違い―――
後ろ盾だろうか、と彼は思う。
そう、正頼には充分な後ろ盾があった。いや、できた。
童殿上の頃、多少人より秀でていた。学問にも楽にも舞にも。
それで「藤原の君」と皆からちやほやされ将来を期待された。
皇子にはなれなかったが、源氏を賜った後も、将来性を時の太政大臣と嵯峨院に買われ、娘を貰い、今の地位がある。
三春高基は―――
彼にも童殿上の期間はあったろうに。
才覚もあったはずだ。兎にも角にも国守を幾つもやった後に、大臣にまでなったのだから。
何が違ったというのだろう。少なくとも自分の目の前に居る息子達よりずっと切れる存在だったはずなのに。
何が間違ったというのだろう。
「父上?」
忠純は黙り込んだ父を訝しげに見る。
「いや、事情はよく判った。下がらせてくれ」
「はい。しかしお顔の色が良くありません」
「立て続けに色々起こるからだろうな。そしてまだこれでは終わらないだろう」
「父上」
「忠純、あれから和政の姿を見たか?」
「いいえ」
「すぐに呼び出せ」
「しかしそれは」
「いいから呼び出すのだ」
何故、と忠純は身を乗り出した。
「判らないのか。高基どの――― あの高基どのが、あんな行動に出てしまった程だ。短気で有名な滋野の宰相が何かしでかしてしまっているのかもしれない」
それは、と忠純はぞっとした。
「そして連純」
「はい」
「お前はすぐに上司の督の元へそれを知らせろ。できればあまり大事にしたくはない。あて宮のためにも、無論我々のためにも」
「は」
二人の息子達はそれぞれに言われたことを果たすべく出て行った。