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第9話その1 嵯峨院、吹上へ行き涼と親子の名乗り、そして院と忠君との再会

 嵯峨院の一行は九月一日に都を出立した。

 皇子達の他、殿上人でも才能と容貌が優れた者は皆一行に加えられていた。

 宴に色を添える役割としての文章生、あの藤英とうえいも今回は同行していた。

 一行が紀伊国に着いたのは五日の申の時ばかりである。夕暮れ近い時間とは言え、まだ日は高い。

「……何と」

 一行は驚いた。

 無理もない。

 紀伊国の境から吹上までの世話は言うまでもなく、一行の通る道々は、種松によって金銀瑠璃の宝で飾られていたのだ。

「世に二つとない立派な所だ。どうしてこういう住まいができるのだろう」

 嵯峨院は嘆息した。

 それは同行した皆に共通する感想だった。

 種松は歓迎の宴の席をこれでもかとばかりに用意した。

 院に奉るための儀式張った御膳部は言うまでもない。

 上達部や皇子達には、沈や紫檀で作った衝重ついがさねに、海や山の珍味をある限り。

 六位以下の者であっても、それ相応に威儀を正した準備をした。

 やがて宴が始まった。

 まずは涼が院に殿上を許された。

「おお、そなたが涼か」

 嵯峨院はそう言うと、もっと近くに、と一番年下の息子を呼び寄せた。

「そなたの母、蔵人の君には気の毒なことをした」

「いいえ…… いいえ!」

 涼はようやくその時声を出すことができた。

「生きている内にお目にかかれるなどと、考えたこともありませんでした。これも全て、祖父種松と、私の友人達、そして何よりも院のありがたいお心故と思っております」

「や、もういいもういい」

 嵯峨院は涙に濡れた目のまま、手を振る。

「これからはそなたも正式に私の子、一世の源氏、源涼みなもとのすずしとして、都で暮らし、昇殿するが良い」

 は、と畏まるその姿は、周囲の殿上人の誰にも引けを取らないものだった。

「ところでそなたは琴が上手いと聞いておるが」

 嵯峨院はそう言うと、自らには琵琶を持ち出し、控えていた仲忠には和琴を、仲頼には箏の琴を渡した。

「そなたにはこれを」

 涼にはきんことが渡される。

 はい、と彼は怖じ気づく様子も無くそれを受け取った。

 合奏が始まった。

 名手と言われる仲忠や仲頼にも劣らぬ涼のその腕に、周囲の者は「ほぉ」とため息をつくばかりだった。

 楽器を琴から箏に換えてもそれは変わらない。

「素晴らしい! そなたがそれほどの腕とは…… 話には聞いていたが、驚くばかりだ」

 院はそうつぶやくと、歌を詠んだ。

「―――昨日までの評判ではまだ幼くて、双葉の松だと聞いていたのに、影がさす程に成長したものだなあ」

 するとそれを聞きつけた、涼の異母兄にあたる式部卿宮と兵部卿宮が銘々こう詠んだ。

「―――根が幾つも出て広いので、今まで父君の恵みも及ばなかった枝である貴方が庭の松/我々の同族として加わるのはとても嬉しいことです」

「―――やっとこの頃岸から生えて少し成長したばかりの松なのに、枝が格別優れて見事ですね」

 歳の離れた兄達からの手放しの讃辞に、涼はやや戸惑わずにはいられなかった。

 仲忠の「良かったですね」とばかりに微笑む姿や、仲頼の「俺が申し上げたからだぞ」とばかりに得意そうに胸を張る姿が側になければ、次にどうしていいか判らない程だった。

 そう、彼はかなり動揺していた。

 ずっと都に居るという父、嵯峨院に会いたくなかったと言ったら嘘になる。

 しかし会ってしまったら、今までの生活ががらりと変わる。圧倒的に変わってしまう。

 予期はしていた。仲忠達と友になった時から、その時はもう近づいていると。

 しかしいざ本当にその時が来ると、自分がどれだけ臆病な人間だったのか改めて気付かされるというものだった。

   *

 九日には菊の節句。

 この宴の中、詩作の催しが行われた。

 文人達はこのために連れて来られたのだ。彼らはここぞとばかりに難しい題に取り組んだ。

 結果、その中で群を抜いていたのは、あの藤英だった。

 院は詩の素晴らしさに加え、その声が実に朗々と通ることに非常に感動し、何度も何度も彼に朗吟を繰り返させた。

 引き続いて、新しく涼を加えた四人の殿上人に同じ詩作をさせると、これもまた素晴らしい出来であった。

 院は驚いてこうつぶやいた。

「度々唐に渡ってきた累代の博士に、彼ら四人は劣らないな。特別な学問をさせた専門の学者でもなく、好きで上達しただけの者達なのに」

 ううむ、と院はうなる。

「行正はほんの子供の時に唐に渡り、学問を修めたが、まだ歳若いうちに戻ってきている。

 仲忠は…… 確かにあの素晴らしい学者であった俊蔭の孫だが、彼が亡くなって三十年以上経っている。仲忠がたとえ世に知られた利発な者でも、祖父の在世中にその教えを受けた訳でもない。

 琴は…… 俊蔭は娘に教えた。娘は仲忠に教えた。それだけでも滅多になくありがたいことだが、俊蔭は作詩のことまでは娘には教えてはいまい。

 いや、仲忠だけではない。仲頼も、何と素晴らしいのだろう。人間というより、神仏の生まれ変わりの様だ」

 そして院は、自分の新たな息子である涼が、そんな彼らと比べて遜色のないことに満足を覚えた。

 宴は夜まで続いた。

 黄金の灯籠や沈の松明で周囲はまばゆいばかりである。

 周囲には高麗錦のあげばりが鱗の様に打たれている。

 沈の香木で出来た舞台は金属の糸で結び合わされ、楽器という楽器は輝く金銀や瑠璃の玉で飾られたものが用意されていた。

 笙にも笛にもそれぞれ四十人もの人々を使う。

 弦楽器を弾く人、舞人も大勢集められた。皆その道に優れた者ばかりである。

 舞人の登場に発する乱声、鼓、物の音が一斉に鳴り響く様は、この世のものとは思えないものだ、と後々まで語り継がれたものである。

   *

 翌朝、ようやく物の音が静まった明け方に、行人の声が何処かから聞こえてきた。

「何処からだろう。ずいぶんと良い声だが」

 院はつぶやく。

「不思議に尊い読経をする者が居る。探して連れて参れ」

 命じられた蔵人の殿上人が馬に乗り、声のする方に向かうと、上の宮で一人の修行者が読経していた。

「そこで何をしておる」

 行人はその声にはっとする。だが答えない。答えることができない。

「怪しい奴。来い」

 蔵人はこの行人を無理矢理馬に乗せた。

「本来ならそなたの様なむさ苦しい坊主は引き立てて行くのだが、院の帝の急ぎのお召しである」

「院の」

 行人の顔色が変わった。

 さもあらん。彼はあの忠君ただぎみであった。

 かつての大臣、橘千蔭たちばなのちかげの出奔出家した一人息子である。

 偶然にも程がある、彼がここに居る理由。それは恋だった。

 春日詣の時にかつての殿上童仲間であった左大将と再会した折、彼に一つの災難が襲った。

 ―――あて宮を見てしまったのである。

 この様な身にあって恋など。そう思うのだが、思う気持ちは止められなかった。

 既に出家して長い年月が経っている。

 なのにこの煩悩は何だろう。何処から湧いて出たのだろう。忠君は悩んだ。恐れた。

 自分はまだまだ修行が足りないのか、はたまた何か不可思議なものにとりつかれてしまったのか。彼にも判然としないところだった。

 だがその後に彼が起こした行動は、更に不可解なものだった。彼自身にも判らないものだった。

 本来なら、忘れるべき思いである。仏の手にその身をゆだねたのなら、一切の執着を捨て去ることこそ大事なことである。

 なのに、彼は旅立ってしまった。六十余ヶ国を、一つの願いと共に。

「あて宮をもう一度見ることができたなら。それだけでいい。それだけでいいのだ」

 それを神仏に願うべく、あの後すぐに彼は旅の途についたのである。

 自分はどうかしている。誰か何とかして欲しい。

 そんな気持ちを晴らすべく、この夜から朝にかけて読経を続けていたのだ。

 そこへ「院の帝」―――嵯峨院のお召しだという。

 お会いしたくない、と彼は思う。お会いできるはずがない、と思う。

 しかし非力な僧の身、彼はあっさりと院の前へと連れ出された。

 御殿のきざはしの下に忠君は召された。

 何とひどい身なりだ、と一目見た院は思う。

 むさ苦しい衣、院の住む世界からはかけ離れた―――見ることがまず無いようなひどい格好だった。

 しかし何処か只人ではない様な佇まいに、院は「何か訳がありそうだ」と思い、行人に問いかけた。

「そなた、何処の山で修行をしているのか」

 忠君は答えた。

「現在は諸国を回っております」

「生まれながらにその様な身分の者とは見えないが、さてどの様な理由で行者となったのだ」

「様々に……」

 口にしながらも、彼は院が自分のことを思い出さないかと気が気ではなかった。

 黙って出奔し、今となってはこうなってしまった自分である。かつて寵愛してくれた院にだけは知られたくはなかった。

 ましてやここにこうやって居る、その理由は―――

「まあいい。どうであろう。今ここで、経を詠んではくれまいか」

 断るすべも無い。忠君は「はい」と答えると、孔雀経や理趣経を声高く唱え始めた。

 院はそれを聞くと、仲頼や行正に命じ、琴を声に合わせて演奏させた。

 その様子はひどく哀れに悲しく、眺める人々も皆心を打たれ、涙を落とす者も数多く居た。

 左大将と仲忠だけは、この行人が誰であるのか知っていたので、その思いもひとしおであった。この行人が連れて来られた時、左大将も仲忠も、それが誰であるのかすぐに判ったのだ。

 だが彼らは院に事実を口にはしなかった。

 春日詣の時、忠君は自身の現在を恥じていた。彼らはそれをよく知っていたのだ。

 そして今この時も、ありがたい経を素晴らしい声で詠みながらも、その心中はどうであろう、と左大将は心配になる。

 院はしばらくそれを黙って聞いていたが、やがてふとつぶやいた。

「―――わしは以前、あの行人を見知っている様な気がする。その声、確かに覚えがあるぞ」

 側で聞いていた左大将はぴくりと肩を震わせた。

「左大将。昔そなたが兄弟の契りをした者ではなかったのか」

 ああ、と正頼は顔を伏せた。とうとう判ってしまったのか、と。

「右大臣」

 院はそっと命ずる。右大臣は忠君に近づくと、問いかけた。

「そなたはその昔、院の元で殿上童として仕えていた者ではないか。そうであろう」

 途端、忠君の目からは涙がほとばしった。左大将は慌てて立ち上がり、院の前に跪いた。

「申し訳ございません。この法師を最初に見つけだした時から、院には必ず申し上げようと思っておりました」

「では何故すぐに言わない」

「彼は自分の現在の境遇を恥じておりました。本当は兄弟の契りを結んだ私にも、生きていることさえ知られたくはなかったのです。ふとした縁から私の方が気付いてしまい」

 そうだったのか、と院は忠君を近くに呼び寄せ、問いかけた。

「忠君よ、今までそなたが居なくなったことを忘れた時は無いぞ。奇妙なことで、何ということも無く、突然居なくなってしまったのは、一体どういうことであったのか」

 忠君は涙にむせびながらも、ゆっくりと話し始めた。

「私はその昔、父から怒りを買ってしまいました。理由は今でも判らないのですが、子として親の気分を損なうことより重い罪は無いだろう、と思いこみ、不安になり、通りかかった山伏に付いて行くことにしたのです」

「怒りを買った覚えは本当に無いのか」

「ございません」

「早まったな」

「冷静になって考えてみれば判ったのかもしれませんが、その時の私は、ただもう、そればかりで山に籠もることを決めてしまいました。それ以来、木の実や松の葉を食物とし、木の葉や皮や苔を着物として、今日に至っております」

「そうであったか」

 院には思い当たることが無い訳ではない。が、この者が言うことも嘘とは思えない。

 何があったにせよ、既に昔のことである。

「過ぎてしまったことは嘆いても仕方がない。ただよ、せめて今からでも私の側に居て、御祈祷のことでもして仕えなさい」

 喜んで、と忠君はその場に深くひれ伏した。

 彼らはしばらく吹上に滞在したが、都へ戻る際には、涼と忠君も同行することとなった。

 その道中も、何かと言えば興を尽くした管弦の遊びを行ったことは言うまでもない。

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