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第8話その2 あて宮を巡り皆右往左往、そしてそれを涼に伝える人々

「図々しい!」

 今宮は文を見るなりつぶやいた。

「どうなさいましたか?」

「何でもないわよ」

 と彼女は返す。

 しかしその図々しさが何となく面白い。しかも熱心ではなさげなところが。

 そう思って最近のあて宮を巡る動きに彼女も目を走らせてみる。

 まず東宮からは七夕にかこつけてまたもや文があった。

「―――冷淡なあなたを待っているうちに、もう数年経ってしまいましたよ。その間彦星は何遍織姫と逢っていることでしょう」

 あて宮はこう返した。

「―――二つの星は一年に一度来る秋七月の一夜のためにじっと待っているというのに、あなたときたら逢う夜のことばかりお数えになるのですね」

 兎にも角にもあて宮は東宮には必ず返事をしているのだ。

 その一方、実忠の動きがまたじりじりと始まっていた。

 中の大殿の簀子で男達が碁をしていた夕暮れ時のことである。

 御簾の向こう側で、ふと声がするのに今宮は気付いた。

 兵衛の君に実忠が何やら頼んでいる様だ。

 面白くなり、今宮はそうっと近づいて聞き耳を立てた。

 姫君のすることではない、と口うるさく言う女房は彼女の周囲にはあまり居ない。

「どうして昨夜は下屋にいなかったんだ? 今はもう、お前さえ私に冷たくなってしまったかと思うと……」

 少しだけ間を置いて、兵衛の君の声がした。

「変わらないものは冷淡に見えるのですわ。別にあなた様を避けた訳ではございません。私は昨夜、賄いの方へお仕えしていたので……」

 二人の会話の後ろでひぐらしが啼いていた。それを聞いた実忠はこう詠んだ。

「―――夕暮れともなれば訪ねるところもなくて、独り寝する自分が悲しくて、蜩の啼くのも私に比べれば何でもないと思いますよ」

 兵衛の君が何かそれに優しい言葉でもかけるか、と思ったが、彼女はそのまま黙って引き返して行った。

「……どう思う?」

 後ろで不安気に眺めていた一宮に、今宮はそっと問いかける。

「どうって」

「実忠さまのこと」

「んー」

 一宮は空を仰ぎ、困った顔をする。

「そなた達はどう思う?」

 自分の、情報収集に長けた女房達に彼女は問いかける。

 その中の一人が口を開く。

「私の兄がした恋がこういう感じでしたので、少々不安に思います」

「兄?」

「はい。兄はやはり美しいと噂に聞く、さる受領の娘に恋をしたのです。いくらたっても返事は素っ気なく、かと言って他の求婚者にも応じない。そういう娘でした」

「それで?」

「多くの者は、そこは受領ですから、他を求めました。しかし私の兄はそうはいかず」

「ひたすらに、あの実忠さまの様に娘を追い求めた訳?」

「はい」

 女房はうなづく。

「それでどうなったの?」

 興味半分、心配半分で一宮は問いかける。

「兄は思いつめて病気になってしまいました」

 まあ、と一宮は両手を口に当てる。

「正直、本当に病気なのか判りません。ただもう気分が塞いで、閉じこもってしまって、食欲が無くなって、次第に動きたくなくなってしまったという様ですから」

「物の怪でしょうか」

 別の女房が口を挟む。

「いえ違います」

 話を始めた女房はきっぱり答える。

「そなたは物の怪は信じないの?」

「そういう訳ではございませんが、でも、人は食欲が無いと言って食べなければ力も出ないでしょうし」

「気分が塞いでいるのは恋のせいとして」

「でも恋と言いましても、結局評判しか判らない訳ですから」

 あて宮における実忠と同じだ、と女房は暗に示していた。

「それでどうなったの?」

「ええ、今は病気も治り、ぴんぴんしています」

「ということは、その娘と結婚することができたの?」

「いえいえ、それは無理でございました」

「と言うと」

「噂そのものが嘘だったのです」

「嘘!」

 一宮は思わず目を丸くした。

「そもそもその受領のところには、娘など居なかったのです。それなのに、『大事にしている娘がいる』という噂ばかりが一人歩きして、私達くらいの身分の男達を迷わせてしまったのです」

「でもそれはどうして判ったの?」

 今宮は身体を乗り出した。

「兄が恋で病気になってしまったと聞き、その受領が直接噂の真相を打ち明けて下さったのです」

「なぁんだ」

「なぁんだじゃないわよ、一宮。これは大事なことよ。それでそなたの兄は?」

「あっけなく良くなりました。幻に恋していた自分をずいぶんと恥じまして、その受領と親の勧めた別の娘と結婚して、今では穏やかに暮らしています」

 ほっとした顔で一宮は胸を撫でおろした。

「けど幻が本当に幻ならいいけど」

「はい。実忠さまの場合は……」

 うーん、と今宮は眉を寄せた。

「正直私は、あれが婿君としてあて宮とくっつくなんて嫌よ」

「嫌ってあなた」

「一宮は黙って。大体東宮さまからお話が来ているなら、もういっそさっさと入内してしまえば、皆あきらめるのに」

「あて宮はどう思っているのかしら」

 ぽつんと一宮はつぶやく。

「好きな方は」

「居ても居なくてもあのひとには同じでしょ」

「でも」

「一宮」

 今宮は一宮に向き直る。

「もし、あて宮がちゃあんと好きな人とくっつくとか言うなら、あなた失恋なんだけど、それでもよくて?」

「え」

 一宮は息を呑んだ。それは。

   *

 それから少し経ったある晩。

「姫様方、ずいぶんと良い月でございますよ」

 孫王の君が御簾を少し掲げてそう言った。

「まあ……」

 あて宮もそれには声を立てる。

「あて宮、久々に私と合わせましょ。でもきんではなくてそうでね」

「ではあなたは琵琶を」

 久々に姉妹が穏やかな時間を過ごすことを、周囲の女房も喜ぶ。

 今宮が入るとどうも静かな空気がかき乱されて仕方がない。若い女房達はともかく、古参の女房には彼女の溌剌とした空気は少し荷がかちすぎるのだ。

 孫王の君はその調べを聞きながら、ちら、と横目を御簾の外に向ける。

 仲忠が居るはずだった。

 まだ陽が落ちる前、彼女は仲忠から言付かった文の返しを催促されていた。

「何か珍しく熱心ではないですか」

 孫王の君はやや皮肉げに仲忠に言った。

「僕が熱心ではいけない?」

「いいえ。あなた様なら安心ですわ。何事も起こるはずがないのですから」

「ではどうして返事を持ってきてはくれないの?」

「先ほどから、仲純さまと碁をお打ちでしたから」

「仲純さんね…… ふうん」

 彼は何度かうなづく。

「じゃあいいや。別に僕の方は。お返事が無くてもいい」

「いいんですか?」

「その代わり、ちょっとだけあて宮が琴を弾いているところを見たいなあ」

「まあ」

 そんなやり取りがあった。

 そして確かに今、外にはその気配がある。

 覚えのある香り。ふらふらと見える、白い大きな花を手にした。

「琵琶は誰が弾いているの?」

「今宮さまです」

 聞こえるか聞こえないか、という程度の声で孫王の君は答える。

「ふうん。それはそれで悪くないね。それにしてもあて宮はやっぱり凄いね。今でもこの様な手なら、先ざきはどれだけ上手になることやら」

 ふふ、と孫王の君はそれを聞いて微笑む。

「でも確かにこれは危険な音だね」

「どういうことですか?」

「香りが人を惹きつける様に、あて宮は何かしら弾くだけで、その音が意味も判らず、人を惹きつける。僕はその音だけで充分だけど、他の人はどうかな」

「嫌なことをおっしゃる」

「嫌なことかな。それが彼女の持つ天性のものなのだろうけど。音に全てが入ってしまうんだね。夏の納涼会の時の音、あれだけでどれだけの人が惑わされたことやら」

「それはあなた様も同じでしょう?」

「僕のは少し違うよ。それにまだ、本当の音は出していないよ」

「聞かせていただける時はあるのでしょうか」

「いや、誰にも聞かせない方がいいんだ。そういうものは」

 孫王の君はふっとため息をつく。

「一体あなた様には、何か本当に欲しいものとかあるのですか?」

「あて宮の音」

「ご冗談ではなく」

「冗談ではないよ。孫王の君。あなたのことが好きだし、あて宮の音が欲しい。……他のことなんて、誰かが良い様に決めてくれるだろ。最近では仁寿殿にだって、簡単に入れてくれるんだ……」

 全てのことがどうでもいい。彼女には、仲忠のそんな心が言葉の端々から感じられる。

「あなたのそういうところが心配ですわ」

 ふっ、とその時音が止まった。

「誰かそこに居るの、孫王」

 今宮が鋭い声で問いただす。

 仲忠は竜胆の花を折ると、その淡い色の汁で手にしていた蓮の花に何やら書く。それを簀子に置くと、そっと立ち去って行った。

「東の簀子にこれが」

 孫王の君は、仲忠の気配が消えたあたりを見計らい、花を外から取り入れる。

「歌が」

「歌?」

 今宮は見せて、と孫王の君から花を取る。

「―――浅瀬の様なあなたの冷淡さを嘆いて渡る筏士は、幾年月をこうして暮らしてきたことだろう」

 仲忠の筆跡であることは、すぐに伺い知れた。

「ではあの方、私の弾いた箏もお聞きになったのですね」

「その様でございます」

「恥ずかしいことだわ…… 琴の名手のあの方にこんな他愛ないものを聞かれたなんて。私はもう今日は弾きません」

「あて宮」

 珍しい、と今宮は思った。

 この姉が動揺している。一宮に言ったのは半分冗談だったが、案外それは的を射ているのかもしれない。

   *

「あて宮さまはあなた様のことが嫌いではない様です」

「かもね」

 夜も更けて、孫王の君の局で彼女の胸に埋もれながら、仲忠は囁く。

「いいのですか? あなた様なら、手引きして来たとしてもあの方は」

「何度も言ってるじゃない、孫王の君」

 髪に指を梳き入れる。

「音だよ。音だけなんだ。あの方から欲しいのは。それだけが僕の願い。それ以外は何も無いんだ」

「私は―――」

「ああどうしてあなたは、今そうやって、あて宮のことを僕に言うの。僕は今はこうしているだけでいいのに」

「でも」

「あなたがそう言うなら、あて宮には思いの印とやらを明日の朝には届けるよ。でもそれはそれだけでしかないんだからね」

「あなた様のお気持ちは、私にはどうしても理解できませんわ」

「理解なんかしなくたっていい」

 彼女は何も言えなくなった。夜がまんじりと更けて行く。

 翌朝、あて宮の元に「黒方くろほう」という薫物をくわえさせた銀の鯉が届けられた。

「―――一晩中私は涙川に浮かんで、果てしの無い恋に悩んでいます」

 そんな歌が添えられて。

 あて宮はそれを見ても何も言わなかった。表情一つ変えなかった。孫王の君はあて宮に返事を勧めた。

「ずいぶんと熱心ね、孫王」

「滅多にそういうことをなさらない方からですから」

 言葉を濁す。

 正直彼女も、仲忠がこう出てくるとは思わなかった。何とも思っていないはずなのに。勧めたのは自分だけど。

 それでもこういうものを即座に出してくるというのは。

 その一方で彼女の「女房」としての気持ちはあて宮にこう勧める。

「今度ばかりはお返し下さいませ」

「嫌な噂が立ったら、孫王のせいよ」

 あて宮はそう言うと、微かに笑う。

 そして銀の籠に沈香の松明たいまつを灯して、沈木でできた男に持たせると、次の歌を書き付け、仲忠の元へと送らせた。

「―――川瀬に浮かんでいる男は、篝火が水に映っているのを自分の恋だと思っているのです。あなたの恋は影に過ぎないのです」

 孫王の君ははっとした。

 もしかして。

 もしかしてこの二人は。

   *

「ふぅん?」

 「女房」から届いた文を見て涼は面白い、という顔をした。

 琴を聴きに行ったと。仲忠にしては珍しく積極的な行動に彼はやや驚いた。 しかしそういう行動自体が、「恋」という行為の作法には必要なのだろう。

 ならば。

 涼は少しばかりその例にならってみることにした。

「紀伊国の源氏の君から、ということですが」

 思い立ったが吉日とばかりに、涼はすぐにあて宮の元へと連日贈り物を届けさせた。

 都で噂に聞く可愛らしい童に美しい装束を着せ、季節に合った花や紅葉を珍しい紙に書いて、毎日の様に届けさせる。

「―――私の身から限りもなくあふれ出る恋の思いには、慰めるという浜の名も何の役にも立ちません―――見えない程の塵さえ積もるということもあるのに、恋の思いの止まる様子のないのは心細く思います」

 さすがにそれには左大将正頼も感心した。

「優れた人々の間に混じっても恥ずかしくない文であるな」

 しかし、と彼は思う。それでは最初のあの失礼な文は何だったのだろうと。

「あて宮はどうしたね」

 正頼は孫王の君に問いかける。彼女は苦笑し、首を横に振った。さて、と正頼は首を傾げた。

 ちなみに当の涼は、返事が無いことに関しては「まあそんなものだ」と思っていた。

 それからしばらくして、庚申こうしんの日が来た。

 中の大殿でも、皆寝ずに庚申待ちをする。

 しかしただまんじりと夜を過ごすのではつまらない、とばかりに皆何かと遊びを考え出す。

 ある所では、男女が左右に分かれて石はじきの遊びをしていた。

 あて宮は遊びそのものには参加せず、女房達が楽しむのを見ていただけだが、そこに仲純がそっと近づいた。

 きょうだいというのは、ある程度まで近付けるというのが強みであり――― それでいて、ある程度以上は決して触れてはならない存在である。

 あて宮は仲純の方をちらと見た。

 彼は彼女の側にある硯を引き寄せると、見えるか見えないかの距離で、その上に筆でさらさらと書き付けた。

「―――寝る暇なく嘆く私の心も、夢でならあなたに会えるかと思うと、眠ってはならない庚申の今夜であっても、まどろみたくなります」

 硯に書いた歌の文字は、一つ一つ書くごとに消えて行く。

 見えただろうか、と仲純は妹の様子を伺う。あて宮は視線を逸らしている。決して見るものか、という様に。

 判ってはいる。判ってはいるんだ。

 仲純は心の中で叫ぶ。だからこそ、夢の中でだけ会えたら、と思うのに、と。既に彼は以前と比べてずいぶんとやつれていた。

   *

 やつれているのは仲純だけではなかった。

 実忠もまたその一人だった。

「もしかしたら死んでしまうのではないか、惜しい人なのに」

 彼を知る人々が噂する。

 そんな声を知ってか知らずか、彼はひたすら引きこもって床につき、届いても叶わない思いに悲嘆にくれていた。

 それでも文を書くことは忘れない。忘れてなるものかとばかりに床の中からも筆を取る。

「数の中にも入らない自分だということが、自分にも判らない様に振る舞うのが恥ずかしくて、申し上げまいとその度に思い返すのでございますが、こうして死んでしまうにしても、心細いままに終わるのは悲しうございますので…

 ―――涙さえ川となった程の私が、これまで久しい間差し上げた沢山の文は何処へ行ったことでしょう―――

 今にも死ぬばかりですが、万が一お返事が頂けるかと頼みに思いながら、辛うじて生きております。ああ愛しい貴女、私を助けると思ってお返事下さい」

「確かにここまで言われては可哀想だとは思うけど…」

 受け取ったあて宮は、そうつぶやきはするが、これといった返事らしい返事はしない。

 さすがに実忠に同情した木工の君は、あて宮に進言する。

「せめてこの度だけはお返事下さいませ。お気の毒なことになってしまったと、世間の皆様も気の毒がっておいでなのですから…… 人助けと思って」

「木工」

 短いが、鋭い声が木工の君の耳を打った。

「私のせいにするのは変だわ。いずれにせよ、ああいう方には返事をしない方がいいのです」

「あて宮さま」

 木工の君は驚いて声を上げる。

「どうしてそんなに冷たく…… 今まではそうでもない様にお見かけ致しましたのに」

「私はするべき所にはお返事はしているつもりよ」

 言い放つあて宮に、木工の君は「はあ」とため息を漏らすばかりだった。

 周囲の女房も思う。

 この様な悲痛な叫びに耳を貸さない方なら、今先ほど来たばかりの行正の文になど、返しなど考えもしないだろう、と。

 行正はこう詠んでいた。

「―――数の中にも入らない様な私にとって、初秋が来ると侘びしいのは、時雨があっても紅葉することができないことです。顔色にも出せない侘びしさです」

   *

「と、やっぱり、返事は無かった様です」

 「女房」はそう締めくくっていた。

 涼はそれを読んでくっくっ、と笑う。

 この「女房」は字は決して上手く無い。饒舌なその文の内容も半分は意味が無い。

 しかし涼はそれを読むのがひどく楽しい自分に気付いていた。

 おそらくこの「女房」はいつも「らしくない」「大人しくしてなさい」とか言われているのだろう、と思った。

 きっと側に居たら、いつも世間話を面白可笑しくまくし立ててくれるはずだ。彼女にとって、世界は面白いものに満ちているのだから。

 そう思いながら文を閉じ、もう一つの文を開く。仲忠からだった。

 そこには思いがけないことが書いてあった。

 彼の父、嵯峨院さがいんが吹上に行幸するというのだ。

 涼は驚いてその続きを読んだ。

「先日、院が花の宴を遊ばされました。

 その時院が仲頼なかよりさんに『年の内で草木の盛んな見頃はいつがいいか』

 とお聞きになりました。仲頼さんは答えました。

『野の花の盛りは八月二十日。山の木花の盛りは九月十日頃が良いでしょう』

『何処の野山が良いか?』

『近い所では、野は嵯峨野、山は小倉山、嵐山がいいでしょう』

 と話は流れて行き、やがて鷹狩りの話になったのです。院は小鷹狩りをしてみようとおっしゃいました。

 それで仲頼さんにまた問いかけたのです。小鷹狩りにいい場所はないか、と。仲頼さんはそこでそちら、紀伊国を持ち出したのです。

 遠すぎるのではないか、というお言葉にも、右大臣どのが唐の例を持ち出して解決です。九月九日の節句の宴を吹上でしよう、ということになりました。

 という訳で涼さん、急で何ですが、院をはじめ、沢山の方々がそちらへ伺うことになると思います。いずれ院の使いが正式にあると思うのですが、その前にと思いまして」

 慌てて彼が種松と支度を始めたのは言うまでも無い。

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