「もう七月ね」
あて宮に連日届けられた文を見ながら今宮はため息をつく。昨日は仲頼から、今日は行正からだ。
その文達が今宮にふとそんなため息を起こさせた。
仲頼からはこうだった。
「―――涙で濡れた袖も干してしまえずに過ぎてしまった夏の日を惜しむにつけて、袖は濡れまさるのです」
それが六月の最後の日の文。
行正は七月の最初の日だった。
「―――夏の木々が広がる様に御文を繁く差し上げても一向にお返事を下さらなかったあなたは、秋が来て言の葉が色づく今日をどう御覧になりますか」
七月。そう秋がやってきたのだ。
「季節が変わっても、皆本当に熱心というか何と言うか……」
「仕方がないわ今宮、それはやっぱりあて宮が皆恋しいからだし―――私は行正さまの歌の方が素敵だと思うわ」
一宮は無邪気に二つの歌を比べる。
「私はどちらかというと、仲頼さまの方が真っ直ぐでいいと思うけどね」
今宮は答える。
「でも今宮は、涼さまの歌があっさりしすぎだって怒ってなかった?」
「あれは―――」
今宮は詰まる。
「それに」
一宮はくす、と笑う。
「あなた確か、ここのところあの方へ」
「違ーう、一宮。私じゃあないわよ。私の女房があの方へは送ってるの。女房がね!」
無論嘘である。
*
「御文でございます」
紀伊国吹上では、既に二度「左大将家に仕える女房」から文が届けられていた。
「あるじの君へ、とのことでしたので」
涼は当初、あて宮からの返事を言付かってきたのか、と思った。実際その様な書きぶりだった。
だが、目を通す彼の表情が、途中から訝しげなものに変わった。
「どう致しましたか?」
文を持ってきた女房が問いかけた。
「……そなたはこの手跡はどういう者だと思う?」
「いささかお尋ねの意味が判らないのですが……」
あて宮づきの女房と差し出し主は名乗っているが、それにしては字が稚拙だった。
「そう思わないか?」
「そう言われれば…… でも若い女房が居ない訳ではないと」
それもそうなのだが。
涼は再び文を見る。
白い陸奥紙で立て文にされているそれは、ひどく長かった。しかも、理屈臭かった。
奇妙な面白さはあったが、あて宮付きの女房のものとは思えなかった。
文章全体はひどく長かった。だが内容は要約すればこれだけだった。
―――先日そちら様が姫様に送られた文ですが、ひどく関心をもたれた様子。しかしそれにしては、最近のお文はずいぶんと凡庸で。お気持ちがいい加減なものだったのかと姫様は疑問に思っております―――
まあ内容は有りかもしれない、と彼は思った。女房の一存としてはあまりにも軽率であるが。
女房の一存ではないとすると、あて宮が誰かに書かせたとも考えられる。
だがそれではあて宮が軽率すぎるということになる。仲忠や行正からの手紙による彼女像に、それは当てはまらない。
しばらく様子を見ようと思い、その「女房」に「あの最初の文に書いた気持ちに間違いはない」と返事を出した。
すると瞬く間に返事が来た。
瞬く間に、である!
再び同じ「女房」から、またも立て文で、決して流麗とは言い難い字で。
彼はその早さに笑うしかなかった。そんなことが容易くできる「女房」なんて。
そこで仲忠や行正に、それとなく正頼の家族や周囲の女房について訊ねてみた。
仲頼には止した。どうやら彼は本気であて宮に恋している様だから。
では涼自身はどうか、と言うと。
あて宮に興味はある。
だが格別「欲しい」という気持ちは無い。
自分がいくら帝の血を引く「財の王」だからと言って、参内もできない現在の身、求婚したところで左大将から婿として認められる訳が無い。
それに。
彼は考える。
もし自分が左大将の立場だったら、と。
左大将はあて宮を入内させるつもりだろう。そう彼はにらんでいた。
だから文は送ったが、本気で彼女を手に入れようというのではなく、「あて宮に懸想」という催しに参加しているという気分が大きい。
吹上で知り合い、親友となった仲忠や行正にはそれが見え隠れした。
特に行正にはその傾向が強かった。
仲忠にもそれはあったが、恋愛や結婚とは別の形で、あて宮を好ましく思っていることは感じられた。
だが仲忠はその一方で、自分に軽い何かを仕掛けて来る。それはそれで涼にとっては心地よいものがあった。
あて宮と仲忠、どちらかを自分のものにしても構わないと言うのなら、涼は迷わず仲忠を取るだろう。
さて、そんな仲忠からは割合頻繁に文は来る。
涼はこれをまた楽しみにしていた。
ともかく彼の書いてくる、あて宮求婚者達のことが面白いのだ。
仲忠は涼が参戦したと聞いても、本気だとは思っていないらしい。自分の見聞きしたことを実に事細かに書き送ってくる。
まるで自分と一緒に楽しもう、といわんがばかりに。
いい性格だ、と涼はほくそ笑んだ。
七月に入ってからの話題は、何と言っても
それ以前にも涼は真菅については仲忠から何かと楽しく聞いていた。
*
宰相兼任の太宰の帥――― 太宰府の長官である――― であるこの人物は、現在年の頃は六十程。九州からの帰京途中に永年連れ添った妻を亡くしている。
妻の死は無論悲しかったのだろうが、それ以上に現実的な人物だった。
家の女主が必要だ、と思うが早いが、それに相当する女性を探し始めた。
そこで「左大将の大切にしている姫」のあて宮のことを聞きつけたのである。
ただ噂は噂に過ぎないので、左大将の屋敷の近くに住む女を呼び寄せて、噂の真偽を確かめることにした。
「左大将のところにはずいぶん沢山姫君が居ると聞くが、皆婿取りしてしまったのではないか?」
すると女はこう言った。
「いえもう一人いらっしゃいます」
なるほど確かに本当らしい、と真菅は満足そうにうなづいた。
「よしよし、では左大将に頼んでみるとしよう」
すると東宮坊の
「あて宮は東宮からも切にお求めになられる方です。上達部や皇子達もずいぶんあの方には御文を送られている様ですが、左大将どのは、まだどなたに差し上げるのか心をお決めにならない様です」
正直、この次男は、「東宮」を先に出して、父親に何とかして現実を見てもらおう、という気持ちでこう言ったのだ。
冗談じゃない。あて宮に下手な気持ちで手を出そうものなら、上野宮の二の舞だ。
ところで、この真菅の長男は少将和政という。そう、かの「偽あて宮略奪」の際に左大将に使われた人物である。
和政は当時、自分が何を命じられたのか判らずに、言われるままに「場所取り」をしていた。
後で自分の行為がどういう意味を持っていたか知った時、身代わりになった少女のその後を思い、しばらく鬱々としていたということである。
左大将はその位のことはする。次男の帯刀はそれを知っているから、ともかく父を止めたかった。
だがその一方で、この父は家内では何と言っても逆らう者も無い権力者である。
しかも気が短い。おかげでよく使用人も変わる。
現在居着いているのは、父と気の合う者か、はまず直接関わりの無い者か、さもなければ彼ら息子達が必死で留めた者である。
「ともかく兄上からそのことはお聞きになるほうがいいでしょう」
「和政は左大将びいきだ。わしの言うことより左大将を優先させるだろうよ」
吐き捨てる様に言う。
「何をおっしゃいます! 仮にも親子ですよ。兄上だって父上のことはいつも心配なさってます」
「何を心配するというのだ、あの青二才が。わしの言うことに何か問題があるとでも言うのか」
あるから我々は心配なんだ、と帯刀は思うが、口には出さない。
「あの左大将は、物は貯めて持っているべきだ、とは考えない奴だろうな。そうそう、わしの荘園からの産物を贈り物にして、仲立ちの者にも腰差を与えて先方に頼む様にしよう」
荘園だったら向こうも色々持っているだろうし、そもそもその荘園自体を送る者だっているだろうが、と帯刀は思う。絹の巻物をくらいじゃあ仲立ちだってまともには動かないのじゃないだろうか、とも。
「うちにはともかく何かと物はあるのだ。何とかならないものだろうか。いや、財があるのに何とかならないことなどない!」
当時、太宰の帥と言えば、物持ちになる最高の地位だった。
実際真菅は多くの倉を立て、任地で得た財産を所狭しとばかりに詰め込んでいた。
呼び出された女は、これは金になる、と踏んで言った。
「そうですとも。どうして先様もお断りになるということがありましょうか。私が上手く計らいましょう」
「どうやって」
「私は左大将のご長男の乳母の『中殿のおもと』という人を知っています。彼女に手引きをお願いしましょう」
早速女は左大将の屋敷へと行った。
「こんにちはぁ」
「おや、お久しぶり」
「何か全然お目にかかれなくて、寂しかったですよぉ。それに最近雨ばかりだから閉じこもってばかりで」
「あー、長雨ばかりですからねえ。こうなると、殿の御子様達を遊ばせるにしても、だんだん遊びの種も無くなってきてしまって。そっちはどう?」
「いやもう全然! 何かいいこと無いですかねえ」
「私のほうも騒々しいばかりで。まるでいいことなぞ無いからねえ」
「お暇でしたら、ちょいとうちへいらっしゃいません? 前から考えていた畑を今日掃いて麦をさすばかりに、昨日手伝いの人達に約束したんですよぉ。ほらそれに」
ひょい、と壺を出してみせる。
「ちょっとばかりお菓子に使う粉も持ってきましたし。ねえ、何かとお喋りもしましょうよ」
「そう言ってくれると嬉しいねえ。ここには人は沢山いるんだけど、何せ私も歳が歳だからねえ。友達にできる様な人もいなくて」
「おや、そうですかぁ」
「今居る若君達の乳母達も皆若い人ばかりでねえ。私ばかりがもう、貧乏だしー、老いぼれてしまったしー」
「そう言えば、今はどちらの君にお仕えでしたっけ」
「ご長男の
「それは仕方がないでしょう。ご長男の方とご一緒にお年を召してきたのですから」
とか何とか世間話をしながら女は「中殿のおもと」――― 通称なかとを外へと連れ出した。
「あれあれ、何処へ連れて行くのです」
なかとはどうも行く場所が違うのではないか、と目を白黒させる。
「すみませんね、ちょいとここの殿に頼まれたことがございまして」
はあ、とため息をつきながら、なかとは真菅の屋敷へと導かれた。
真菅は早速、彼女に向かって言った。
「先日旅の途中で妻を無くしての。男一人で所在なく思っているので、そちらの左大将どのの若い姫の一人を申し受けたいと思っての」
「それは……」
彼女はどうしたものか、と思う。
しかしここで断ったところで真菅は引かない、と永年左大将家に仕え、やって来る様々な人々を見てきている彼女は考えた。
ともかく左大将家へと戻らなくてはと。
「左大将どのに仰っても、すぐには思し召し通りには行きますまい。それよりお文を頂いて、あて宮に差し上げましょう」
「おお、そうしてくれるか」
「はい」
文ならばあちこちから届いている。彼女はその一人として、この男をも処理してしまいたかった。
「私は所詮、左大弁の君に仕えている身。私の孫があて宮付きでございます。孫に持たせましょう」
よしよし、と満足そうに真菅はうなづくと、帯刀を呼んだ。
「どうしました父上」
そこに見知らぬ老女が居るのを見て、帯刀は困ったことになった、と内心思った。
「わしはこの様に独り身でいては、心がぼんやりして老い込んでしまいそうだから妻を得たいと思うが」
それはこの間言ったことです、と帯刀は内心突っ込む。既にぼんやりしているんじゃないかこの親父、という言葉は決して口には出さない。
「懸想文には歌が要る様だ」
当たり前だ、と再び息子は突っ込む。
「しかしわしは和歌の様な軟弱なものは書いたことが無い。お前書くが良い」
何で私が! と叫びださなかったのは上出来であろう。
帯刀は紙と筆を用意した。
「挨拶あって然るべき宮仕えのはじめですから、名簿も奉ろうと存じ上げております。病気が重かった妻が旅の途中で亡くなりまして、今は話相手をする人も無い私のところでは、ただもうこの様な有様です。
――浅茅だけが繁るこの宿には白露がおくばかりで、翁の私には心寂しくもの憂いのです―――浅茅を刈り捨ててくれませんか」
「どうですか父上」
「うむ、こんなところだろう」
真菅はそう満足そうに言うと、帯刀の書いたそれを
それをちらと見る帯刀の表情は微妙に歪められて行く。
「必ず御返事をもらって来るように」
そう言って真菅はなかとに銭五貫、手引きをした女に米を二石やった。さすがに、銭五貫はなかととしても嬉しかった。
絶対に真菅にはあて宮は渡らないとは思うので、もらえるものはもらっておけばいい、と思ったのだ。自分は別に真菅の家の使用人ではない。彼にとってはあて宮につながる貴重な糸なのだから。
*
戻ってからなかとは早速、孫の「たてき」を呼んで訊ねた。
「あて宮さまはどちらにいらっしゃる?」
「侍従の君と御琴を弾いてらっしゃいます」
「そう。お前、人気の無い隙を狙って、これは大君の姉上さまからだ、と言って渡しなさい」
何だろな、とたてきは首を傾げながらも、言われた通りにあて宮に文を渡した。
あて宮は黙って文を開けると「きゃ」と小さく叫んだ。
たてきは女主人のその様子に慌てて文をのぞき込む。思わず顔をしかめた。
まるで鬼の目を潰し掛けた様な筆跡で、その文は書かれていたのだ。
「たてき! これが姉上さまの御文ですか!? なかとが何処からから持ってきたものでしょう!」
いつになくあて宮は強く言って、たてきに戻した。