「色々とお文が届いておりますよ」
中の大殿の女房が、女君達へと沢山の文箱や花の枝を差し出す。
見てもいい? と今宮と一宮は問い掛ける前から手を出していた。姫様、とたしなめる声がするが、あて宮は鷹揚にうなづいた。
「ああまず東宮さまからね…
『―――長いことのたとえに菖蒲の根を引いてみるけど、同じように長い五月雨を今も堪え忍ぼうとしているのです。可哀想だと思いませんか? やはり早く入内して欲しいものです』
これでもう東宮さまからは何度目かしら」
今宮は一宮のほうを向く。一宮は小首を傾げる。
「もう結構な数になります」
そう答えたのは中納言の君だった。東宮からの文は彼女が受け取っていた。あて宮は少しばかり考えていたが、それでも返答は遅くはない。
「―――申し上げたいことも申し上げずにいるということは苦しいものでございます。苦しい思いに悩む辛い身の私こそ、世の中のためしにもなるのでしょう」
「あて宮の何処が苦しい思いをしているって言うのかしら」
今宮はつぶやく。
「これだけ沢山の人々に思われて」
「あ、でも私は一人のひとで――― 一人のひとからがいいなあ」
一宮はそう言って両手で口を押さえる。
「一宮にはきっと帝が素晴らしい方をお決めになるでしょう」
あて宮はうっすらと笑う。
「そこが、ねえ」
一宮はそのままふう、とため息をつく。
「お父様のお決めになった方を、私が好きになれるかどうかが問題よね」
「だったら最初から、一宮、帝のもとへお願いに上がったら? 仲忠さまがいい! って」
「そんなこと!」
一言鋭く口にすると、一宮は顔を真っ赤にして押し黙る。
「それで、他のお文はどうなの?」
あて宮は他人事の様に妹に問い掛ける。はいはい、と今宮は続ける。
「兵部卿宮さまね。
『―――今まではよそ事とばかり思っていましたが、繁っている木… 沢山の嘆きは夏山にはかりにあるのではなく、私の身にもあるのでした』」
あて宮は黙って首を傾げる。返歌は無い、の意だった。
「それじゃあ次は右大将さまから。
『―――ふさぎ込んでぼんやりしておりますのに、やっぱりあなたを思い続けているのですね。夏の夜は長いと思いますよ』
ですって。兵部卿宮さまよりは率直よね、さすが」
しかしあて宮の反応は変わらない。今度は一宮が一つを取る。
「平中納言さまからよ。
『―――あなたを思ってふさいでいるので、この五月が惜しまれます。この月ならば「あふち」の花の名だけでも聞くことができますから』」
やっぱり返歌は作らないつもりらしい。
*
別の日に、兵衛の君が実忠からの文を持ってきた。
「―――涙の川に身は沈んでしまったはずなのに、浮けば浮いたで物思いに悩むのですね―――
自分の身の破滅になることも思わず、ただ志が届かないのが何より残念です…」
兵衛の君は実忠から特に、と頼まれることの多い女房だった。
当初は今宮と同じく、困った人だと思った。あまりにも一途なのだ。
一途ならば、前々から仲良く暮らしている妻や子の方にその気持ちを向ければいい、と彼女は思うのだが、どうもそういう訳にはいかないらしい。
「男の気持ちって判らないわ」
同僚の孫王の君や木工の君へと彼女は漏らす。孫王の君は仲忠に、木工の君は仲頼に目をかけられ、通じている。
「それはだって、私達女と、殿方じゃあ違うわよ」
少し前の季節に、三人して火桶を囲んでいた時、木工の君は言ったものだった。
「文に託した気持ちがそのまま押さえきれず、私達の様な女房へと向かうことだってある訳よね」
木工の君は火箸で灰をつつきながら、ため息をついた。おかげで軽く灰が飛んだ。軽く目に灰が飛び込んだ恨みか、兵衛の君は問い掛けた。
「そういうことでもお有りかしら?」
「さあ、色々じゃあなくて?」
木工の君はこの正頼邸に来る前にも、幾つかの屋敷で女房を勤めてきた。その時の
「気の利く」という評判がこの屋敷に彼女を呼び寄せた。
実際、仲頼は木工の君に切々とあて宮への思いを訴えると、よくその思いが余ってか、そのまま彼女を押し倒してしまう様なこともあった。
彼女もそのあたりはよく判っているので、割り切った気持ちで彼の相手をすることがしばしばだった。
気持ちが自分の上に無いことが勿体ないとは思ったが、その一方で役得、と思う自分にも彼女は気付いていた。
「実忠さまはそういうことは全くなさらないわ」
「全く!」
「全くじゃなかったら、口が裂けても言わないわよ」
兵衛の君は肩をすくめる。
「さてそれはどういうことかしら」
孫王の君はふふ、と笑う。
「好意的に考えれば、あて宮さま以外の女は今はどうだっていい、北の方すらってところかしらね」
「逆に取れば、あなたに魅力が無いだけだったりして」
「ひどーい」
兵衛の君は両手を握り締めて木工の君の背を軽く叩く。
「でも兵衛さんは可愛らしいもの。あの方があて宮さまに熱心過ぎるからだと思うわ」
「孫王さんは優しいのね。それに比べて木工さんは」
「何? 私が優しく無いって言うの?」
「だって」
そうこう言いつつも、彼女達三人は仲が良かった。
しかしそんな仲の良い二人にも、兵衛の君はたった一つ言えないことがある。
―――仲純の思いである。
*
左大将邸では六月には納涼会も行われた。
とてつもなく広い、この屋敷の大殿には、広く深い池がある。
池の岸辺には様々な木々が植えられている。
また、水の上に枝を差し出している様な形の池の中島には釣殿があった。一方が水に、また一方が中島に渡されているものだ。
正頼一家は夏の暑い盛りになると、そこへ舟を数艘浮かべて浮橋の様にして涼むのが常である。
いくら住まいは夏を基本に作られているとはいえ、暑い時は暑いのだ。
そんな日が続いたある日のことである。
「今度の宮中の休みはいつだったかな、仲純」
釣殿でゆったりと風に吹かれながら、正頼は気に入りの息子に問い掛けた。
「確か、十二日かと」
「ふむ」
「何か、十二日になさるのですか?」
「うむ。今年の夏は特に暑いしな…… 休みなら、誰も参内しないだろうから、この釣殿で納涼の宴をしようか」
「宴ですか」
ここしばらく体調の悪い仲純には、宴と聞いてややげんなりとするものがあった。
「何だ、嫌なのか?」
「いえ、そういう訳では」
「そなたは最近調子悪そうだな。やはりこの夏の暑さが身体にきているのだろう。この際少し皆で楽しく騒いで気力をつけねばな」
できれば蒸し暑い空気に包まれた邸内でぐったりと休んでいたい。内心仲純はそう思っていた。
だが顔は微かに笑う。静かにうなづく。父を心配させてはならないのだ。彼は自慢の息子なのである。
彼の体調を崩しているのは、間違いなく妹への恋である。決して実ることの無い恋である。おそらくは、自分自身それが実らないことを望んでいる―――
いずれにせよ、それを誰かに気取られてはいけない。絶対に。あて宮本人と、相談したちご宮以外には。父には特に。自分は父の自慢の息子なのだから。
上に六人も居る兄よりも将来を嘱望されている息子なのだから。
そんな仲純を見ながら、正頼はいい加減身を固めたらどうだろう、と思う。
だがそこで口に出すことはしない。
息子は思慮深い。仲の良い兄息子も長い目で見ることを勧めた。大切なことは自分で気付くだろう、と思う。自慢の息子なのだから。
だから彼は気分転換の宴のことを口にした。
「果物などを沢山用意してくれ。できれば氷室から氷を出して、削ったりするのもいいが」
「そのあたりは母上と相談致しましょう。女君達もでしょうか」
「無論だ。ことに女達には暑いのは堪えるだろうしな」
「では、甘いものを沢山用意させましょう」
「うむ」
正頼は満足そうにうなづいた。
*
やがて仲純の使いで、十二日、婿君達が釣殿へとやって来た。
女君達も呼ばれて行くが、その時には、舟を編んで橋とし、その上に車を渡した。
召使達は浮橋から渡って行く。
女君達は釣殿の母屋に御簾を掛け、几帳を立て渡したところに。
上達部かんだちめや皇子達は
そこで皆で管弦の遊びを始めるのだ。
「あれは一体誰の箏かな」
女君達は琴をあれこれと演奏する。中君から十四の君までの女君、皆それぞれが様々に琴も箏も和琴も学んでいる。
「あの箏の音は実に良い感じだ」
「あれがあなたの北の方ですか?」
男君達は、自分の妻の音はどれか、と噂のあて宮の音は聞こえてくるのか、等と話す。
やがて笛や琵琶、箏を手に取る者も出てきた。
一方では池に投げ網をしたり、鵜を放ったりして、鯉や鮒を狙っている。大きな獲物が目の前に現れるごとに「おう」と声が上がった。
そんな彼等の前には
一段落した頃に、正頼はふと切り出した。
「そう言えば仲純よ、今日の様な集まりに、風流人が一人も居ないのは寂しいことではないか」
そうだな、と誰ともなく声が上がる。
「お前は確か仲忠と兄弟の契りを結んだ仲だったな」
「……ええ、父上」
「こういう時には必ず彼を呼んで来るものだぞ」
そう言って正頼はにやりと笑う。
慌てて仲純は今を時めく風流人の三人、仲忠、仲頼、行正の三人を呼び寄せた。
「どうしたの、仲純さん、顔色が良くないですよ」
仲忠は出会うが早々、率直にそう言った。
君のせいも多少あるかもしれないね、と仲純は内心思ったが、口は優しく「そんなこと無いよ」と返していた。
「いや本当だ。宴に誘ってくれたのは嬉しいが、…お前本当に、ちゃんと寝てるのか?」
「あまり。やっぱり暑さがいけないんだね」
「じゃあ今日は一杯騒いで、ぐっすり眠ろう。それがいいですよ」
行正も言う。
そうだね、と仲純は皆に笑いかける。
恋心を彼等の様に軽々しく口に出せないことの辛さは、仲純を自然、この三人から浮き上がらせていた。
「仲純さん」
不意に呼び止められ、仲純ははっとする。
「あまり、思い詰めない方がいいですよ」
「何を―――」
「あ、あそこに女君達がいるんですね」
ぱたぱたと彼の前を仲忠は通り過ぎて行く。
仲頼は御簾の向こう側に居るあて宮を思うと胸がときめいた。
行正はそんな友人を見ながら、しはしば顔を合わせる大殿の上の息子達に笑みを送った。
そして仲忠は。
彼はにほ鳥が鳴くのを聞いて、あるか無きかくらいのほのかな箏の音に合わせてこう詠んだ。
「―――自分だけだと思ったのに、にほ鳥が一羽寂しく鳴いていることだなあ」
するとあて宮が琴をもって返してきた。
「―――にほ鳥の様ににいつも浮いた心なのに、高い声でおなき下さらないで」
周囲の者達は驚いた。おそらく、その場で驚かなかったのは、当の仲忠とあて宮だけではなかっただろうか。
琴で有名な仲忠に、琴で返すあて宮―――
二人とも美しい。知っている。自分だけは良くは知っている!
何て似合いなんだ。どうして似合いなんだ!
仲純は胸の中に、煮えたぎる様なものを感じた。
と。
「仲忠さま、帝のお召しです」
音が止まる。
急な内裏の使者だった。
「……ああ残念だな。こんな時に…… 左大将どの、残念ですが、これで失礼致します」
全くだ、とその場の皆が残念がる。
しばらくして、正頼は長男の
「そう言えば
「そうですね…… 賀茂川の方には思い当たりません。右大将どののいらっしゃる
うむ、と正頼はうなづく。
「そうだろうとも。あの右大将どのが心を込めて造らせたと聞いているところだ。あの方は趣味芸道にも優れ、公人としての器量も備わっている方だ」
正頼はふと遠い目になる。
「人柄について考えてみても、皇子達や上達部の参内なさる中で、右大将と仲忠が一つ車から出てきた時の様子は殆ど稀な程の見事さだったなあ……」
最後の方はややつぶやきに近かった。
「中でも侍従仲忠を見た時には、いつもは欲しいと思わないのだが、彼のためにいい娘が欲しいと思ったよ」
それを聞いて仲純はびく、と肩を震わせた。
―――父は仲忠になら、あて宮をやってもいいと思っているのだろうか。
もし自分が正頼の立場だったら、と仲純は考える。あの青年にだったら、間違いなく最愛の娘を託すだろう。そう思うと胸の痛みが増す様に思えた。
「どうした仲純。顔色が悪いぞ」
父の声にも、ようようこれだけ答える。
「やはり今年の暑気はきつうございます。まだまだ宴にも心が動かされますが、私はここで……」
「そうか。しっかりと身体をいたわるのだぞ」
心の底から案じている声が、仲純には余計に痛かった。