一方ちご宮はちご宮で、口に出せない懸想人のことを思っていた。
同母兄、
大宮腹の七郎であるこの兄は、この時二十五歳。自分やあて宮とは一回り違う。
大勢居るきょうだいの中でも最も出来が良く、父左大将にも母大宮に将来を期待されていた。
ただ一つ、両親を嘆かせていることがあった。
彼には浮いた噂の一つも無いのだ。
釣り合う女君が居ないからだろう、と当初は両親も呑気に構えていたらしい。いざとなったら、子供さえあればいいのだ、と。
だが召人の一人も居ない、という話になった時に、少しそれは困ったものではないか、と思い出した。
まさか女が嫌いなのでは…
いやそうではない、と言ったのはやはり同母兄の一人、
「誰か心に秘めた女性が居る様です。奥ゆかしい奴なので、はっきり妻にできると確信できるまで、動くことも誰かに相談することもできないのでしょう」
そう言われればそうかもしれない、と両親は思った。
仲純は生まれながらの才はあるし、それ以上に人一倍の努力家だった。
周囲の者への気配りも、実に自然であり、もの柔らかな物腰は、宮中でも人気があった。
無論帝からのおぼえも非常にめでたかった。
現在、仲忠・仲頼・行正に仲純を加えた四人の優秀な楽人が帝にお願いすれば、叶わない人事は殆ど無い、と言われていた。
無論そこには、帝に願って叶うことと、そうでないことをきちんと把握し、根回しをした上でのことなので、一概に彼等が偏愛されていたからとは言い難い。
それでも同じ条件で何かしらの頼みがあったなら、帝はまず確実にこの四人の申し出を呑むだろう。そう誰からも考えられていた。
その兄から、ちご宮はある時相談を受けた。
何だろう、と彼女は思った。自分ごときに何か相談する程の兄ではあるまい、と。
確かに最近大人の仲間入りはしたし、結婚もした。
だが未だ昼間は、夫の居る
結局はまだまだ子供なのだ。
しかも妹の様な楽の才もある訳でもない。一体そんな自分に。
仲が悪い訳ではない。元々楽器を教えてくれたのは彼なのだ。今でも時々一緒に合奏する。
だからこの時も、ただそんないつものことだと思っていたのだ。
二人きりということだけが、やや気になったが。
「本当にこんな風にお兄様と合わせるのは久しぶりですわね」
「そうだね。最近は少し忙しくてね…」
「嘘」
くすくす、とちご宮は笑う。
「どうして笑うの?」
「だってお兄様が忙しいのはいつものことじゃないですか。今更言うことではなくてよ」
「……そう…… だったかな」
「最近では、同じ侍従の仲忠さまともずいぶんと仲がおよろしいということではないですか。仲忠さまのことは、一宮がずいぶんと知りたがってますのよ。もっとちょいちょいいらして下さいな」
「仲忠か…… そうだね」
「おにいさま!」
はっとして仲純は顔を上げた。
「私の話をちゃんと聞いてくださっているのですか?」
「……いや、ごめんごめん」
「それとも何か、物思いでもあるのですか。私に隠し事など、水くさいですわ」
「うん……」
彼は少し躊躇った後、口を開いた。
「ちご宮、君にぜひ話したい話したいとは思っていたんだ」
「あら、わざわざ私にですか?」
「君じゃないと駄目なんだ」
「……一体、本当にどうしたというのですか?」
その時突然彼は
「聞いてくれ、ちご宮」
「は、はい?」
「僕はあて宮に恋している」
「は?」
ちご宮は思わず問い返していた。
「あて宮が好きなんだ。もうずっとずっと」
「って、お兄様、あて宮はあちらの―――
「そんなことは判ってる」
彼は両手で顔を覆った。
「だからこそ、僕達はそれ程の隔ても無く育って来た。彼女が年を追う毎に美しくなって行く様も、他の懸想人が羨む程に見ることができた。だけどそのせいで、僕は―――」
「お兄様」
困った、とちご宮は思った。
「判っているんだ。これはいけないことだと。だけどこの口が、あて宮に向かって困ったことを言ってしま…… いそうなんだ。いや、言っているかも」
「まさかお兄様、あて宮に――― 言ったのですか?」
「あれは賢い子だ。僕の言うことの意味くらい判るだろう」
「そうでしょうか」
あの冷淡なまでの懸想人に対する態度を見ていると、ちご宮にはそうは思えなかった。
「いや判っている。判っていてあて宮はどうすることもできないんだ。僕が戯れで恋の歌を投げかけているのか、それともいけない心持ちで、それでも呼びかけずにはいられないのか、問うこともできないのだろう」
そう言われればそんな気もする。
妹の今宮はあて宮が何を考えているか判らない、とよく自分に言う。
だがそれは表に出さないだけで、中では深く考えているのかもしれない―――
「だからせめて、君の口から、僕が本気であて宮を思っていることを伝えてはくれないだろうか」
「私がですか」
彼女は露骨に顔を歪めた。
「そう、君だ」
「でもどうして私なのですか。今宮も女一宮も―――いえ、彼女達の方が、夜も一緒に休んだりして、仲が良いでしょうに」
「あの子達はまだ結婚していない。この様な話を聞かせるのは困りものだろう」
「私ならいいのですか?」
「少なくとも、君は誰かと一緒に居るということの意味を知っているだろう?」
知っている。夜はそれでも夫と共に過ごすのだ。まだ幼いからと、自分をいたわってくれる夫を、彼女は嫌いではなかった。
「お願いだ、頼む、ちご宮。最近の僕は、見かけこそそれまでの僕だが、気持ちはもう全くの別人になってしまったかの様だ。あて宮のことを考えると幸せだ。うっとりとするよ。だがその一方で、それが絶対に叶わない恋だと思うにつけ、僕の胸は焼ける様だ。張り裂けるようだ。……きっとこのままでは僕はいつか、死んでしまうよ」
「お兄様!」
そんなことは言わないで、とちご宮は琴を手放し、兄の両腕を掴む。
「しっかりなさって。そんなことでどうなさいます。お兄様はお父様もお母様も、この家の中で誰よりも愛し、期待している自慢の方ではないですか。死ぬなんて、容易く言わないで下さい」
仲純は首をぐらぐらと横に振る。
「……いやもう駄目だ。僕は必ず死ぬ。いや、死にたいんだ。叶わないならもう―――」
視線が泳ぐ。
どうしよう、とちご宮は思った。
人払いをさせているので、もしここで彼が狂乱したとしても、止めることもできない。
だがそもそも自分がどうこうできることなのか?
いや無理だ。決まってる。
そしてそのことは、仲純自身がよく知っているのだ。
彼が言っているのは愚痴だ。
どうにもならないことに対する絶望を、勝手に彼女に語っているだけなのだ。
それに気付いた時、ちご宮は奇妙に冷静になっていく自分に気付いた。
「判りました、お兄様。自分の心であっても、恋ばかりはどうにもなりませんものね。何かのついでに、あて宮にお話致します」
「本当に?」
かっと目を見開く兄の顔が、無性に気持ち悪く感じたのは、この時が初めてだった。
*
あて宮にはその後、折りを見て話した。
気付いてはいたらしい。どう答えたものかと考えてはいた様である。
「返事くらいはした方がいいと思うの」
ちご宮は妹に言った。
「しなければしないで、どんどん思い詰めて行くだけだから」
「……そうね」
ふらり、とあて宮はいつもの様に首を傾げる。
やはり何を考えているのか判らなかった。
*
「実忠さまを今宮が嫌いなのはまあ判らなくもないけど」
女一宮は同じ歳の叔母に向かって問い掛ける。
「他の方はどう?」
「だから言ったじゃあないの。行正さまは声はいいけど軽薄そう、って」
「だってあなた、ここは嫌ってことばかりしか言わないじゃない。私は好きなとこは無いのかしら、って聞きたいの」
ね、と軽く拗ねた顔をして一宮は今宮に顔を寄せる。
「でもねえ一宮、好きってのは私には難しいわ」
「そういうもの? 私はやっぱり仲忠さまが一番いいなあ」
「まああの方は特に嫌なところは見つからないですからね」
ちご宮もうなづく。
「ただ少しばかり、おっとりしすぎとは思うけど」
「そこがいいんじゃないの!」
一宮は両手を握り締め、むきになる。今宮はそれを見て可愛いな、と思う。
「幼い頃に山の『うつほ』に棲んでたことが卑しいだのどうの言う人はいるけど、そんなこと無いわ。そこで母君に琴を一心に学んでいたって素晴らしいことじゃないの」
「それはまあ、そうだけど」
ね、と一宮は同意を求める。
何処をどう見ても、これは恋する乙女だ、と今宮もちご宮も視線を交わす。
「そのお父君はどう?」
ちご宮は右大将兼雅に話を切り替える。
「そぉねえ、あの方はどっちかというと求婚自体が礼儀って感じよね」
「まあ」
あて宮はくす、と笑う。
「そう見えて?」
「あら、あて宮はそうは思わないの? さぁ、とか何とかで誤魔化すんじゃないわよ」
「そうね」
ふっとあて宮は目を伏せる。
「あの方は、部下であるうちのお兄様を使って文を届けさせたりはしているけど、私も本気ではないと思うわ」
「そうよね!」
今宮は大きくうなづく。
「あんなに三条の奥方を大事にしている方が、今更あて宮を、なんてありえないわ! それに上司だからって、何かそれを利用するあたりが嫌よ」
「私もそう思うわ。もっとも、それを言ったら、平中納言さまもちょっとそういう感じよね」
ちご宮はまた別の人物を話に持ち出す。
「そうそう」
だいたいね、と今宮は指を立てる。
「あの方は以前の右大将さまと同じよ。名の知れた女性なら誰だっていいんだわ。皇女だろうが、
「実忠さまとは逆ね」
あて宮は短く言う。
「そうそう。だからあのひとの本気は信じられないと私は思うわ。実忠さまのあのしつこさはちょっと身震いものだけど、ああいうのも嫌ね。兵部卿宮さまもそう。ああ! どうして男ってああいう人が多いのかしら」
「あなた本当、嫌なものばかりじゃない、今宮」
ちご宮はそう言うと、袖で口を押さえ、ほほほほ、と高らかに笑った。
「あなたのきょうだいもちょっとね、一宮」
弾正宮と呼ばれている、帝の三宮、女一宮の一番上の兄のことをちご宮は次に口にする。
「あら、どうして? 身内ならそれはそれで気楽でいいのではないの?」
昨年の九月、彼は月の宴の時、あて宮をつい垣間見てしまったらしい。
そこにちご宮も今宮も一宮も居たにも関わらず、彼の目はあて宮にしか向かなかった様だ。
彼は菊の花を「あて宮に」と差し出したのだが、あて宮は書き付けられた歌の方には目もくれず、つれない歌をただ詠んだだけだった。
ちご宮は書き付けられたそれを見て、慌てて取りなすような歌を詠んだ。
弾正宮は二人のその返歌を見て「空しい」とばかりに戻っていった。
あのままあて宮の歌だけを見たら、歳上の甥は一体どういう行動に出たのだろう。
そう思うと、ちご宮は今でも冷や汗が出る。
と同時に、あて宮は何を考えているのか、という気も起きる。
「身内でも頼りになる方ならいいけどね。それに同じきょうだいというなら、それこそ、東宮さまだって一宮、あなたにはきょうだいでしょう?」
「まあそれはそうだけど」
一宮は軽く首を傾げる。
同じ母を持つ弾正宮はこの屋敷に棲み、時々顔も合わせて心易いが、中宮腹の東宮は、兄とは言え、遠い存在だった。
「まああの方は、身内というにはおそれおおいけど…… ともかく、弾正宮はもう少し大人になられたら、って感じね」
今宮は決めつける。
「じゃあそういうあなたからしたら、仲頼さまは?」
一宮は少しばかり不服そうな顔で、今宮の顔をのぞき込む。
「仲頼さまは、そうね、他の人達に比べればいい方だわ」
「あら、今宮の合格点が出たわ」
「でも駄目。あて宮には駄目よ」
「どうして?」
目を丸くして一宮は問う。即座に今宮は答える。
「何言ってるの一宮、あの方にも北の方とお子様が居るじゃあないの」
「あ、そっか」
うんうんと一宮はうなづく。
「あんまりあの方が蹴鞠だので元気だから、ついそういう感じがしなくて」
「北の方はたしか」
「宮内卿の
そうだ、と今宮は思う。
入内を勧められた程の姫だということだが、宮内卿は決してその話を進めなかった。
美しい素晴らしい女性だ、ということだけでは駄目なのだ。
在原家は決して裕福ではなかった。
充分な後見無しの入内など、普通の結婚をするより不幸が目に見えている。
普通の結婚においてもある程度当てはまる様で、素晴らしい女性だという評判は立っていても、現在のあて宮の様に求婚者が沢山現れはしなかった。
ちなみにその頃、源少将仲頼は様々な女性の元を訪ね歩いていた。
高貴な女性も居たし、裕福な後見を持つ者も居た。
だが彼女達は仲頼には物足りなかったらしく、通い続けることはなかった。親達は歯がみする思いだったらしい。
にも関わらず、その宮内卿の娘にぱ殆ど一目惚れの様なものだったという。しかもその後はずっと彼女一筋だということだった。
どうも彼にとっては、後見というものはさほどに問題ではなかったらしい。裕福な大臣家に生まれた彼らしいと言えば彼らしい。
それはそれで今宮には好感が持てるところだった。
それから五、六年、慎ましくも幸せに暮らし、子供も姫一人、若君二人が居るという。
さてそこまでならいいのだ。
仲頼は帝のおぼえめでたい。そして幸福な家族を持っている。
いい人だなあ、と今宮は童女の頃からずっとそう思ってきた。
だが今年の正月の賭弓の儀の時に、彼はあて宮を垣間見てしまった。
これがいけなかった。
そこでちょうどその場に居た木工の君にこう言ったという。
「自分という存在をあて宮に知ってもらいたい」
また別の女房に聞くと、仲頼は自分達他の娘も居たのに、あて宮にしか目が行かなかったらしい。
それを聞いて今宮は何となく、むっとした。
別に仲頼が好きだった訳ではない。
ただ何故か自分達が一緒に居ても、垣間見る男達は引き寄せられるかの様にあて宮にしか目が行かない。
微妙なのだ。
「そう言えば、仲頼さまは、仲忠さまや行正さまと一緒に
思い出した様にちご宮は言う。
「あ、そうそう。確かお三方からそれぞれに、吹上の様子をしたためた文が来たんじゃなかった? あて宮」
「どうだったかしら。木工?」
「はい」
控えていた木工の君が山と積まれた文を差し出す。
「いい加減ご覧になって下さいと申し上げておりますのに…」
これが源少将さま、これが兵衛佐さま、これが藤侍従さま、とそれぞれの山を彼女は差し出す。
「ちょっと、あて宮、これだけ来ているのに、まだ何も見ていないの?」
今宮はややうらめしそうな声で問い掛ける。
「ごめんなさい、琴を弾いてたら忘れちゃっていて」
「忘れていたも何もないわ。私達も、吹上のこと、聞きたい!」
一宮は「いい?」と問い掛けると、返事も待たずに山に手を伸ばす。
「はい今宮は仲頼さま。ちご宮は良正さまをお願い」
「そう言って一宮、仲忠さまのを独り占めしようって言うんでしょ」
「無論ちゃんと回すわ。でも最初は…… いいでしょう?」
語尾が小さくなる。肩をすくめる。
その様子がとても可愛らしかったので、二人とも「まあいいか」という気持ちになった。
「へえ、涼の君って方、そんなに琴が素晴らしいんだ」
今宮はつぶやく。
旅の発起人の書いたこの源氏の君は非常に彼女の興味を引いた。
ちら、と視線を移すと、一宮は熱心に仲忠の文を見ている。美しい文字。今宮はそれが一宮へのものでないことを少しばかり残念に思った。
「ああ、お三方とも、お帰りは四月になりそうね」
ちご宮は嘆息した。