「そう、その方だ。あて宮。
「ああそうだ」
仲頼はうなづく。
「今の都で美しい人と言えば何と言っても左大将の九の君、あて宮だろうな」
「氷室に眠る雪の様に冷たい方とも聞いていますが」
それは、と男達は顔を見合わせる。
「それもまあ…… 嘘ではないですね」
「そうそう。私なぞ、最初に使った手段がいけなかったのでしょう。すっかり嫌われてしまっています」
ねぇ、と行正は仲頼と顔を見合わせる。
「そうだよな。子供を使っちゃいけないよな」
「たぶん今、あて宮からの返事を一番良くもらっているのは」
二人の指は、仲忠を指していた。
「僕は別に」
「嘘言うな。俺の懇意にしている女房が、そう言っていたぞ。お前への文は楽しそうに見るとか、返しをきちんと書くとか」
「僕はただ。琴のことを書くからじゃないのかなぁ」
「琴のことを?」
ええ、と仲忠は涼の方を真っ直ぐ向く。
「涼さん、あて宮の琴は本当に素晴らしいのです」
真剣な眼差しがそこにはあった。
「本当に。僕の拙いものなど比べものにならないくらい」
「おいおい、お前がそれを言うのかよ」
「だけど本当のことだもの。仲頼さんだって行正さんだって、春日詣の時には聞いたでしょう?」
むむ、と二人は押し黙る。
「それにただ、僕は琴の話をしたいんだ。彼女とは」
「ふぅん、それじゃあお前は、あて宮の婿になりたいとは思ったことはないのか?」
「それは……」
「なかなか楽しそうな話ですね」
助ける様に、涼は言葉を差し挟む。
「しかし美しい左大将の姫君は、琴も素晴らしいのですか…… 私も興味が湧いてきました」
涼はふっと笑い、扇を口元に当てる。
「そうだなぁ…… 涼さんとあて宮と、一緒に演奏ができたらどれだけ楽しいだろう」
うっとりと仲忠は目を細めた。
そのまま天にまで昇ってしまいそうな友人の肩を仲頼は強く掴み、大きくうなづく。
「判ったよ。お前の気持ちは純粋だ。だが世の中はお前の様な奴ばかりじゃあない。例えば
「
「どういう方ですか?」
涼は問い掛ける。
「何と言うか……」三人は顔を見合わせて言い淀み、苦笑した。
その時ははっきりしたことが三人の口から出ることはなかった。
*
吹上では三日の節句を皮切りに、様々な宴が行われた。
浜のほとりの花が盛りになった頃には、林の院に皆、直衣姿の徒歩で出向いた。
十二日には、渚の院で上巳の祓が行われた。漁人や潜女を集め、大網引かせなどをさせた。
渚の院は林の院と同じ東の浜辺にあるが、潮の満ち引きする辺りに大きく高く作られている。林の院の様に華やかではない。
見える景色と言えば、遠く見える島々、布で頭を包んだ潮汲みの女達、点々とある小さな漁人の庵の軒に海藻が沢山掛けて干してある――― その程度だ。
だがそれが都から来た客人達の目にはひどく珍しく面白いものとして映る。
何も無い所だけに、宴の際の楽が一層心に染み入る。
夕暮れになって、大きな釣舟に漁人の使う栲縄を一舟いっぱいにたぐり集めて漕いで行くのを見た仲頼がふとこう言った。
「この縄はあんなに長い様に見えるけど、俺の志には及ばないな」
それを聞いた涼は詠んだ。
「―――いらした心のうちは判らないけれど、その長い栲縄にまさるとおっしゃる志が嬉しいです」
「僕等の気持ちは縄以上ですよ」
仲忠も笑って言う。
「―――志の長さと比べちゃいけないけど、比べたってことで、この栲縄は有名になるだろうなあ」
仲頼がそう詠んでいるうちに、陽も暮れてきた。
詠んだ歌そのものは技巧じみていて、やや気取る所があったが、涼はこう言ってくれる彼等のことが本当に嬉しかった。
海の上を浜千鳥が飛んで行く。それを見て彼はまた詠んだ。
「―――せっかく来てくれた友達が都鳥の様に一緒に帰ってしまったら、残された自分は泣く泣くこの浜に暮らすことだろうな」
すると仲忠はすかさず返した。
「涼さんをどうしてそのままに置こうって言うの。都への雲路を翼を連ねて一緒に行きましょうよ。遊び仲間の同じ千鳥ではないですか」
「そうそう」
仲頼も加わる。
「―――都鳥が千鳥を自分達の翼の上に据えて都に帰ってこそ、吹上の浜の土産ですと言って、帝にさしあげることができるんだし」
「―――あなたをお連れしなかったら、私達は帝に何とお答え申し上げましょうね」
行正も続く。
「必ずいつか、あなたと都で暮らしたいんです」
仲忠は力を込めて言う。その瞳の強さに、涼は一瞬胸の奥に跳ねるものを感じた。
*
二十日には藤井の宮で、藤花の宴が行われた。
紀伊守と権守もそこにはやってきて、少将の顔を見て驚いていた。
「おやまあ! こちらでお会いできるとは思ってませんでしたよ」
「いやあ」
あはは、と仲頼は笑う。
「こちらから参上しようと思っていたのですが、すみません」
「いやいや。ところで都では変わったことはありましたか? おお、左大将殿はお元気でしょうか」
「変わったこと…… まあ、あると言えばあるし、無いといえば無いし… あ、左大将どのはお元気ですよ」
「こちらはもう大変ですよ」
紀伊守は嘆息する。
「前の守が乱れた政治をした後の赴任でしょう? そこにまた朝廷の使が入り混じって騒いで、今はもうその後始末で大変ですよ。何だか都の遊びやら何やらすっかり遠いものになってしまって、今や田舎者です」
「あー…… そう言えば、前の紀伊守が、何か訴えたとか、騒いでましたなぁ」
嫌だ嫌だ、と仲頼は手を広げる。
その様子を見ていた種松は、まあまあ、とばかりに二人を宴の席へと導いた。
*
三月末には客人達もそろそろ都に帰らねばならない、ということで、鷹狩りや春を惜しむ宴、名残の宴が開かれた。
「それにしても」
仲頼はその宴で貰ったものをずらりと見渡しては嘆息する。
「涼どのは、本当に大変な『財の王』だよなあ。全く」
「そうですねえ。種松どのがどれだけ涼どのを大切にしているのかがよく判ります」
仲忠は何も言わず、そっと館から抜け出した。
*
「やっぱり居た」
夕暮れの浜辺に、彼は佇んでいた。
「仲忠君」
「何となく、涼さんはこちらに来てる様な気がして」
「私が?」
仲忠はうなづく。
「もう一緒にこの浜を見られないのかな、と思ったし。―――僕は、この時間の浜が一番好きだな」
「そうだろう? 一番綺麗だと私も思う」
夕暮れの海。どんな空であろうと、そこには美しさがある。
ちょうどこの時間の海は凪ぎ、空は穏やかな色の移り変わりを見せていた。やがて星が瞬く藍から次第に紅が重なり、陽の朱に収束するだろう。
「涼さんは都に出て行こうとは思わないの?」
「田舎者よ、という目で見られるのが怖いんだ。前にも言ったろう?」
「涼さんが田舎者と言うなら、僕も田舎者だよ」
「君が?」
仲忠はその場に座り込む。ざく、と砂のきしむ音がする。
「僕は確かに、右大将の藤原兼雅の子だし――― お祖父様はかつて遣唐使を勤めた清原俊陰。血筋は都人。それは嘘ではないんだけど」
「では何故」
そんなことを、と言いかけた彼の言葉を仲忠は聞かなかった。
「僕は生まれてからかなりの年月を山で過ごしたの」
「山」
そう言えば、そんなことを言っていた様な気がする。涼は記憶をたどる。
「聞いたこと無い? 清原の祖父が亡くなってから、家は恐ろしく貧しくなったのだ、と」
そう、その噂だ。確か。
「父上と母上がその貧しくなった清原の京極の屋敷で出会って、一晩だけ語り合って、僕が生まれたらしいの」
凄い偶然、と仲忠は笑った。逆光ではっきりしなかったが、それまでに見たことの無い類の笑みだった。
「でもその頃、母上の世話をするのは、たった一人、
「一人だけ」
「ええ、一人だけ。僕の母上は何も出来ない人だったから」
仲忠は言葉に力を込めて言った。
「嵯峨野は大変だった様だよ。家に残っていたなけなしの物を何とか処分して金をつくり、僕が生まれるための用意をし、それすらどうにもならなくなった時には、自分の娘に食糧や衣類を頼んだりしたみたい。母上はその時も、ただ困ってぼんやりとしていることしかできなかった」
「それは」
「うん、判ってるんだ。母上は姫君で、姫君ならそれは仕方がないことだと。だけど嵯峨野は年で――― 僕が三つか四つか…… そのくらいの時に、流行病で死んだ」
「それで君は、山へ」
「都の人々にはこう噂されていると聞くんだけど」
冷たい声だ、と涼は思う。
「僕は
「違うの?」
「そんなことある訳ないでしょ」
仲忠は言い放った。
「あれは父上の作り話。僕はただの人間で、その頃はただの子供。いや、何もできない子供ですらなかった。ただね、無闇に可愛らしかったらしくて」
口元がくっ、と上がる。
「母上のために食べ物を探したのは確か。だけどそんな奇跡は起きないでしょ。だけど食いつないだのも確か」
「では」
「貰ったの。親切な人達から」
表情が見えないのが幸いだ、と涼は思った。今この時の仲忠がどんな顔をしているのか、見たくはなかった。
次第に朱の陽は紅に変わって行く。
「親切な人達は、僕を抱き上げると、食べ物が欲しいのか、と聞いた。そうだと答えると、あげるからちょっとおいで、と答えた。うん、確かに親切にしてくれた。後で腕一杯の食べ物をくれて、またおいでと言った。僕は何って簡単だろう、と思ったよ」
簡単。
かもしれない、と涼は思った。この青年の小さな頃だとしたら。
「母上は僕が抱えてきた食べ物を見て、それは仏の思し召しかしら、と無邪気に問い掛けたよ」
「……」
「親切な方がくれた、と正直に僕は答えた。そう、と母上は答えた。間違ってはいない。あんなことで、食べ物がもらえるなら簡単なことだった。―――今でもそう思うけど」
「本当に?」
仲忠はうなづいた。
「だって涼さん、今だって、何がどう変わるというの。父上に引き取られて初めて、それが遊び女みたいなことと判ったけど、殿上人と遊び女と何が違うというんだろ」
涼は答えを探そうとした。だがそれは難しかった。何よりもそう口にしている仲忠自身がそう信じて疑わない。
「人のご機嫌をとって、沢山のものを貰って。それが食べ物でも金銀財宝でも美しい姫君でも大本は変わらないと思うけど」
くすくす、と仲忠は笑う。
「山へ行こう、棲もうって言ったのは、母上なんだ。あのひとも、さすがにだんだん僕のやっていることの意味が判ってきて。そんなことを僕にさせるくらいだったら、と先祖の琴を幾つも持たせて、清原家にゆかりの山に籠もったんだ」
それで山か、と涼は思った。
「十二の時に父上に見つかってからは、もうしごきにしごかれたよ。都で同じ歳まで育った子供に追いつき追い越せって」
「でも、君にとっては決して難しいことではなかっただろう?」
「ああ、それはね」
ふふ、と彼は笑う。そしてつと涼に近付くと、軽く口を合わせた。
「確かに難しいことじゃあなかったんだ」
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彼等が都へと出発したのは、四月一日だった。
親友の約束をした四人は、またすぐ会おう、と歌を詠み、杯を交わした。
また、なるべく早いうちに。涼は彼等の姿を見送りながらそう思った。