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第1話 その3 気がつくと管弦の宴、そして女性のはなし

「違うのではないのか? 宮というのは、帝の認めた皇子のことを言うのではないか?」

 涼は少し物心のついた頃、訊ねたことがある。

「だとしたら、私は違う。この屋敷も違う」

「何が違います」

 祖父―――神南備種松は即座に言葉を投げかけた。

「あなた様は確かに帝の胤。我が娘が粗忽にも時の帝に奏しあげなかったばかりに、こんな所に埋もれることに…」

 当時まだ壮年だった祖父は、そう言うと涙ぐんだ。

「もしも私の娘の腹に生まれて来なかったら、あなた様は親王にもなり、都で生い育つこともできたものを……」

 その母は顔も知らない。涼を生んですぐに亡くなった。

 彼は祖父母のもとで育てられた。

 母は帝に仕える女蔵人だった。心映え良く、美しい人だったという。

 それなりの家の出であれば、女御更衣として時めいてもおかしくない人となりだった。

 だが種松は決して身分の高い者ではなかった。

 紀伊の国では守、介に次ぐ地位にはあったが、都でその地位が何であろう。

 一方、北の方は大納言の娘だった。

 一度は結婚もしたが、その夫に先立たれ、そしてまた親にも。

 後ろ盾の無い女は、どれだけ身分が高くとも落ち行くばかり。

 先を不安に思っていたところに種松の手が差し出された。明日をも知れぬ身には拒むすべも無かった。

 とは言え次第に夫婦として慣れ親しむうちに、女の子を一人授かった。

 やがてその娘が美しいという噂が当時の守から、更にその上へと広がり、娘は女蔵人として召し出された。

 やがて浮かぬ顔で戻ってきた娘の腹には、帝の胤が宿っていた。

 種松は宮中に居辛かった娘の気持ちは理解できた。そのままそっと子を生ませ、母子共々静かに暮らさせるのも良かった。

 だが娘は涼と引き替えの様に亡くなった。

 残された子が並みの子だったら、ただの自分の孫として育てても良かった。だが。

「いつか必ず、あなた様は帝の元に戻ることが出来ます。その時のために、私はどんなことでも致します」

   *

 その種松がこの日、彼の客人達のために自ら宴の支度をした。

 涼は用意された礼服を着て、寝殿で客人達と酒を飲み交わし、楽器をかき鳴らす。

 種松はその様子を陰から実に嬉しそうに眺める。

 何度か杯を交わした後、赤らんだ顔の仲頼が上機嫌で言う。

「俺は本当言うと、こっちへ伺う予定ではなかったんですよ。予定ではね。粉河の寺へ行くことになっていたんですな。でももうそんなこと、どうでも良くなってしまったみたいですよ」

「それはそれは」

 涼は笑みを浮かべる。

「粉河行きの話をしていた折りに、松方がこちらのことを申しまして。それを聞いたらもう居ても立ってもいられなくなって、こうして来てしまったという訳で」

「がっかりしたのではないですか?」

「いやいやいやいや」

 大きく手を振る。

「来た甲斐あったというもの。涼どの、どうしてここに籠もってらっしゃる。都へぜひお出で下さいな」

「田舎者よ、と笑われるのが関の山ですよ」

「東宮がお望みですよ」

 行正が口を挟む。

「珍しい音を出す楽人をぜひ手に入れたい、と御所望です」

「それならあなたがたがいらっしゃる」

「いやいやいやいや」

 再び仲頼は手を振る。

「俺や行正はいい。だがこの仲忠なかただときたら、東宮どころか帝の度々のお召しにも、琴だけはと言う頑固なうつけ者。琴の音に憧れる者がどれだけ都には居ることやら」

「別に僕は、嫌だ嫌だと言っている訳じゃあないんだけど…」

 仲忠はほんのりと染まった頬を軽く握った拳で支える。

「別に自分の琴が良いとかどうとか考えたことは無いから」

「そんなこと言って、なあ」

「ねえ」

 二人は顔を見合わせる。

「でも僕も、涼さんが都に来たら嬉しいなぁ、と思うんだ」

 にこにこ、と仲忠は笑う。

「笑い者になるのが辛いですね。私の噂が都にまで伝わったというだけでびくびくしておりますのに。これで都で人付き合いなどしたらもう」

 涼の表情は変わらない。

「でも東宮はおっしゃってたよ。ご自分は身分のために軽々しく出かけることはできないから、僕等が羨ましいって。風の噂に聞く叔父の一人とぜひ会いたいって」

 そうですね、と涼はただ答えるだけだった。

 ひと月の間、仲忠、仲頼、行正の三人は吹上に滞在することとなった。

 三日の節句には、神南備種松が手づから彼等の為にもてなしをしてくれた。

 それだけではない。彼等の連れてきた供人達の席をもずらりと並べ、大饗宴が行われた。

 酒を酌み交わすはもちろん、食卓の打敷に描かれた胡蝶や鶯などを題材に、あるじである涼共々歌を詠む。

 ほろ酔い加減の中、誰かしらが楽を始める。

「君も一つ、どうですか」

 涼は仲忠に勧める。仲忠は黙って傍らに置いていた袋を彼に差し出す。

「あなたに」

「何でしょう?」

 やや、と開いた途端、仲頼も行正も声を上げた。

「仲忠お前、それはもしや」

 仲頼は思わず身を乗りだし、涼の手の中にあるものに目をやる。

「琴ですね…… 何やら実に、手にしっくり来る」

「『やどもり』と言います」

「ああやっぱり!」

 行正もまた嘆く。

「祖父とおっしゃると、あのかつての治部じぶ卿、清原俊陰きよはらのとしかげどのですね」

「はい」

 仲忠はうなづく。

「祖父が外国とつくにから戻って来た時には、この他にも幾つかあったのですが、あちこちに散らばってしまって」

「ああ、そんな貴重なものを。いけない」

「いいえ。これは母の勧めでもあるのです」

「母君の」

 仲忠の母のことは、涼も噂で聞いていた。「三条の北の方」と呼ばれている、右大将兼雅の一の人。

 兼雅は既にその時、時の帝の女三宮を正妻に持っていた。一条に帝から送られた屋敷を構え、中に様々な身分の多くの妻妾を囲っていた。

 だがいつの間にかその一条の家を捨て、三条の屋敷に、そのひとの元にしか居着かなくなったと。

 それ程の方だ、と人々は噂する。

 と同時に、どれ程の方だ、と邪推もする。

 それがどちらかは涼には判らない。だが目の前の仲忠に似ているなら――― それは大層な麗人ではないかと思うのだ。

「『やどもり風』は宿守。家の守りの力を持つと言われています」

「それを私に。それは何と嬉しいことだ。しかしできれば、君にこれで一曲弾いてもらいたいものだが」

「僕の手など、大したものでは無いです。もうずいぶん弾いていないですから、かき鳴らすことも考えてなくって」

 仲忠は素っ気なく言う。ああまただ、と仲頼はびしゃ、と額を叩く。

「あ、その、仲忠はこういう奴ですから」

「いえいえ、琴を弾かれる方は、その時を選ぶべきだと思いますからね。彼が弾きたくないのなら、今はその時ではないのでしょう」

 涼はやどもり風の調子を合わせ、一曲弾き始めた。

 三尺六寸。きんは、和琴や箏に比べ小振りである。だが太さの違う七弦をそれぞれ異なった調子で合わせた時には、どんな楽器よりも幅広い音を作り出す。

 やがて皆、つられるかの様に、ある者は笛を。ある者は箏を。またある者は声を張り上げ、いつの間にか宴の場には音が溢れていた。

 笛を手にした仲頼はすっかりいい気分になって言う。

「主上の御前で色んな節会せちえごとに、皆腕前を惜しむことなく演奏するけど、俺は今日のこの合奏ほどに素晴らしいものは無いと思うぞ」

「左大将どのの春日詣の宴の折の演奏も素晴らしかったけど、私も今日の方が楽しいです」

 琵琶を手にした行正も言う。

「それにしても、涼さんの琴は、珍しい手ですね。祖父の奏法にも何処か似ているかも」

「それは光栄だ。私の師匠は、既にこの世には亡い人ですが、そのことを聞けば、きっと喜ぶでしょう。ところでこの世と言えば」

 顔を向けられた行正ははっとする。

「左大将、正頼まさよりどののところに美しい方がおられるとか」

「そういうことは仲頼が詳しいでしょう」

 素知らぬ顔で、行正は友人へと回す。

「俺が? 俺は別にそういう話に詳しいという訳じゃ」

「けど最近じゃ、宮内卿どのの愛娘の所へ通っているという噂じゃないですか? さぞその方は美しい方なんでしょう」

「通うところの一つや二つなくてどうするんだよ。だいたい都にはいい女が一杯いるからな。『いい女一人妻にするより、大したことない女二人を妻にしている奴の勝ち』が都というものさ。だから俺の様な奴でも婿としてやっていけるんだよ」

「あれ、……と言うことは、仲頼さんには決まった方がいたの?」

 仲忠は大きく目を見開き、問い掛ける。

「あのね、仲忠君」

 行正は苦笑しながら友人の背を叩く。

「この歳になって、女の一人も居ない君の方が不思議ですよ」

 その手を払って仲忠はふくれる。

「別に居ないという訳じゃないよ。父上の女房の中には綺麗な人が居たし……」

「でもせいぜい召人でしょう? そんなこと言ったら、彼など両手では数え切れないでしょう」

 行正は断ずる。

「だけど涼さんだってお独りの様だし。別に僕一人そうだって、誰が困るって訳でもないでしょ」

 ねぇ、と仲忠は同意を求める様に涼の方を見る。

 そうだねぇ、と涼は微かに笑う。

 いやいや、と仲頼は手を振る。

「どんなに四季折々の美しい花々、木々、鳥、海の景色、名手を集めての遊びをしたところで、独り身ではつまらないと俺は思うんだ。こんな美しいのに――― いや、美しいからこそ、独りで見るなんてたまらないと思うんだ」

「そうですか? まぁそうかもしれませんね」

 涼はゆったりとうなづく。

「別に私も、好きで独り住みしている訳ではないのですが。と言って、こんな都から遠く離れた場所まで、わざわざ連れて来たい様な方も居ないことですし」

「いやいやいや、俺には駄目だ」

 仲頼は両手を大きく広げる。

「やはり誰かが必要だと思うんですよ」

「君の場合はそれが宮内卿の方だと」

 行正はしつこく話をそこまで戻す。

「ではやっぱり綺麗な人なんですね。綺麗なものが好きな君が、それほど入れ込むなんて」

「知らないね。もしそうだとしても、お前にどうして言わなくちゃならない? お前こそ、例の姫に、弟君を使って文を渡しているというじゃないか」

「それを言うなら君だってあの方には」

 即座に行正は切り返す。

「何を言う。美しいと噂される姫君に求愛の歌一つ送らないで何が都人だ。だいたいこの仲忠ですら、折々に文を送っているということだぞ…… そうだな? 仲忠」

 ふふ、と仲忠は笑って答えない。

「ほらいつもこうなんだから。涼どの、こうやっていつも仲忠ははぐらかしてしまうのですよ。女のことについては」

「別にはぐらかしている訳じゃないよ。確かに僕もあて宮には文を送っているんだから」

「あて宮」

 涼はその名を繰り返す。

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