封筒を手にした私は、あまりの衝撃に血の気が引き、震えていた。
嘘だ…そんなの…。
「何をしている?」
静かな声に、私は弾かれたように体をビクつかせた。
顔を上げると、そこには焔がいた。彼は私の顔を一瞥した後、床に置かれた木箱を、そして私が手にした封筒を見た。
「…車の鍵を忘れてな。なぜここに?どうやって入った?」
すると、焔は机に目を向けた。そこには、天宮から借りたマスターキーが。彼はため息をつき、ゆっくりと私に厳しい眼差しを向けた。
「…天宮か」
私は顔を伏せる。当然ながら彼の声には怒りが滲んでいた。
「詳しい事情は後で聞く。とにかく、今は出て行け」
いつになく厳しい声を受けながら、私は手にした封筒を見つめていた。
封筒に書かれたたった二文字が、容赦なく心をえぐる。視界は滲み、ぽたりと静かに涙が床へ落ちた。
「凪、出て行け!」
焔は「これ以上踏み込むな」とでも言わんばかりに、冷たく厳しい視線を向ける。
でも、だめだ。
ここで引き下がったら、きっとこの人は──。
私は覚悟を決めて、拳を握りしめた。
「嫌です」
私の言葉が予想外だったのか、焔の目が僅かに揺れた。そして、彼の視線は再び木箱へと向けられる。
「…見たのか。血判状を」
「焔さんも、磁場エネルギーの場所を聞いていたんですね。なのに…どうして私に探させるようなことを?」
焔は浅く息を吐き、冷静な声でこう告げた。
「…私の祖父は持病持ちで、人狼族に詳しい幸村藍子から治療を受けていた。その関係で彼女の研究にも協力していて…磁場エネルギーの場所も聞いていた。だが、血判状を残した後、私に伝える前に襲撃で死んだ。血判状に名前はあるが、私は知らない」
そう言い終わると、彼は私を真剣な目でじっと見据えた。
「本当だ」
私はゆっくりと頷く。嘘はついていない。そう直感した。
「本来なら、私がその場所を受け継ぐべきだった。それなのに君だけにこんな重圧を背負わせることになって、責任を感じた。だから…」
「私のことを、守ってくれてたんですね」
「…ああ」
聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
ずっと疑問だった。どうしてこの人はこんなに私を守ってくれるのかと。その答えのひとつが、これだったんだ。
だけどもうひとつ、この人に聞かないといけないことがある。
「…血判状のことはわかりました。でも、焔さんの秘密は…それだけじゃ…ないですよね」
「何が言いたい?」
「焔さん。凄く大事なこと、隠してる」
その瞬間、私の手から封筒が滑り落ちた。
小さな音を立てて床に落ちた封筒。焔はそれを一瞬見つめ、顔を上げる。
滲み出る焦燥と悲しみ。彼のこんな顔を見るのは初めてだ。
でもそれが、封筒に記された彼の「覚悟」が、紛れもない事実だと物語っていた。
やがて、焔は深くため息をつき、呆れたようにこう言い放った。
「…君は祖母が何を託したのかを知りたくてSPTにいるはずだ。いつから私の事情に立ち入るのが目的になった?」
「それは…」
「これ以上干渉するな。君にはまったく、関係のないことだ」
すると、彼はパンッと手を叩いた。
「話は終わりだ。さあ、出て行け」
私は動かない。
ここで終わらせるわけには、この人をこのままにするわけには、いかないんだ。
「凪?いい加減に──」
「私と勝負してください!」
焔の言葉を遮るように、私は鋭く声を放った。
「…何だと?」
数秒の沈黙。時計の秒針だけが、無機質に響く。
「勝手に部屋に入って、ごめんなさい。でも、知ってしまった以上、磁場エネルギーを見つけて私だけのうのうと元の世界に帰るなんて、そんなことできません。…私と勝負してください!私が勝ったら、焔さんが今隠したこと、包み隠さず話してもらいます!」
私の言葉を受け、焔は驚いたような表情を浮かべた。だがやがて、彼は目を細めて、冷たく私を睨みつける。
「…君が私に…勝つだと?」
我ながら馬鹿げてる。普通に考えたら勝てるわけがない。
だけど──。
頬に熱が伝う。
私は唇を噛み、負けじと焔を睨みつけ、声を振り絞る。
「本気です!!」
焔は僅かに目を伏せるが、私の覚悟を感じ取ったのか、ゆっくりと向き直った。
「…そこまで言うなら、受けてやってもいい。だが…私が勝ったら、冷蔵庫にあるピクルスを全部食べ切るだけでは済まさんぞ」
焔は一歩踏み出し、威圧感を纏いながら、こう告げた。
「負けたら金輪際この話はするな。それが条件だ。どうだ?」
「…望むところです」
一歩も引かず、睨み合う私たち。
重苦しい沈黙が場を支配した、その時だった。
「ルン♪ルンルン♪」
遠くから聞こえてくる陽気な鼻歌。
軽快なリズムに乗せて、ご機嫌な調子でヤトが執務室に向かってくる。
だが、執務室の扉をくぐった瞬間──。
ピタッ。
場の張りつめた空気を察したのか、ヤトは即座に床に降り立ち、固まった。大きな瞳で私と焔を交互に見て、羽をバタつかせる。
「ど、どうしたの?二人とも…」
私は答えなかった。
涙ぐんだまま執務室から飛び出し、そのまま自分の部屋へ。大急ぎで鞄に財布や着替えを手あたり次第に詰め込んだ。
そこへ、慌てた様子のヤトが飛び込んでくる。
「な、凪?どうしたの!?」
「出ていく」
「ええ!?」
「これから真剣勝負する人と、同じ屋根の下でなんて暮らせないもん!」
私は鞄のファスナーを閉め、足早に玄関へ向かう。
靴を履き、扉に手をかけた時──。
「凪」
背後から名前を呼ばれ、私はピタリと動きを止めた。
喉が詰まる。胸が軋む。
何度も助けてくれた、大好きな人。
こっちの世界に来てからずっと、私はこの人の強い背中を見続けてきた。
声を聞いただけで一気に愛おしさが込み上げる。
でも今は、ここから離れなきゃいけない。
私は深く息を吸い込み、振り返る。精一杯、毅然とした表情を浮かべて。
「勝負は二週間後。どうですか?」
焔はしばらく私を見つめた。そして、諦めたように静かに頷いた。
「…いいだろう」
次の瞬間、私は扉を開けて全速力で駆け出した。生ぬるい夜風が頬をかすめる。
自分がやるべきことがわかった。
私は絶対に、この人を──焔さんを止めるんだ。