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第95話 家族

 目を開けると、世界は白く霞んでいた。


 霧…?


 次の瞬間、ひゅうっと風が吹き抜け、霧がゆっくりと晴れていく。

 現れたのは、壮大な山々。小鳥のさえずりが響き、僅かににわか雨のにおいが混じる中、私はゆっくりと息を吸い、周囲を見渡す。


 ここは、一体?

 私は眠っていたはずなのに。もしかして、夢を見ているのだろうか。


 その時、唐突に「ガァ」という鳴き声が背後で響いた。振り向くと、無数のカラスが楽しげに空を舞っている。

 やがて数羽がふわりと舞い降り、黒煙が彼らの体を包み込む。そして、煙が晴れると、そこには人間の姿があった。


 ふくよかな男性、背の高い女性…。

 カラスたちはあらゆる姿へと変わっていく。


 …まさか、ここは八咫烏の村?


 すると、突如カラスたちの視線が一斉にある方向へと集まる。視線を追うと、霧の中から微かに人影が見えた。


 あれは…。


「…長官さん!?」


 現れたのはSPTの長官、橘龍之介だった。だが、私が知る長官とはどこか違う。長官は白髪混じりだが、目の前の長官は髪が黒く、頭もふさふさ。どうやら、これは過去の出来事のようだ。


 すると突然、長官の前で風が渦を巻き、砂埃と木の葉が激しく舞う。

 風が収まると、そこにはひとりの男性が立っていた。年齢は五十代くらい。灰色の和服を身に纏い、穏やかな笑みをたたえている。


「お待ちしておりました。ようこそ、八咫烏の村へ。長老の獅童しどうと申します」


 この声、聞き覚えがある。

 あれは──。


 私が思いを巡らせる中、長官は獅童と軽く言葉を交わし、羽織っていたコートからひとつの石を取り出した。獅童は静かにそれを受け取り、まじまじと見つめる。


「これが、並行世界を渡ることができる『境界石』ですか。なんと美しい…。確かに、お預かりしました」

「八咫烏の一族が力を貸してくれるとは、なんと心強いことか。藍子さんも安心でしょう」


 私は息を呑んだ。突然、おばあちゃんの名が出たからだ。


「いえ、私自身、もうひとつの世界を見てみたかったのですよ。こちらの世界との違いを知るのも一興ですから。藍子殿の護衛は、我々八咫烏の一族が交代で責任を持ち、遂行いたします」

「申し訳ない。SPTにもっと人員がいれば…」

「お気になさらず。私たちの一族は好奇心旺盛な者ばかり。皆行きたいと騒いでおります。それに、これは八咫烏の修行にもなりますから」


 私は固唾を飲んで二人のやり取りを見つめていた。どうやら、獅童も八咫烏らしい。人間の姿なのは、変化しているからだろうか。すると、長官が少し言い淀みながら話を切りだす。


「実は…身勝手ながらもうひとつご相談が…」

「はい?」

「あなたたちは八咫烏として導く役目を果たすため、人間のもとで修行すると聞きました。修行中の八咫烏を一羽、SPTで預からせていただけませんか?」

「ええ。もちろん。すぐに行けそうな者は…」


 獅童は考え込むように空を見上げる。すると、突然彼の瞳が大きく見開かれる。視線を追うと、どこからか微かな鳴き声が聞こえてきた。


「ぴゃあぁぁぁ……!!」


 この雄叫びは…!!


「ヤト!?」


 あの特徴的な声、間違いない。次の瞬間、ヤトは勢いよく旋回し、獅童の懐にボフッと飛び込んだ。


「父さま、聞いて!俺、天敵のフクロウと友達になった!」

「ほう」

「話してみたら、すっごくいい奴だったよ!さっき一緒に滝に水を飲みに行ってさ!楽しかったあ~」


 ヤトはそう矢継ぎ早にまくし立てる。どうやら、獅童は彼の父親らしい。今より一回り小さいヤト。それでも元気さと明るさは変わらない。大はしゃぎするヤトが可愛くて、私はくすりと笑った。

 一方、ヤトは長官を見つめて瞬きをする。


「誰?このおじさん」


 すると、獅童が優しくヤトの頭をぺちっと叩いた。


「こら。この方はSPTで一番偉い人だよ」

「ふーん」


 ヤトは興味がなさそうに足で頭を掻く。だが、長官はヤトをじっと見つめていた。その眼差しは不思議なほど真剣さを増していく。


「獅童殿。この子は…ご子息は、修行へは行かないのですか?」

「ヤトですか?…この子は末っ子で詠唱も半人前。修行には早いでしょう。せいぜい、あと三年は村で過ごしてから…」

「やだ!俺、今すぐ修行に行きたい!」


 獅童の腕の中でヤトが勢いよくバサバサと羽を広げる。キラキラおめめで抗議するヤトを、獅童はなだめるようにそっと頭を撫でた。


「こらこら。修行に行くなら、少なくとも人間に変化できなければならないよ。その詠唱は失敗続きだろう」

「う…そうだけど…明日…明日には!絶対変化できるもん!」


 ヤトは声を張り上げるが、獅童は笑いながら聞き流す。どうやら、ヤトは人間の変化に苦戦しているらしい。すると、やり取りを見守っていた長官がゆっくりと口を開いた。


「彼を…預からせていただけませんか」


 その瞬間、ヤトと獅童は同時に目を見開いた。


「え!?いいの!?わああ〜行きたい!」


 しかし、獅童は困り顔でため息をつく。


「橘殿、ヤトはまだ…」

「詠唱の練習なら、SPTで思う存分できるようにします。実は探していたのです。とびきり明るくて、元気な子を」

「…なぜ?」

「一緒に暮らしてもらいたい青年が、心を閉ざしていて…。この子ならきっと彼も心を開いてくれるでしょう」


 すると、途端にヤトから笑みが消え、ぷっくりと頬を膨らませる。


「誰?そいつ。言っとくけど、俺根暗は嫌いだよ」

「彼はね、人狼族の生き残りだよ。分家とはいえ、御影の血を引いている」


 長官の言葉に、ヤトと獅童が驚きの表情を浮かべる。


「じ、人狼族!あの!?」

「なんと…!あの人狼族最凶と謳われる御影一族の者が、SPTにいるのですか?」


 長官は静かに頷き、話を続ける。


「先月まで私の屋敷にいたのですが、一人で暮らすと言い出しましてね。親心と言いますか、少し心配で。そこで『導く者』として八咫烏を一羽、どうか彼の傍に置かせていただけませんか」


 すると、ヤトの目がとびきり輝いた。


「父さま!俺行きたい!人狼族の傍にいたら、きっと俺も強くなれるよ!」

「ふむ…」


 獅童は少し考え込むように目を伏せた後、ヤトにこう告げた。


「…二ヶ月に一度は村に帰って近況報告。ちゃんとできるかな?」


 獅童の問いかけに、ヤトはパッと顔を輝かせた。

 ヤトはするりと獅童の腕から飛び出し、嬉しそうに空を舞う。


「うん!わぁーい!人狼族かあ…俺、友達になれるかなぁ?」


 期待に満ちた声で呟きながら、ヤトは二人の頭上を飛び回り、ふわりと獅童の肩に降り立つ。

 すると、長官は表情を引き締め、ヤトと獅童を見つめた。


「…実はね、君には彼の友達になって欲しいわけじゃないんだ」


 唐突な言葉に、ヤトと獅童は目を丸くする。

 長官は少し寂しげに、けれど確かな想いを込めて続けた。


「君には……彼の家族になって欲しいんだ」


 そう言うと、長官は深く頭を下げた。


 次の瞬間、私の体は、見えない力に引かれるように下がっていった。ヤトたちの姿が徐々に遠ざかり、私の視界は静かに闇に包まれる。


「ヤトが焔さんと一緒にいるのは、長官さんが連れてきたから…?」


 —…その通りだよ。


 私は肩をビクつかせた。この声は前にも聞いた「魂のおじさん」…いや、この声は…。


「…獅童さん?」


 沈黙が流れる。それが答えだった。

 今聞こえた声と獅童の声、まったく同じだったのだ。


「でもどうして?獅童さんは…もう亡くなったって…」


 —…まだやることがあってね。魂だけ、辛うじて残しているのだよ。


「そう…なんですか」


 —…この光景を、君に見せたかった。どう思った?


「…長官さんは、ヤトなら焔さんの家族になれると思ったんですね」


 —…そうだね。でも、それだけじゃないよ。


「え?」


 思わぬ言葉に胸がざわつく。

 それは、一体どういう…?


 —…よく考えてごらん。君ならきっと、もうわかるはずだよ。


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